6.
朝、目が覚めると眩しい日光が部屋に差し込んでいる。一瞬、遅刻が頭を過ったが今日は休みだ、アラームも切っていたのだった。時間を見ると既に朝の七時、どうもよく眠れたらしい。折角の休日なのだからいっそのこと二度寝をするのも悪くないが、太陽の光は残念ながら僕の目を完全に覚ましてしまったようで、布団に潜り込み目を閉じてみたところで眠気がやってくる気配はまるでなかった。
仕方なく、起き上がり背筋を伸ばす。
「顔洗って、朝ごはんでも、食べるか」
どうにもこうにも、自分の事というのは幾らでもルーズになれてしまうのが悪い所だ。就職して、一人暮らしを始めた頃は毎朝朝食をしっかり摂って、健康の為と日々を充実したものにしようと気張っていた気がする。
ああ、あの頃は休日になれば仕事中のメモを見返して自分なりに仕事のやり方を考えていたっけ。今となってはあれが役に立ったのかどうかも分からない。
「……仕事の事を、考えるのは、やめよう」
社員だった頃は、常に仕事の事を考えて、その為に色々な事を実践していたはずだ。休みだろうとお構いなく、少しでも役に立てるならと、考えて考えて考えて、そして失敗して潰れた。今はもう―――、そこまでの気力が残っていない。
手に取った菓子パンは既に消費期限が切れていたが、お構いなく袋を開けて口に放り込む。最近は、本当にこういうのを気にしなくなってしまった。悪い傾向だとは思っているけれど、どうにも、直せる気がしない。
口いっぱいに頬張り、ごくりと飲み込んだ菓子パンを、大量の牛乳で流し込む。一連の動作を終えるとゆっくりと息を吐いて思わず呟く。
「まずいなぁ」
味の話では無い。今日も、嫌な一日になりそうだという、未来への予測故だ。
最近、僕は休みの日というのを恐れている節がある。どうにも暇で、手持無沙汰で、そのせいか自然と過去の事を思い返してしまう。嫌な記憶ばかりを自ら探っては、まるで自ら精神の安定を欠こうとしているかのような仕草だ。全く、自分は何がしたいのだろうか。
「何か無いか、何か無いか……」
どこか出かけようか、しかしその当てがない。いや、そうだ、カウンセリングの本を買ってしまおうかなんて考えていたし、それはどうだろう? 本屋に買いに行って、帰ったらそれを読み耽る。少なくとも、馬鹿みたいにここで自らの神経をすり減らすよりは余程建設的な意見だ。
そう心に決めると鞄に財布を入れて外へと旅立つべく立ち上がり。
「っと、スマホを忘れた」
これと言って連絡が来る当てなど無いが、一応、スマホは携帯しておくべきだろう。
「ん?」
そう思って手に取った瞬間、画面に見慣れぬ変化が起こっているのが見えた。
「……通知だ。夕ちゃんから?」
画面を操作して、彼女が送って来た文面を読む。
『起きてますか?』
『起きてますよね』
『朝早い仕事だから早起きだって聞きました』
『昨日の話の続きがしたいんですけど、結局中途半端に終わっちゃったし』
『もう学校行く時間なんですけど、無視しないでください!』
最後には怒りのスタンプが綴られている。これは、うん、失敗したと言わざるを得ないようだ。音が鳴るのが嫌で、着信音はともかく、その他の通知音が鳴らないようにしているのだが、やはり良くないのかもしれない。直すべきなのだろうけど……、今はまだその勇気は無い。とりあえず、夕ちゃんには謝罪のメッセージを送っておこう。
そしてもう一つ。
「こっちは……」
別の人物から来ている通知を開く。そこにある文字を見て僕は、どうやら今日の予定は変更になると理解した。しかし、どんな格好で行けばいいのか、彼は、ちょっと、気分を損ねると、うるさそうだから。
結局、考えるのが面倒で普段着のまま外へ。向かう先は駅、電車に乗り、二つ先で降りる。向かう場所への道はまだ頭に残っている。ほんの数日前に訪れたばかりなのだから。
「朝に通ると随分印象が違うな」
ぼんやりと、そんなことを呟きながら道なりに歩くこと数分。辿り着いたのはたった二日前に同窓会で訪れた店だ。入り口には準備中の札が掛かっており、開いていないのかと近くで時間でも潰したいところだが。
「準備中の札は気にするな、か」
送られて来ていたメッセージを読み返し、意を決して戸を開く。奥からは店主が仕込みをしているのか包丁の音が聞こえ、カウンター席には見知った顔が一人。
「相川、来たか」
「ああ、うん。来たよ、財部君」
「財布と呼べと言ってるだろう。まあいい、そんなとこに立ってないで入れ」
実際、こんな場所に突っ立っていると店が開いているのかと勘違いを招くし、料理屋の入り口を開けっ放しというのも問題だろう。色々と考えたいことはあるけれど、ひとまずは中へ。
一昨日とは違い、非常に静かな店内だ。客、らしき人は財部君と僕だけで、しかし店主は僕らを無視して自分の仕事を続けている。一体どこに座るべきか、少し悩んで財部君から一つ空けて隣へと。
「とりあえず、呼ばれた理由を聞いても?」
メッセージには、暇ならばここへ来てくれとしか書かれていなかった。何の用事なのか聞き返しても良かったのだけれど、どうせろくな予定も無いのだからとここまで足を運んだわけである。
財部君は頬杖をついて僕の方を見る。
「お前は理由も分からずここに来たのか?」
「まあ、そうなるね」
「お人好しだな」
それはどうだろう。純粋に善意で来たというよりは、ただ単に暇を持て余していただけだ。それで呼ばれて出て来た人間をお人好しと呼ぶのは少々違和感が残る。
「まあ何でもいい。お前、囲碁は出来るか?」
「……囲碁?」
「そうだ。黒と白の石でお互いを囲い合うあれだ」
何だろう、なぜ囲碁の話が出て来たのか分からない。
「……いや、ルールもよくわからないけど」
