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間隔の公式  作者: 藤乃病


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5/9

5.

「聞いたんですよ、何で私にそうやって勝負仕掛けて来るのかって」

「そしたら六田の奴なんか口ごもってもごもご言ってて」

「私ちょっとむかついて、意味わかんないからやめろって言ったんです。そしたらなんかとにかく勝負しろの一点張りで」

「結局最終的にはなんかお前が勝ったら今後は勝負しないでやるとか、凄い上から目線じゃないですか? しかもそれって私にとって得無いし、今回は勝手に勝負が成立してる事になってるし」

「ほんと意味わかんない!」

 家庭教師の時間、夕ちゃんの部屋へと入った僕が真っ先にやっている事は彼女の愚痴を聞く事だった。思うに、帰って来た時に彼女が特に文句も言わず五時になったら来いと言ったのはこの愚痴を聞かせるためだったのだろう。

「相川さんが直接聞けって言ったからこうなったんですよ! 聞いてる!?」

 そんな事言ったっけ? いや、言ったかもしれない。前回、六田君及び秋葉さんの話を聞かされて、どう思うかと問われて、それに対して僕はとりあえず判断できるほどの事が何も提示されてないからもっと自分でやれることがあるんじゃないか、みたいなことを言ったんだ。

 これはつまり直接聞いてみればいいじゃん、とも捉える事は出来るな。

「わかった、から、ちょっと落ち着いて。話を整理しようか」

 じとー、っと睨む目が少し怖い。これが人に詰められるってやつか、どうにもこうにも、悪いことをしたつもりはないけれど、それでも恐ろしいものだ。

「とりあえず、六田君に何で勝負を仕掛けて来るのか聞いたんだね」

「そう!」

「でも彼はその理由を言わなかったんだ」

「そうそう!」

「で、それなのに彼は強引に勝負を仕掛けて来たと」

「そういう事! むかつくでしょ!?」

 う~ん、前回からあまり情報が増えてない。けれども、六田君側が情報を出し渋ってる、これは大きな価値がある事柄だ。聞かれたなら素直に答えればいいのに答えないという事は、何か後ろめたい事がある?

「……まあ、むかつくかどうかは置いておいて」

「はぁ?」

「あ~、じゃあ、ひとまずむかつくって事にしておいて」

 軽い舌打ちが聞こえた。あまり納得はしてないというか、むかつくって言って欲しかったんだなぁ。

「六田君が理由を答えなかった事に心当たりは無いんだよね?」

「あるわけないじゃん」

「でもほら、覚えていないだけで、例えば同じクラスになってすぐに何かあったとか」

「そんなの、無い……、と、思う」

「覚えてないんだ」

「まあ……、色々とちょっかい掛けて来るまでそんな奴がいるなんて気にしてなかったから」

 要するに、クラスメイトの事なんか気にしてなかった、という事か。何というか、そういうのは身に覚えがあるので少し心臓がきゅっとする。

「となると、実は元の原因が君の方にある可能性もあるわけだ」

「そんなこと!」

 空気が送られた風船のように勢いよく彼女は立ち上がり、

「ない、と、思う……」

 穴が空いた風船のように一気に萎んでいく。ふぅむ、夕ちゃんにとって六田君は本当にちょっかいをかけられるまで何も意識してなかった相手らしい。六田君に何か後ろめたい理由があって言わないのかと思ったけれど、相手が覚えていないことでとやかく言うのが気まずいから何も言わなかった可能性もあるか。

 さて、ここからどうしよう。家庭教師として、社会人として、失敗してしまった先人として、何を言うのが正解だろうか?

「六田君はどんな子?」

「え?」

「君との関わりでなく、クラスの中で、どんな子かなと思って」

 残念ながら僕には正解が分からない。そんな時はいつだって、まずは情報を集めてみるのだ。テストも同じ、分からないと思っても問題文のどこかにヒントが隠されているかもしれない。ひとまず、虱潰しに情報を集めてみよう。

「あいつは、まあ、クラスのお調子者、って感じ。男子の中で、いつもうるさいからいないとちょっと教室が静かになる」

「クラスを盛り上げるムードメーカーってやつだ」

「良い様に言えばそうかもね。私からすればうるさいだけだけど」

 しかしクラスの雰囲気を変えられるのは良い資質だと思う。夕ちゃんは下げるような事を言ってるけど、まあ、きっと明るいお調子者って感じなのだろう。そこだけ切り取った六田君はとても夕ちゃんにちょっかいをかけて来るようには思えない。いや、しかし……。

「……例えば」

「例えば?」

「クラスに馴染めていない子に対して声を掛けてその子とみんなの仲を取り持とうとする行動は、概ね称賛されるべきだと思う」

「は?」

 何を言っているのか理解できない、という表情。が、徐々に変化していく、言葉の意味を少しずつ汲み取って、そして。

「……もしかして、私がクラスに馴染めてないぼっちって言いたいわけ?」

「……いや、例え話で」

「馬鹿にしてる?」

「そういうわけでは」

 馬鹿にしているつもりはない、けれど。

「……でも実際そうなんじゃないの?」

 そうだとは思っている。

 つい口が滑ったそれの所為で夕ちゃんは即座に百面相の如く表情を変えて、怒りに燃えたと思えば、それを堪えるように歯を食いしばり、唐突に困惑したように眉根を寄せて、やがて溜息と共に全てを吐き出す。

「まあ、そう、とも、言えるかも、しれないけど」

 やっぱりそうなんだ。

「私は! 別に、その、一人でも生きて行けますから」

「そうかもね。僕よりはきっと上手くやれそうだ」

「何ですそれ?」

「……気にしないで。でもまあ、彼の行動がそういった想いから来たのであれば、一方的に悪と決め付けるのは違うかな、と」

「ありがた迷惑だとしても?」

「そこは……、どうだろうね」

 実際、難しいところだ。友を必要とせず一人ぼっちでも人間は生きていける。僕なんかが何とか飯にありつけて生きている辺りそれは間違いない。しかしそれを後悔せずにずっと生きていられるかは、難しい所だ。

 少なくとも僕は後悔して、だからこそ同じ轍を踏むような事はしてほしくないと思っている。少なくとも夕ちゃんはまだいくらでも未来を変えられる時期なのだから。

「……もういい。勉強する」

 とかなんとか、こちらが悩んでる内にどうでも良くなったのか夕ちゃんがそう言った。

「勉強、するんだ」

「どっちみち、六田の奴に勝てばこんなバカな事も終わりだから」

「あ~」

 そういえば、そういう約束になっているのか。僕としては邪魔をすべきかもしれないという気持ちすらあるのだけれど、

「家庭教師なんだから、勉強ぐらい教えられるんでしょ?」

 所詮僕は家庭教師。勉学を教えるのが本分であるはずだ。それを盾にされては断りようもない。

「とりあえず、今度のテスト範囲、一通りさらって行こうか」

 六田君、申し訳ないけれど君の考えが何であれ、君の味方をすることは出来なさそうだよ。

 その後、特にこれと言って変わったことは無く、強いて言うならば夕食の時間に遠野さんもいたぐらいか。それも単にいたというだけで、何かしら変わった事などありはしない。

 こうして少し変わった普通の一日が過ぎて行く。




 朝、目が覚めて考えるのは、仕事の事だ。

「今日は……、まあ、何とかなる、だろう」

 渚朝先輩がいない日の朝は少し憂鬱だ。先輩がいないという事は僕に指示を出してくるのは店長という事に他ならない。僕は、店長の事が、少し、いや、はっきりと苦手だ。

 重たい足を引き摺り店に到着、丁度荷物が乗ったかご車を取りに店長が外に出て来ていた。思わず背筋が伸びる。

「相川、お前の分は事務所に置いてあるから見とけよ」

「はい! 分かりました!」

 返事は背筋を伸ばして元気良く、そうしなければ何を言ってるか分からないと言われがちだから。昔よりは、ましになっているらしいのだけれど、僕は声が小さいらしい。何か言っても声が聞こえないと聞き返される事多数、学びに学んで今はとにかく勢いよく声を上げる事にしている。店長の前では。