よくわからない以上は、ひとまず正直に話すだけだ。流石に囲碁の存在ぐらいは知っているし、黒と白の石を使う事も知っているが残念ながらそのルールに関しては何も知らない。その手の遊びを僕はしたことが無いのだ。
「将棋は? チェスはどうだ?」
「残念ながら」
「何? そうか、当てが外れたな……」
何だろう、どうも何か当てにされていたみたいだけれど、期待に沿えず申し訳ないとしか言いようがない。
「よし、ならひとまず将棋のルールを覚えろ」
「え?」
「教本ならそこにある。盤もな」
彼は立ち上がると近くにあった棚の引き戸を開く。すると、そこには確かに本がずらっ、と並んでいる。そして遠目ではあったが確かに見えた、それは先程話に出た囲碁や将棋、チェスなどの教本だ。そしてその下の段にはそれらの盤や駒がある。
「……ここは、居酒屋、だと思ってたけど、居酒屋ではそういうゲームもやるものなの?」
「いや? まあ最近はそんな店もあるみたいだがな、普通は無い。ここは俺の店だからな、俺が好きな物を置いて悪い事は無いだろう?」
「財部君の店なの?」
「そうだが。誰かから聞かなかったか?」
足立さんは、財部君の知り合いの店だと言っていたはずだけど。まあ、彼女ならば話半分にしか聞いていなくて勘違いしたという事もありそうだ。それにここが彼のものだとすれば、合点が行くことも多いし。この前の同窓会で簡単に貸し切りに出来たのも、今もこうして準備中の店内に知り合いを呼び寄せるのも店主の知り合いと言うだけでは少々我が儘な話だ。それらの話はここが彼の店だという前提ならば、然程おかしなことも無いのだろう。
「まあそんなことは良い。ひとまず将棋だ。ほら、これを読め。さっさと動かし方を覚えろ」
押し付けられた将棋の教本、若干、面倒だなという思いは拭えなかったが、しかし彼の期待するような、きらきらとした瞳に負けて僕はその頁を開き出す。将棋というゲームのルール、勝敗の決め方、駒の並べ方や動かし方、特殊な動きや反則についてなどを、じっと読み続ける。
「ほら、もういいだろ。ひとまず動かしてみろ。こういうのは手を動かして覚えるものだ」
そしていつの間にか彼が持ってきていた盤の上に実際に駒を並べ、駒の動きを実践する。やってみれば成程、そこまで難しい事も無い。勉強で物事を覚えるのと大差ないように思えた。
「……たぶん、大体動かし方は分かったかな」
「よしよしよし、なら早速一局指そうじゃないか」
「え?」
「なんだ? まさか将棋を覚えさせたのに他にやる事があるとでも思うのか?」
それはまあ、確かにそうだ。将棋を知らない相手に将棋を覚えさせたのなら、その目的はその相手と一局、勝負をするのが目的だろう。
「……じゃあ、まあ」
「よし! ひとまず先手はくれてやろう。好きにやってみろ」
好きにやってみろと言われてもどうしていいかわからない。そう思いはしたものの、悩み、考え、思い返し、本に書かれていたように角の道を空ける、その一手から対局が始まった。
対局が始まって数分、盤上にはもうどうしようもない程に囲まれ、追い詰められた状態の玉が残されている。
「まあ、詰みだな」
「ああ、これが」
成程、確かにどうしようもない。手持ちの駒は何も無いし、盤上の王を助けられる味方は居らず、かと言って逃げ場も塞がれて、正しく八方塞がりだ。どうやら僕はこの王を勝たせてやることが出来なかったらしい。
「思ったより弱いな。まあ初心者だからな。もう一度行くぞ」
「もう一度? ……まあ、いいけど」
手際よく並べ替えられる盤上の動きに、僕はまるで付いて行けていないようだ。多くの手勢を失い、それでも生き延びようと隅へと逃げて行った王を本来の位置に戻す。しかし不思議な事に、僕にはある予感があった。
きっとまた同じような結果になるだろう、と。
太陽が最も高く昇る、十二時。
「財布さん、昼食はどうします?」
店主が財部君にそう尋ねた。それに対して彼は手元にあった飛車を盤面に打ち、立ち上がる。
「そうだな、折角だから豪勢な食事にしよう。わざわざ来てもらったからな、盛大にもてなしてやろう」
そんな声が聞こえたような聞こえなかったような、僕の頭は二人の会話よりも目の前の盤面に集中している。真横から襲い来る飛車に対して、僕の王が取れる手は前に逃げるか後ろに逃げるか、或いは手元にある別の駒を挟んでみるか。しかしそれらの手は全て周囲にある他の駒によって無意味なものとされていた。飛車が打たれる前には分かっていたが、これで終わり。
「投了だ」
五戦五敗。何度やってみたところで財部君の壁は厚く、こちらから攻め入るどころか防戦一方のまま為す術も無く王を取られるばかり。良い手を思い付いたと一手打てばそれは読んでいたと言わんばかりに即座にその手の穴を突いて来る。
どうやら彼は僕のような初心者では相手にもならない強者らしい。
「難しいな……」
ひとまず、手元の将棋の本を開く。どうやら将棋とは基本的に数が物を言う勝負で、敵陣に攻め込もうと思うなら相手の守りよりも多くの攻め手を用意しなければならないという事は理解できた。しかしそれを準備しようと思っていると気が付いた時にはどこかに穴が出来ていてあっという間に攻め込まれて味方が壊滅してしまう。
「攻めるよりも守りを固める方が良いのか……?」
頁をめくりながらぼんやりと呟く。頭の中ではさっきの一局を振り返りながら負けた理由を探っていた。根本的には実力差というものなのだろうが、その実力差はどの場面で生まれたものなのかを知らねばならないだろう。
「相川」
不意に声を掛けられ、財部君の方を見る。
「楽しいか?」
彼の表情は不思議とどこか期待に満ちているように見えた。僕は、今の時間を、楽しんでいるだろうか、彼の期待に応える事が、出来るのだろうか?
「……分からない、かな」
「何だそれは。楽しいなら楽しい、そうでないならつまらないとはっきり言え」
今度は不満げに眉間に皺を寄せる。彼は、非常に感情が表情に出るタイプの人間だ。百面相のように表情をころころと変える彼の姿は、少し面白いと思う。
「将棋の楽しさを理解できているのか、正直分からなくて。こういう遊びは、全然、やったことが無いから」
「ああ~? 今時スマホがあるんだから、ゲームぐらいしたことがあるだろう」
「いや、僕は、別に」
「無いのか?」
「まあ」
スマホとは連絡手段でありながら調べものが出来る優れた機械だ。少なくとも、僕にとってはそれ以上の機能はいらない。
「……変わり者だとは思っていたが、想像以上だな」
「はあ」
変わり者である財部君に言われると何とも、不思議な気分だ。
「まあそれでもいい。どうだ、将棋で勝ちたいとは思うか?」
なにせ、こんなよくわからない人間に、こんなよくわからない質問をして来るのだから。
「まあ、勝つのがこのゲームの目的だから、一度ぐらいは勝たないといけないのでは?」
少なくとも僕は、自陣の王を勝たせてやりたいとは思う。残念ながら僕の実力でちっともそれが叶う気配は無いのだけれど。とすれば僕に出来るのは目の前の本から勝利へのヒントを探す事ぐらいだ。
そんな僕を、財部君はじっと見つめていた。
「……何か?」
「いいや、お前を選んだのは正解だったと思っただけだ」
「はあ……?」
「まずは食事にしよう。なあに今日は付き合ってもらったからな、俺の奢りだ。金の事は気にするな」
相変わらず、金持ちらしい様子で彼はそう言う。ただし鼻持ちならないというよりはただ単純に気前が良いだけなのだろう。でなければ彼の周りにあれほど人が集まる事は無いと思うから。
食事は、同窓会の時にも思ったけれど、美味しい。今日は居酒屋料理とは趣を変えて和洋折衷のコース料理だ。残念ながら食事の内容に関しては僕の知識不足のせいでろくに解説も出来はしない。
「今日は昼からも大丈夫か?」
「まあ、特に用事は無いよ」
「ならば昼からも付き合ってもらおう。夕食もご馳走しようじゃないか、食事代は全て持ってやるさ」
有無を言わせぬその言葉は、僕にとってはある意味で心地いい。流されるだけでいいというのは、非常に楽だ。食事を奢ってもらえて、一日の暇も勝手に潰れて行く。こんなに運の良い事は中々無いだろう。
昼食を終えて、僕らは再び将棋をしていた。まあ飽きずに何時間もよくやれるもので、将棋というものが昔から人々に親しまれ続けている理由もなんとなく理解できるというものだ。ただし、一度も勝てはしないというのはどうにも心が折れてしまいそうにはなるけれど。
というか、だ。
「財部君」
「どうした?」
「……これ、面白い?」
不意に気になった。たぶん、十回目の投了の後に、思わず尋ねる。或いは、勝てれば面白い物なのかもしれないけれど、初心者を相手にただひたすらにぼこぼこにするのは、ある種の作業のようにも思えてしまうのでは無いだろうか。それはまるで、高校生にもなってひたすらに九九の計算をさせられているかのように。
「お前がそれを尋ねるのか?」
しかし財部君は逆に僕にそう尋ねた。質問に質問で返されるというのは、つまり。
「……そんなにおかしいかな?」
何か変な事を言ってしまったのだろう。
「普通、負け続けるのは面白く無いだろう。手加減しない俺が悪いと言えばそれまでだろうが、これまで一度も勝てずにいて楽しいのか? やめたいとは思わなかったのか?」
「……いや、まだ勝たせてやれてないから」
僕は、思わず盤上にいる自分の王を見つめる。まだ僕は彼を一度も勝たせてやることが出来ていない。少なくとも、ここに座った以上はそれこそが僕のやるべきことのはずなのに。不甲斐ないばかりだ。
「そうか……? まあいいか、お前の問いにも答えておいてやろう。何時間か、お前を負かし続けているわけだが……。これが中々に楽しいものだ」
弱者を蹂躙する楽しみというやつだろうか。
「だが勘違いするなよ。別に弱い相手をいたぶる趣味は無い」
早速釘を刺されてしまった。
「じゃあ何が楽しいの?」
「お前は勝とうとしているからな」
よくわからない。ここに座っている以上、勝利を求めるのは当然なのでは?