 ひとまず着替えて、事務所へ。店長の字はあまり綺麗では無いが、しかし指示が分からないほどではない。やる事の順序を頭の中で組み立てる、それで大きく息を吐き。

「さあ、やろう」

 作業、開始だ。

 店長は、少し気まぐれな所があって、当初の指示からちょこちょこ変更になる事が多い。

「相川、そっちに持ってった菓子やっぱあっちに置け」

「はい! わかりました!」

「冷凍ケースの順番、やっぱこれはエンドに置いとけ」

「はい! わかりました!」

「跡辺が来たから向こうの飲料やらせとけ」

「はい! わかりました!」

 結構、これが、正直な所疲れる。指示自体に不満は無い。変更後の方がその前よりも大抵の場合良い、気がする。少なくとも僕の感性は多くの場合で変更後を支持するだろう。ただまあ、基本的にその辺りを事前に考えて指示をくれる渚朝先輩に比べると、純粋に作業量が増えるのだ。

 結果、妙に疲弊して、終わる頃にはへとへとだ。僕は社員だった頃、これをもっと遅い時間までやっていたらしい。正直、今となっては信じられない。

「今日も島田節炸裂でしたねぇ」

「ああ、うん。そうだね」

 跡辺君はこれを島田店長様による島田節と呼んでいるが、本人に聞かれるのが怖くないのだろうか。僕には末恐ろしくて真似できそうもない。

「先輩、時間っすけど。そこ後はやっときますよ」

「いいの?」

「この前ちょっと残ってもらったんで、そのお返しって事で」

「ああ……。じゃあ任せるよ。先に上がらせてもらうね」

「お疲れーっす」

 ひとまずタイムカードを打ち、着替える、前に、ちょっと喉が渇いた。自販機でお茶でも買おう。そう思って裏手に行くと、そこでは店長が煙草をふかしていた。

「……店で買うか」

 すかさず僕はUターン。店長と二人きりであの場にいるなんて僕には少ししんどい。どうせ買い物はして帰るつもりだったから、ついでに何か飲み物を買って帰ろう。そうしよう。




 家に帰った僕は、なんとなく、今日は特にやる事が無い日だ、そう思った。

「一応、勉強はしとかないとだけど」

 次の家庭教師の日に向けて勉強はしておくべきだ。しかし日が空いている。今日は火曜日、次の家庭教師は金曜日。なんとなく余裕がある日程だ。予習復習が毎日の日課だったとはいえ、どうにも、やる気に、満ちた感じがしない。

「……まあ、理由はなんとなくわかる」

 結局のところ、夕ちゃんは手がかからなすぎる。家庭教師として見た時の彼女は、頭が良くてこれと言って教えるべきことが無い子、だ。高校の時の足立さんのように赤点取るか取らないか、みたいな子の方がやるべきことは山ほどあっただろうに。

 まあ、このこと自体は喜ぶべき事なのだろうけど。

「こっちとしては、何をしていいのか、本当に分からない……」

 僕は彼女の為に何か出来ているのだろうか。足立さんに頼まれ、お金を払ってもらってまでやっている事だ。勉学にしろ、或いはそれ以外にしろ、何かしら夕ちゃんの為になる事を、彼女の人生にとってプラスになるような事をすべきだと、そういう責任が僕にはあると思っているけれど。

「僕には過大な期待だったかもしれないよ、足立さん」

 足立さんは僕に何を期待してこんなことを頼んだのだろうか。信用しているとは言われたけれど、三度の家庭教師業を通じて僕が出来たことは、精々愚痴聞き係ぐらいのものか。ああいう事は吐き出すだけでも精神の安定につながるという話はあるけれど、それだけしか僕の役目が無いのであればその価値は、王様の耳はロバの耳と秘密を打ち明けられた小さな穴と大差ない。

 要するに、僕は必要ないという話になる。

「……いっそカウンセリングでも勉強してみようか」

 今からでも本屋に行ってカウンセリングの本でも買えば彼女の愚痴に対して何かしら良い対応が取れるようになるかもしれない。まあ、自分でも、馬鹿げた意見だとは思う。

 しかし、だ。

「しかし、それでも……、足立さんの期待に応えられる気はしない、な」

 そしてそれは僕にとって、胸が引き裂かれるような痛みを伴う事でもあった。




 身の入っていない勉強にどれほどの価値があるのかは分からないが、僕はひとまず買っていた参考書を適当に読み漁っていた。一応、既に一度は目に通していたが、何度も読み返せば新たな発見もあるかもしれないと。ただ惰性で行う勉強だ。

 その時間を引き裂いたのは音、着信音だ。

「電話?」

 仕事で何かミスでもあっただろうか、そう思い今日やっていた事を思い返すが、少なくともわざわざ電話するほどの何かがあったとは思えない。

 恐る恐る、スマホの画面を見る。

「……足立さん?」

 意外、と言う程でも無い相手だ。冷静に考えてもみれば僕に電話をかけて来るような人は仕事の関係か、足立さんぐらいのものだろう。いや、足立さんも用件次第では仕事の関係かもしれない。

 呼吸を整え、電話に出る。

「あ、もしもし」

「シッキー? 今大丈夫?」

「え? ああ、うん。今は、特に何も無いよ」

「良かった~。じゃあ代わるね」

「え?」

 代わるね、って何?

 そう思っていたら電話の向こうから僕に向けられたものではない声が聞こえて来る。

「夕ちゃ~ん、シッキー出たよ~」

「ぁ~~!?ぃ~、ぅ~~!」

 たぶん、向こうで二人で何か話してる。声の大小の感じからして、夕ちゃんは二階にいるのだろう。そして流れから察するに今この電話は足立さんから夕ちゃんへとパスされようとしているのだろうけれど。

 ……何で?

 しばらく、そこそこ、それなりに、時間が経ってからようやく、

「やっと降りて来たからもうちょっと待ってね」

 という声が聞こえた。見てもいないのにもの凄く不満げな表情をしている夕ちゃんの顔が想像できてしまう。きっと小声で文句でも言いながら階段を下りているのだろう。少し待っていると、電話の向こうから彼女の声が聞こえ始める。

「……もしもし」

「はい、もしもし」

 ―――会話が、そこで止まる。

 これは何だろう、何の時間だろう。察するに、夕ちゃんが何かしら僕に用事があって電話をかけて来た、のだと思ったのだけれど、違うのだろうか? いや、それならば最初から足立さんでは無くて夕ちゃんが電話をかけて来るだろう。連絡先を知っている足立さんを挟むのは仕方ないにしても二階に逃げている必要はあるまい。

 じゃあ何だ? どうすればいいんだろうか? 電話を受けたのが足立さんや財部君、或いは渚朝先輩ならばこんな状況でもうまく対応できるのだろうか?

「あの」

 その悩みが解決するより早く、電話の向こうから声が聞こえた。

「今、時間、空いてますか?」

「え? ああ、まあ、そうだね」

「じゃあ、今から来てください」

「え?」

 想定外の言葉に思わず間抜けな声が出たのだけれど、それが向こうに届いたかは分からない。電話の向こうからは通話が切れたことを知らせる音が鳴っていたから。

「……どういう、事だろう?」

 状況が、色々と、分からないけれど。

「……まあ、来いと言うなら?」

 頭の中には疑問符が尽きる事無く浮かんでくるのだけれど、ひとまずそれを考えるのは後回しにして出掛ける準備を始め、そして家を出たところでふと思う。向かう先は足立さんの家で良いのだろうか、と。