「分からないって顔だな。俺がこれまでに将棋に誘った相手はどのぐらいいると思う?」
「……財部君の周りには大勢いるから、相手には困らなそうだね」
「その通りだ。何年か前にこの手の遊びにはまってな。以来機を見ては適当に相手を見繕っては勝負をして来たが、どうにもこの手の遊びは俺の周囲にいる連中の好みじゃないらしい」
財部君の周囲にいる人達がどんな人達かというのは僕に分からない事だけど、仮に足立さんのようなタイプの人だとすればあまりこういった遊びは好きじゃなさそうだ。まあ、偏見だけど。
「最初は一応まともに相手をしてくれるがすぐに飽きるのか、勝つのも諦めて適当にやるようになるんでな。そういう奴とは打たないようにしていたらいつの間にか相手がいなくなった。尤も、今の時代はネットを介せば相手には困らない。適当に相手を探しては自分の能力を高める事は出来る」
「ならそれでいいのでは?」
「ふん、相手の顔も見えないのに何が楽しい。俺はこれで遊びたい、これを楽しみたいんだ。一番楽しめる方法を探すのは当然だろう」
良くは分からないけれど、ネットでやるよりは対面でやる方が楽しいと。相手の一喜一憂する表情とかが面白いのかもしれない。
「そこでお前に白羽の矢を立てた」
「僕に」
「お前は高校の時から頭は良かったからな。この手のゲームも得意だろうとな」
「当てが外れたようで申し訳ない」
「いや? 見事に当たったじゃないか」
思わず首を傾げる。僕は決してこれが得意とは思えない、現に負け続けているし。しかし財部君はそんな僕の思いとは裏腹に告げる。
「お前の手からはどれだけ負けても勝利を目指して工夫を凝らそうとしているのがよくわかる。これほど楽しい事は無い」
そういう、ものなのだろうか。僕には少し、難しい、そんな気がした。
夕方、残念ながら開店の時間が迫っているとのことで僕らは退店を余儀なくされる。
「てっきりあそこで夕食も頂くのかと」
「残念ながら今日は店休日じゃないんでな。ずっと邪魔をするのも悪いだろう」
「財部君の店じゃないの?」
「俺はあくまで店の持ち主であって経営には口を出す気は無い。ただあいつが店をやりたいと言ったからスポンサーになっただけだ」
スポンサーか、成程お金持ちらしい発想だ。
「これからどうするの? まだ少し夕食には早いと思うけど」
「決まっている。服を買いに行くぞ」
「服?」
「お前の服だ。俺の隣を歩くのにそんなしょぼい服では可哀想だからな」
まあ、確かにしょぼい服ではある。量販店でセールをやっていた時に買ったもので、確か五年、六年か? 何年前に買ったのかも正確には覚えていないものだ。残念ながら今の僕には服にかけるお金などあるはずも無いので破れるまでは着続ける所存。
「服にはあまり興味が無いんだけど」
「知らん。俺が決めた事だ、行くぞ!」
突然駆け出す財部君、仕方なくその後を追う。まずいなぁ、一体どんな服を買わされるのか、財布の中身が心配だ。
辿り着いたのは僕が前に行ったような大衆向けの量販店ではなく、近場にあった商店街の中。そこにある個人が経営しているであろう店だ。
「ここも財部君の店だったり?」
「単なる常連なだけだな、多少は融資しているがな」
それは単なる常連の域を超えているだろう。そう思いながら店に足を踏み入れて、
「あれ、財布っちとシッキーだ」
そこで見知った顔に出会った。
「足立? お前も来ていたのか」
「一昨日ここに良い服があるって聞いたからね。茜っちが今日は早上がりだって聞いたから一緒に来たんだ。今は奥で色々見てるよ」
あかねっち、は、遠野さんか。……今日も一緒に居るのか。
「二人は? 何か珍しいというか初めて見る組み合わせだけど」
「今日はこいつを俺の遊びに付き合わせてやってるのさ」
「さっきまで将棋をずっとやってたよ」
「将棋~? あのなんかぱちぱちするやつだよね」
腕をぶんぶん振りながら、あれはおそらく駒を打つ動作なのだろうけど、そう言い放つ彼女は間違いなく将棋のルールなど知らないだろう。そもそも将棋を表現する時にぱちぱちするやつと呼ぶのは正しいのかどうか、疑問だ。
「もしかしてシッキーって将棋めちゃ強いの? 名人なっちゃう?」
「ルールも知らなかったぞ。筋は悪くなさそうだったがな」
悪くなさそうだったのか。途中で僕の腕前を褒めるような事は一切言わなかったから下手糞なのかと思っていた。いや、これは社交辞令の類かもしれない。あまり過信するような事はすべきではないか。
「愛ちゃん、これは、って。財布君と、相川君?」
「一昨日ぶりだな」
「こんにちは……」
う~ん、どうも、妙な面子だ。この四人がこうして顔を合わすというのはいまいち、理解できない感じがある。
「二人って仲良かったの?」
「いいや、一緒に遊ぶのは初めてだな」
「遊んでたの? なんか想像つかないな」
「将棋してたんだって、茜っちはわかる?」
「将棋? まあ、一応ルールぐらいは知ってるけど」
「ほう? ならば今度一緒にやらないか?」
「この休みが終わるとしばらくは忙しいからなぁ。期待しないで待ってて」
三人の会話が弾んでるのを見て、僕は思わず一歩引いた位置へ。一対一でもろくに会話出来やしないのに、複数人の会話に混ざるのは無理だ。大人しく、隅っこで忘れ去られるとしよう。
「ってかさ、二人も服買いに来たの?」
そう思っていたところで足立さんがそんな話を振って来た。
「そうだとも。ここは俺の贔屓の店だからな、相川に見栄えの良い衣装の一つでも見繕ってやろうと思ってな」
「へえぇ~?」
足立さんの視線がこっちを向く。その目はまるで獲物を狙う獣のようにぎらりと光っている。背筋が冷えて思わず身震いした。
「じゃあさ、勝負しない?」
「勝負?」
「愛ちゃん、何言ってるの?」
足立さんの提案に対して三者三葉に疑問を呈する。ひとまず、僕としては何か恐ろしい気配がするので逃げたいのだけれど、まあ無理だろうな。
「誰がシッキーに似合う服を持ってこれるか全身コーデするの。面白くない?」
その宣言はつまり、僕はこれから着せ替え人形にされるという事だ。なんだか、頭を抱える話なのだけど。
「面白い! その話乗った!」
財部君は高らかにそう宣言し。
「まあ二人がやるなら私もやろうかな。自分のはもう取ってあるし」
遠野さんまで不思議と乗り気である。
「時間はどうする?」
「お前たちは時間はあるのか?」
「今日は何時でも大丈夫だよ。ね、茜っち」
「そうね」
「そうか、なら三十分と言ったところだな。それで実際に相川に着せて買い物が終わる頃には良い時間だ。勝者には夕食の店を選ぶ権利をやろう。無論、俺の奢りだ」
「お~、流石財布っち。気前いいねぇ!」
「そこまで言うなら本気でやりましょうか」
「よし、なら五十分丁度に始めよう。あと三十秒だ」
謎の緊張感の中、三人が壁にかかっている時計を見つめる。僕は軽い頭痛と共に床を見つめている。
「始め!」
三人が各々店の中に散って行った。一人残された僕は……、どうしよう。
「その辺で服でも見ていようか?」
ふらふらと視線を彷徨わせると色も形も様々な服がそこかしこに飾られている。さっきまでは足立さん達と出会った衝撃で店の内装などまるで見ていなかったけれど、こうしてみるとすごく、派手というか、
陽気というか、騒がしいというか。でも不思議と、嫌いではない。
まあ、服自体にあまり興味が無いから見て歩こうとまでは思わないけど。ならばどうするのか。
「……あ」
そこでふと、思い出す。スマホを取り出し画面を点ける。そこには無数のメッセージが届いているのが表示されていた。
『学校終わったんで朝の続きなんですけど、今日からテストで、六田の奴がめちゃくちゃ色々言って来てすごく腹が立つんです。どう思います?』
『それで終わった後は秋葉もなんか点は取れそうかとか聞いて来るし。意味わかんない』
『全然既読も付かないんですけど』
『また無視ですか!』
朝に引き続き、夕ちゃんが怒ってる。何というか、僕の所為だというのは分かっているのだけれど、この子いつも怒ってるなぁ。とりあえず、通知音が鳴るように設定を変える。今後はなるべく怒らせないようにしなければ。
「さて、何て返事をするべきかな」
文字を打ち込み、悩んで、消して、また打ち込む。この言葉で伝わるだろうか、何か間違った形で伝わったりはしないだろうか。あまりやって来なかったメッセージ上のやり取りに、時間をかけて言葉を考える新鮮な悩みに、思わず笑みを浮かべる。
ただまあ、あまりに長い時間悩んではいけないというのはすぐに学ぶことになったが。
「時間だ。二人共、負けを認める準備は出来ているか?」
不意に自信に満ちた声が店内に響く。ここは財部君の店ではないと言っていたけれど、随分自由にしてるんだなぁ。
「いやぁ、残念だけど私が勝つ未来しか見えてないかもね」
足立さんは財部君の言葉に乗って不敵な笑みを浮かべながら煽り返す。足立さん、ここ店の中だよ。
「そのノリにはついていけないから」
流石に遠野さんは落ち着いた様子で腕に服をかけてばちばちと火花を散らし合う二人の様子を遠巻きに見ている。もしも彼女まであの二人に混じるような事があれば僕は色々と諦める他無かっただろう。
「ふん、ノリの悪い奴だ。だがしっかりと準備はしてきたようだな」
財部君の視線は遠野さんが抱えている服に注がれている。
「早速勝負と行こうじゃないか」
そして思い出す。そういえば僕はこれから着せ替え人形にされるのだったと。スマホに目を落とすと書きかけの文章が残っている。僕は諦めて画面をそっと閉じ、三人に連れられるまま更衣室へと向かうのだった。
レジにて、手には店オリジナルの紙袋、その中には今日家を出る時に着ていた服が入っている。
「見損なったぞ、相川」
呆れたようにそう言って半目でこちらを睨むのは財部君だ。自分が選んだ服に票を入れなかったことを余程恨んでいるのだろう。
「そうだよシッキー、まさかそんな地味なのを選ぶなんて……。もっと冒険しないと!」
足立さんも同様、僕が着ている良く言えば落ち着いた色調の大人っぽい、悪く言えば無難で地味な服を見てお怒りだ。
「二人共見立てが甘いね。どうせ自分のが良いって言って三人共引かないんだから最終的に選ぶのは相川君でしょ? なら相川君が気に入りそうな服を持って来るのが一番勝率が高いに決まってる」
一人冷静な遠野さんは先の勝負における勝利の秘訣を語る。実際、財部君と足立さんが持って来たものは三人の評価でも鏡で見た自分の感想でも似合っていたとは思う。しかし、その、少し派手気味な色調やデザインは、普段から着るには少々ハードルが高い。少なくとも僕のような人間が着て良い物とは思えなかった。