 インターホンを、緊張と共に押す。家の中に大きく響く音と共に、

「は~い」

 と足立さんの声が聞こえた。そして当然のようにそのまま玄関まで足音がやって来て、扉が開く。

「シッキーいらっしゃ~い」

「えっと、お邪魔します」

 ひとまずこの反応は、来る場所を間違えていないらしい。とりあえずの歓迎ムードに胸を撫で下ろしながら家の中へと入って行く。

「ごめんね急に」

「いや、えっと、何かあったの?」

「それは本人に聞いてみないとわかんないかな~」

 そう言って彼女が視線を送ったのは階段の方。そこからは夕ちゃんが僅かに顔を覗かせていて、僕らがそちらに注意を向けた途端に二階へと逃げるように消えて行った。

「上に、行けばいいのかな?」

「そうみたい。ああ、ちょっと待って」

 足立さんがリビングの方へと姿を消し、手に缶を、クッキーの絵が描かれた缶を持って来る。

「これ、貰い物だけど、二人で食べちゃって」

「え、あ、いいの?」

「だいじょーぶ! 私の分はもう取ったから」

 そう言われて見ると缶には既に開けた形跡があり、蓋を開けてみれば中身がおおよそ半分ほど減っている。この半分って結構量があるけれど、まあ、足立さんはたくさん食べるからそんなものか。

「じゃあ、夕ちゃんの事、よろしくね」

 足立さんはそう言ってリビングの方へと消えて行く。何か、任せられてしまったけれど、そもそも僕はなぜここへ来たのかがまだ分かってないんだけど。

 クッキー缶を手に二階へと向かう。登り切り、すぐそこにある扉の前。一呼吸、心を落ち着けて、戸を叩く。

「えっと、入っていいかな?」

「……どうぞ」

 ゆっくりと、恐る恐る、扉を開く。クーラーの冷気がひんやりと心地いいこの場所で、部屋の主は不可思議な事に自らの身体を布団にすっぽりと納めてベッドの上に鎮座している。

 困惑が、僕を、襲う。

 ひとまず冷気が逃げるのは好ましくないだろうと戸を閉めて、顔まで覆い隠してこちらの事などまるで見えていないであろう布団の塊へと視線を向ける。季節は夏、七月、いくらクーラーが効いた部屋とはいえ暑くないのだろうか?

 どうしようか悩んで、ひとまずいつものように用意してあった椅子へと腰かける。もしかすると天岩戸の有名な話のように、こうして布団に引き籠った彼女を外へ引っ張り出す為に呼ばれたわけじゃないだろうか、などと馬鹿な話を考えながらクッキーの缶を開ける。甘く香ばしい香りが漏れ出て、それに釣られるように一枚手に取り、口に入れる。

「あ、美味しい」

「え?」

 思わず感想が漏れ出て、その言葉に釣られて夕ちゃんがこっちを見た。女子高生の部屋で一人、クッキーを頬張る成人男性。あまりに不気味な光景では無いだろうか。

「……何でクッキー食べてるの?」

「……まあ、その。下で足立さんに二人で食べてって、貰って」

「私食べてないけど」

 目が、据わっている。この前、大量のカレーを前に辟易していた彼女を見た時に、足立さんとは違って小食なのだろうと思っていた。しかしそれとこれとは別問題という事だろうか。まあ、確かに、二人でどうぞと言われて一人で食べだすのはおかしい話だった。少し反省しよう。

 反省の印に僕は缶を丸ごと彼女へと差し出す。彼女はのそのそと布団から出て来て、それでも肩までかけたままだけれど、クッキーを手に取ってそれを齧った。

「甘いね」

「そうだね」

「飲み物が欲しくなりそう」

「貰って来ようか?」

 僕がそう言うと、彼女は少し悩んだ表情を見せる。そして、

「取って来る、待ってて」

 ようやく布団から這い出ると、そのまま部屋を出て飲み物を取りに向かうのだった。

 飲み物を手に、クッキー缶を囲んで第二ラウンド。ひとまず顔は出して起き上がっているけれどベッドの上で再び布団は肩まで被ってしまった。

「……寒いの? 冷房切る?」

「いい。こっちの方が落ち着くから」

「そう……」

 まあ、布団に入った、というか、ああやって身体が何かに覆われている状態はなんとなく落ち着きが得られるというのは理解できる。僕も精神的に危なかった時は家でずっと布団に包まって一日を過ごしていたものだ。外界と遮断されている感覚が、非常に病みつきになる。あまり褒められた行為では無いか。

 しかしだからと言って彼女を布団から引っ張り出すわけにもいくまい。経験上、本当に落ち着きを得る為に布団に身を隠しているのであれば、そこから無理に引っ張り出されるのは大いなる苦痛を伴う事だろう。

 僕がすべきことは、そこまで考えてクッキーを一つ手に取る。さくさくとした食感、そして口の中に溶けて行く甘みを感じて、そのまま嚥下した。

「何か、あったの?」

 そしてようやく、尋ねる。それと同時に手に持ったお茶で口の中に残った甘みを喉の奥へと流し込む。一息、ついて、夕ちゃんを見た。

「……本当は、……別に……」

 もごもごと口ごもっていて、流石に呟く言葉の詳細までは分からなかった。それを聞き取ろうと努力するのもここにいる人間の役目なのかもしれないけれど、ひとまずは、ただ待とう。彼女が自分で話し出すまで。

 とりあえず二枚目のクッキーを手に取り、再び味わい。後でどこに売っているのか聞いておきたいぐらい美味しいのだけれど、しかしこれは、非常に、高価な物では無かろうか。値段を聞いて卒倒するようなものでない事だけ祈っておこう。

「……あの!」

 三枚目に手を伸ばそうか迷っていたところでようやく彼女は口を開いた。その視線は、どこか不満げに明後日の方を向いている。

「話、聞いてくれます?」

「……まあ、ここに来たからにはね。クッキーも頂いたことだし」

 言いながら三枚目を手に取り齧る。

「このお代の分ぐらいは何かしら報いないとね」

 夕ちゃんはこの言葉に対して、

「……何か、相川さん、遠回しな言い方、好きですよね」

 皮肉めいた言葉をお返ししてくれた。いっそ直接的に罵ってくれた方がましだったかもしれない、と思う。




「昨日の、話の、続き、みたいな感じになるんですけど」

 ようやく重い腰を上げて夕ちゃんは僕をここに読んだ目的を話し始める。

「六田と、勝負する話あったじゃないですか。今日もまあやる気満々みたいな感じで、ちょっとうざかったんですけど」

「それは良くて、ただ前に話した、秋葉って覚えてます?」

「そう、その六田との勝負に負けてくれって言ってた」

「休憩時間に呼び出されたから、仕方なく話を聞いたんですけど意味わかんなくて」

「今度はやっぱり勝ってくれって言うんですよ? 前は負けてくれって言ってたのに」

「それがもう、意味わかんなくて、ちょっとむかついちゃって」

「喧嘩は、してない、と、思う、けど。ただちょっとかっとなって何でお前の言う通りにしないといけないんだって強く言っちゃって」

「泣いては、無いですけど、まあ、そんな感じの顔で逃げて行って」

「これって私が悪いの? ってなって……、まあ……」

 つらつらと述べられた今日の学校での出来事は、成程人というのは不可思議な生き物であると再認識させられるようなものだ。

「整理するね」

「はい」

「六田君とは、まあ、これと言って新しい事柄は何も無かったわけだ」

「そうですね」

「ただ今度は秋葉さんが出て来て、前に言っていたのとは逆の頼みをして来たと」

「はい」

「それが頭に来て強く言い返したら、なんか泣きながらどっか行っちゃったと」

「泣く、までは無いと思いますけど……、まぁ、そんな、感じ」

 ……わからん。どういう状況なんだろう。

 正直、話を聞いていてもいまいち人物の相関図が書けない。その原因ははっきり理解できているけれど、解決は出来るかどうか。

「僕が思うにだね」

「はい」

「まあ、その言い方がどんなだったか分からないから断定は出来ないけれど、少なくとも一方的に君が悪いって事は無いと思う」

「ですよね!?」

「しかしまあ、疑問は増えるばかりかな」

「……どんなところが?」

「相関図ってわかる?」

 夕ちゃんは一瞬、無言に。そしてすぐに何か合点が行ったのだろう、布団を被ったまま立ち上がり紙とペンを持って来る。そしてそこにさらさらと書き込み始めて、僕と足立さんと夕ちゃんの三人の相関図を書き上げた。