結果、まあこれなら普段から着てもそう困る事は無いだろうと無難な選択に落ち着いたわけである。尤も、恐ろしいのはこの服の値段が幾らか、だ。そう高くないと良いけれど、そう思いながら肩にかけている鞄を漁る。
「待て相川。何をしている」
「いや、財布を出そうと」
「何っ? 俺の前で財布を出そうと言うのか!?」
財部君は、怒りの沸点が分からない。
「一般的には、商品はお金を出して買う物だと思うけど」
「俺の奢りに決まってるだろう! いつお前に金を出せと言った!」
「僕の物なら僕が買うのが当然では?」
三人揃って、いや、店員さんまで唖然としている。まずい、これは、相当に変な事を言ったらしい。
「……まあ、ほら、えっと、いくらですか?」
「カードで!」
わざわざ僕の前に踏み出して財部君がクレジットカードを店員さんに突き付ける。慣れた様子で機械を操作し支払いはあっさりと終わった。
「よし、行くぞ。夕食はどこへ行くんだ? 遠野」
「財布君の奢りならうんと高い所に行きたいところだけど、まあ焼肉かな。明日からしばらく忙しいから、肉を食いたい」
「はははっ! なら俺のおすすめがあるぞ」
「カルビある?」
「当たり前だ。無い店があるのか?」
「しらな~い」
呆然とする僕を置いて三人は夕食の相談だ。ようやく取り出した財布もどこへ行けばいいのか分からず宙ぶらりんだ。思わず三人の背中を見つめていたが。
「置いてかれますよ、早く行った方が……」
「あ、はい」
店員さんの声でようやく正気に戻り後を追いかけた。
焼き肉店の中は煙が凄まじく入り口で思わず足を踏み入れるのを躊躇う様相をしている。
「凄い煙だろう?」
財部君は声高々に叫んだが。
「排気設備が壊れてるの?」
「火事じゃないよね?」
女性陣からの評判はどうも悪い。しかしそれを聞いているのかいないのか、財部君は意気揚々と中へ入って行く。
「え~、入ってったよ」
「どうする?」
「まあ行くしかないでしょ。ほら、シッキーも行くよ」
足立さん、遠野さん、僕の順に店の中へ。中へ入ってみると、不思議と煙の臭いはそこまでせず、どうも見た目らか受ける印象と結果が嚙み合ってない感じだ。
「……これ、ほんとに煙?」
遠野さんが不審に思ったのか財部君に尋ねると、
「よく気付いたな」
彼は得意げに鼻を鳴らす。
どうも、話によると、これは煙を模した水蒸気であり雰囲気づくりの為のものらしい。しかし水蒸気が残るような場所では焼き肉の煙が残るのではないかと思ったが。
「ここは全部屋個室だからな」
個室内の排煙設備は彼曰く、完璧だそうでそれらを逃さず外へと出してくれるとか。しかし煙の無い店内を見ていて店主が寂しいと感じそれを模した水蒸気を漂わせるようになったとか。
「へ~、店主さん変な人だね」
足立さんがバッサリと切り捨てる。まあ、僕も、ちょっと思ってたけど。
「まあ変わり者だが肉の味は間違いない」
個室内に入ると、落ち着いた雰囲気で囲炉裏を模した机の上の焼き台には風情がある。メニューには美味しそうな肉の写真が幾つも載っていて思わず涎が出そうだ。
「ま、金は俺が持つ、ひとまず好きな物を頼め。飲み物は、酒はどうする? とりあえず日本酒は頼んでおくか?」
財部君が僕の方を見て尋ねて来る。覚えてたのか、まあ、二日前だしな。
「じゃあ、お願いします」
「シャンパンって頼んで良いの?」
「ああもちろんだ」
「じゃあ私それで」
「私は明日の仕事に響かないようノンアルコールで。ウーロン茶でいいわ」
いつの間にか入り口のところで控えていた店員が僕らの注文を次々と手元の紙に書き記して行く。
「肉はどうする?」
「茜っちの希望だし先に頼んで良いよ」
「そう? じゃあ」
遠野さんはメニューを見て少し悩み、そして。
「とりあえずこの頁全部四人前」
一般的な牛肉の部位が載っている頁を指してそう言った。
「え? あ、と、ちょっと待ってくださいね」
店員さんは困惑しつつもメニューの頁に乗っている肉の種類を全て書き記して行く。
「相変わらずよく食うな」
「そう? でも男の子が二人もいるんだし、このぐらい食べれるでしょ?」
「そうそう。私たちも負けないようにしないとね」
僕はちらりと横を見て、珍しい物を見た。いつも自信満々で不敵な態度を崩さない財部君が頬をひくつかせている。そして僕に顔を近付けたかと思うと小声で耳打ちした。
「お前は食う方だったか?」
僕は視線を向けぬまま軽く首を横に振った。
「そうか……」
暗い表情の彼の姿などこれから先に見る事があるだろうか? しかしそんなことはお構いなく、次々と肉が運ばれて来る。僕らの戦いが始まる。
結論から言うと、この二人、つまりは足立さん遠野さんの二人だけど、めちゃくちゃ食べる。足立さんが健啖家なのは知っていたけれど、遠野さんも同じぐらい食べるとは思わなかった。或いは、二人の仲が良いのはそういった縁があっての事なのかもしれない。やって来る肉を次々と焼いては頃合いを見て口の中に放り込む、その姿は見ているだけなら気持ちよいものもあったろう。
「はい、シッキーの分ね」
「財布君もどんどん食べないと」
残念な事に彼女らは気が利くようで僕らの皿が空いているのを見ると合間合間に次々と肉を放り込んでくるのだ。次々来るのでひとまず焼けた肉を小皿に避けているのだけれど、とりあえず、こちら男子チームの戦力不足感が否めない。
「相川、もうちょっとペース上げれないか?」
「いや、うん、ちょっと難しい」