「こういうやつですよね?」

「……まあ、そうだね。そこに書いてある相関図が正しいとは言わないけれど」

 僕から足立さんに向けられた矢印に、狙ってる、とか書くのはやめて欲しい。色々と誤解を招きかねないから。

「それで、まあ、その相関図だけど。六田君と秋葉さんと君の三人で考えた時に、ちょっとペンを借りても?」

「……どうぞ」

 三人の名前を書き、矢印を向け合う。六田君から夕ちゃんに向けられているものにはライバル視と書き入れ、夕ちゃんから二人に向けられたものには、まあ、うるさいとか書いておこう。

「うるさいよりはうざいって感じですけど」

「……もう少し行儀の良い言葉を使おうよ」

 あまり強い悪意を含んだ言葉を使うのは、まあ、苦手だ。そういうのは自分に向けられるべきだと思ってしまうから。

「それでまあ、他の矢印なんだけど、何を入れたらいいと思う?」

「……さあ?」

 残っているのは秋葉さんから夕ちゃんに向けられたものと、六田君と秋葉さんの間にある相互の矢印。ここに書き入れるべき言葉を僕らは見つけられていない。

「まあでも、秋葉さんから夕ちゃんへの所は、なんとなくマイナスのイメージがあるかな。よくわからないけど、あまりいい印象を持っている気はしないから」

 この辺はなんとなく、話を聞いた所感でしかないから間違っている可能性は大いにある。とはいえ、今はどうしてこんなことが起こったのかを情報から推理する時間だから、予測が含まれても問題ものとしよう。

「だから、ここだよね。六田君と秋葉さんの関係性が、何かわかれば、彼らの目的も何かしら掴める部分が出てくるかもしれないと思って。どう思う?」

 夕ちゃんの方を見ると目が合った。というか、強い不満というか、不快感というか、眉間に皺を寄せてそれを顕わにしていた。

「……えっとぉ」

 冷や汗が、出て来るのを感じる。冷房の冷たい風が首筋に当たり鳥肌が立って行くのを感じた。成程、これは布団に入りたくなるのも分かる、というものだ。

「何か、まずかったかな?」

 言いながら考えて、思い至る。要するに、今の説明って夕ちゃんに二人の関係性を調べて来いと言っているようにも取れなくもない。そうなった時、僕は悩み多き女子高生を顎で使って自身の好奇心を満たそうとしているだけの成人男性なのでは無いだろうか?

 彼女の口がゆっくりと開いて行く、罵声が浴びせられるのを覚悟した。

「その呼び方はちょっと……、馴れ馴れしくないですか?」

「え?」

 呼び方、そう言われて自分の発言を思い返す。そしてそこに夕ちゃんと名前を呼んだ瞬間があったことに気付く。

「……言い訳を、しても?」

「まあ、聞いてあげます」

「足立さんが、その、そう呼んでいたのをずっと聞いていたので、それがうつって……」

「なんだか通り一遍のつまらない言い訳ですね」

 そう言われると言い返しようもない。実際、彼女を心の中で夕ちゃんと呼んでいたのは足立さんがそう呼んでいたからというのは間違いでは無いのだけれど、表には出さないように気を付けていたつもりだったのに。

「というか、相川さん、私の名前呼んだことありましたっけ?」

「え?」

「改めて考えると、名前を呼ばれた記憶無いなって」

 ずき、と胸が痛んだ気がした。正に、図星を突かれたというやつだろう。

「苗字、覚えてます?」

 その問いに対して、僕は、思わず居住まいを正して、頭の中に家の前にあった表札を思い浮かべる。

「はちみがぁぃ、だよね」

「……なんか最後誤魔化しませんでした?」

「いや、そんなことは……、ない、よ」

「じゃあもう一度」

「……はちみ、が、さき」

「明らかに自信無いじゃん!」

 その通りだ。八海ヶ崎、だったと僕の記憶は言っている。しかし心の片隅に八海ヶ浦じゃなかったか、そう疑問を述べる僕がいるのも確かなのだ。結局僕は足立さんの事を足立さんと呼び続けているし、夕ちゃんの事は夕ちゃんで覚えてしまったので若干、自信が無かった。