だいぶ山のようになって来た皿の上の肉を見て財部君も少し青い表情を見せている。僕の方も、たぶん、似たようなものだ。肉が嫌いなわけではないけれど、流石は財部君おススメの焼き肉屋というか、良い肉を使っているのだろう、少し脂が多い。少量なら間違いなく美味しいのだけれど、うん。
ちょっと、いやだいぶ多いよ。
「そうだ、ここは絶品のビビンバなんかもあるぞ。頼んでみたらどうだ?」
財部君が唐突に声を上げる。これはつまり、肉から気を逸らそうという作戦なのだろう。これ以上頼まれてうずたかく積まれた日には僕らはここで倒れかねない。
「ビビンバかぁ……。愛ちゃんはどうする?」
「美味しいんでしょ? 私はもらうよ!」
「私はパスかな。どっちかって言うと白飯が欲しい」
「そうか……、絶品なんだがな。白飯も当然ある、大盛で頼むと良い」
必死だ。いやまあ、気持ちは分かるけど。ひとまず、足立さんがビビンバに夢中になっている間に少しずつでも食べ進めるとしよう。
「あ、こっちのカルビ全部貰っていい?」
「ああ、食え食え」
「愛ちゃんカルビ好きだよね」
「絶対一番美味しいもん!」
「子供舌だからね」
「あ~、そう言って馬鹿にする~」
「お前らは仲が良いな。よく二人で遊んでいるのか?」
「結構ね。高校の時の友達だと今でも付き合いがあるの茜っちぐらいだったし。今はシッキーともよく一緒にご飯食べてるけどね」
「そうなのか?」
「うん。丁度この前の同窓会の前にね、偶然再会してね~。それから何回か一緒にご飯食べてるよ」
「相川と足立はそんなに仲が良かったのか? 席順が前後だったのはぼんやり覚えているが」
「良かったみたいよ。一緒に遊んでると時々相川君の話してたからね」
「印象にないな……」
「シッキーとは放課後の図書室でぐらいしか話してなかったからね。クラスにいるとみかっちとかが話しかけて来るじゃん。シッキーと話す時はもっと落ち着いた場所の方がいいでしょ?」
「そういうものか……? いや、確かに変にからかうような奴がいるよりは一対一の方がずっと話しやすいか」
「みかっちはねぇ、どうしてもすぐに人の陰口言っちゃうタイプだったからねぇ。クラス内で馬鹿やってるぐらいの空気の時はいいんだけど普段はあんまりね」
「いっつも苦手だって言ってたもんね」
「私はもっと楽しい話がしたいの! どうせならさ、今度の休みに映画行くから楽しみとか、来月は運動会が楽しみとか、今日みたいに友達と遊ぶから楽しみとか、そういう話の方がテンション上がるじゃん! どうせなら楽しく生きた方がお得でしょ?」
「それは間違いないな」
「財布っちはその辺のフィーリングが合うからいいよね」
「遠野はいいのか?」
「茜っちあんまり毒は吐かないからね。寧ろ溜め込んで無理するタイプ」
「そんなつもりはないけど」
「この前も上司に無茶ぶりされて嫌だったって話、聞き出すまで全然しなかったじゃん!」
「……わざわざ言う事でも無いでしょ」
「友達の愚痴ぐらい聞かせてよ~」
「ダブスタだな、お前は。楽しい話しかしないんじゃなかったのか?」
「いやいや、辛そうにしてたりなんか怒ってるな~って雰囲気の時は別じゃん? ちょっと話聞いてさ、相手がハッピーな気分になれば私もハッピーなんだから、完璧でしょ?」
コンコン。
「どうぞ~」
「失礼します。ご注文の石焼ビビンバと白ご飯でございます」
「ありがとうございま~す」
扉が閉まると肉の焼ける音に混じって石焼ビビンバの音が奏でられる。音と共に鼻腔をつく香ばしい香りが漂い食欲がそそられそうなものだが、残念ながら今の僕にはそんなに余裕は無い。さっきのみんなの会話の間に肉を何枚か減らす事に成功したが、食べた枚数と同じぐらい皿の上に残っているのだから。
しかし、なんだか、意外な会話だったというか、その内容が、僕のイメージと違ったというか。
コンコン、と再びノックの音。
「……どうぞ」
「失礼します。ご注文のカルビと牛ハラミ、それにホルモンの三種盛りでございます」
どうやら肉の攻勢はまだ終わっていなかったらしい。宴はまだまだ続く。
食べ過ぎ飲み過ぎでふらついていた財部君に肩を貸しながら店を出る。本来なら他の二人にも助力願いたい所ではあったけれど、支払いの間に遠野さんはお酒に酔った足立さんを連れて先に出て行ったのだ。僕も食べ過ぎで気分が悪いのだが、贅沢は言えないというものだ。
「相川、お前は、酒が、強いなぁ」
財部君は真っ赤な顔で笑いながらバンバンと僕の背を叩いた。少し、痛い。
「僕は、あんまり、その、お酒で酔えなくて」
「そうなのかぁ?」
「でもなんとなく気分は良いよ」
「そうかぁ」
実際、多少は酔っているのだろうけれど、意識ははっきりしている、つもりだし、記憶が無くなったりなどは流石に無い。なんとなく存在する浮遊感というか高揚感というか、ぼんやりとした多幸感に包まれる気がするのは、おそらく思考が回り切らずに悪い部分まで目が行き届かないからだ。本当に酷くなるまで飲むなんてことは、滅多に無い。
戸を開けて外に出れば夏特有の、熱帯夜らしい蒸した空気がとどっている。これは、風に当たったところで気分が悪くなる一方かもしれない。ひとまず、慎重に階段を下りて行く。
「おい」
一段、下りたところで財部君が声を上げた。
「次……、次はぁ、いつ空いてる?」
更に一段、彼の言葉の意味を考える。
「次、って言うと?」
しかし分からない以上は考えても仕方ない。素直に尋ねる。
「次は次だ。決まってるだろ?」
酔っていて妙な事を口走っているのだろうか、そう思い彼の顔を見たが、どうも真剣な眼差しに見えた。すぐに足元に視線を戻す。
「……それは、つまり」
考えて、一応、結論を出してみる。
「次に遊べるのはいつなのか、とか?」
「それ以外ないだろう!」
急に飛んで来た大声に思わず階段を踏み外しかける。二人して手すりに必死で掴まり事無きを得たが、何とも危なっかしい話だ。が、
「はっはっはっはっは!」
不思議と彼は楽しそうだ。正直、わけがわからない。
「よし、じゃあ、俺が決める。来週はどうだ? 空いてる日はあるか?」
「……まあ、一応」
自分のシフトを頭に思い浮かべる、が、どうにも来週の予定ともなるとぼんやりとして思い出せない。
「金曜、だったかな? 休みだったような……」
「なにぃ? お前は、自分の休みも覚えてないのかぁ?」
「そうかもしれない」
再び財部君が笑い出す。きっと今は箸が落ちても面白い状態なのだろう。あまり気にしないのが良いかもしれない。
「まあいい、何でもいい。とにかく、お前、そうだな……。酔いが醒めたら改めて連絡するから、いいな!」
これは自分が何を言っているのかも分かってないかもしれないな。そんな風に思いながら頷き、二人、階段を下りて行く。
これまで僕は財部君と一緒に何かする事など無いだろうと、仮にあったとして、二度目があるなどとは考えたことも無かったが、どうやら違うのかもしれない。不思議なものだ。
階段を下りると、すぐ近くで足立さんが壁に背中を預けて座り込んでいる。その傍では遠野さんが呆れたように彼女を見守っていた。
「あ、やっと来た」
「ようお前らぁ。この財布様が払っておいたからな、感謝しろよぉ!」
「もちろん、神様仏様と同様に敬ってますよ」
「はっはっはっはっは!」
その後、やたらとテンションの高かった財部君には店の前まで迎えの車がやって来て、そのままどこかへと消えて行った。後で聞いた話では彼は会社を経営しているらしく、そこで雇っているドライバーなのだそうだが、真偽は不明だ。
残されたのは三人。素面の遠野さん、へべれけでまともに立つことも出来なさそうな足立さん、そして中間ぐらいの存在たる僕。
「……これは、解散でいいのかな?」
「そうなんだけど」
ちらっ、と遠野さんが地面に座り込む足立さんを、いや、いつの間にか寝息を立て始めている彼女の事を見た。
「どうにかしないとね」
「ああ、うん。そうだね……。タクシー、呼ぼうか?」
「それでもいいけどさぁ、体力には自信ある?」
その問いに僕は当然首を横に振った。振ったのだが、後で考えるに、彼女は僕の答えなど聞く気は無かったのかもしれない。
重い、とは口が裂けても言ってはならない言葉だろう。少なくとも女性を背負った今の状態でそんな言葉を吐こうものならどんな目に合うか、幸い周りにはほとんど人が居らず袋叩きにあう心配こそ無いものの、足腰がふらつきそうな僕は隣を歩く彼女の攻撃を避ける事など出来はしない。
要するに、軟弱な僕にはたとえ足立さんの体重がどの程度であったところで、背負って歩くには体力的にきついという話。
「頼むからこけないでよ? 愛ちゃんに怒られたくないし」
「……それなら、タクシー、呼ばない?」
「ん~、もうちょっと夜風に当たりたいかな」
この生温い風が然程気持ちいいとは思えないけれど、かといって僕に彼女の言葉を否定する気力もない。一歩一歩、転ばぬように慎重に、前へ進む。稀に擦れ違う車の音だけが響く夜の道は、本来ならば少々気まずい空間だったのかもしれない。しかし今の僕にはそもそも会話を始めようと思うだけの余裕などなかった。
「この前さ」
それが理由かは分からないけれど、遠野さんの方から先に口を開く。
「同窓会に相川君がいるのを見つけた時、正直びっくりしたんだ。こんな所来る人だったんだって」
それはあの場でも聞いた気がする。
「今日、財布君と一緒に居るのも正直驚いたし、二人が一緒に居るイメージわかなくてね」
それは僕も、未だによくわからない。
「愛ちゃんがさ、相川君の話を偶にしてたんだよね」
なんかそんなことを言っていた気がする。さっきの店で。
「あの時はだからさ、愛ちゃんの為にも連絡先を交換しておかないとと思ったんだけど、まあ同窓会よりも前から二人は再会してたってオチだったわけ」
「そう、だったんだ」
「……二人がさ、一緒に居た時間はたぶんそんなに長くないよね?」
その通りだ。高校二年の夏に初めてまともに話をして、そこからテストの度に勉強会をしていたが、それは長い学生生活の中のほんの一頁に過ぎない。今でも彼女が僕を友達と呼んでくれることに対して、どこか引け目のようなものを感じている。時間が人と人との間に結び付きを作るのだとすれば、僕が彼女に与えた影響なんて微々たるもののはずだ。
それなのに。
「これからも、愛ちゃんと仲良くしてあげてね」
遠野さんがなぜそう言ったのかは、僕にはわからない。それはきっとこれまでに勉強を怠って来たからだろう。人と人との関係性、家族、友達、恋人、嫌いな人に好きな人、敵や味方、ライバルや腐れ縁、隣人や知人なんてのもある。そういうものを僕は勉強しなければいけなかっんだ。
でも、僕は、それを、どうやって知ればいい?