「合ってるけど、でも、なんか、偶然って感じ」

「いや、一応、覚えてた、よ。うん」

「覚えてる人はそんな自信無さげに言わない」

 バッサリ切られた。実際、申し開きのしようもない。

「相川さん、名前覚えるの苦手なの?」

「……まあ、そうだね」

 仕事でも新しく入った人の名前が三か月ぐらいは覚えられなくて文句を言われた事がある。しかし、どうにも、覚えられないものは覚えられないのだ。

「……大人でもそうなんだ」

「え?」

「私も、正直、クラスの子の名前とか半分も覚えてないから」

 胸を張って自信満々にそんなことを言われてしまった。

「……それは自慢できることではないよ」

「うるさい。……別にあんな奴ら、高校卒業したら他人なんだから別にいいでしょ」

 まあ、それを言われると、難しいものだ。今でこそ僕は足立さんとこうして関わりを持っているけれど、あの時に偶然再会しなければ本当に誰も彼も他人でしかなかったのだろう。そして僕はその偶然に、少なくともかなり助けられている。一時的なものかもしれない、けれど、確かに今は、色々と余計な心配をする時間が減っている。

 今までよりも予定が詰まった分だけ精神的には不思議と安定しているのだ。

「……個人的な意見を言わせてもらえれば、あまり他人だからと人を遠ざけてるよりは、適度に関係性を作っておいた方が良いとは思うよ」

「大人はそんな事ばっか言うけどさ、それなりの大学を出てそれなりの会社に就職できれば困る事なんて無いんだから。別にいいでしょ?」

 思わず、唇を噛んだ。そんなつもりが無いのは分かっているけれど、心のどこか痛い所を突かれた、そんな気分だ。

「……そう、だね。それが出来れば、困る事なんて、きっと無い」

 僕は今、どんな表情をしているだろうか。




 社会人になった。個人経営のスーパーの社員という、なんともぱっとしない職業だ。しかし職に貴賤は無いという言葉もある、僕は僕に出来るだけの事を精一杯やって行くべきだろう。

「新人! とりあえず知り合いの紹介だから採ってやったが、ろくな仕事しねえようなら叩き出すからな」

 店長は、非常に、まあ、時代には合っていない人だと思った。手を出したり物に当たったりすることは無いが、言葉はきつく、つまらない失敗には罵倒が飛んで来る。しかしいつでも仕事に対しては真剣だ。物に当たらないのも商品や店の物を壊したくは無いという気持ちがあるからだろう。

「あ~、ごめんね。相川君、だよね?」

 若干、委縮していた僕に声を掛けてくれたのが渚朝先輩だ。

「店長、最近若い子が入って来てもすぐに辞めてくからさ、ちょっとね。言い方をもうちょっと優しくすれば居着く人も増えるとは言ってるんだけどねぇ」

「そうなんですね」

「ま、これから一緒に頑張って行こう。分からないことがあったらすぐに聞いてくれていいから」

「ありがとうございます」

 そんな二人に鍛えられながら僕は徐々に社会人として、このスーパーの一員としての知識と経験を磨いて行く。朝は六時から、日が沈みかける頃まで、我武者羅に働いていた。残業は多かったがそれを苦しいと思ったことはあまり無かった。家に居てもやる事など無い、僕には、何も無かったのだから。

「おぉ……、まだ残ってたのか?」

 時折、渚朝先輩にそんなことを言われる事もあった。

「明日のPOPを作っておこうかと思って」

「それぐらいはやるから帰っても良いぞ? 最近はいつも遅くまで残ってるだろ」

「先輩や店長も遅くまで残ってるじゃないですか。少しぐらいは、その負担を減らしたいと思って」

「そうか……。まあ、そう言う事なら。でもそれが終わったら帰るんだぞ」

「はい」

 先輩も店長も、朝は早くから、夜は周囲が暗くなるまで、ずっと働いていた。店長など話を聞くに出勤した日は毎日閉店まで残っているらしい。それだけ多くの仕事があるのだろう。僕は社員として入ったんだから、より多くの仕事を早く覚えて、二人の負担を少しでも減らさないと。

「来月から新人が入る。相川、お前が教育担当な」

 新しくアルバイトで入って来た子の教育を任された。店長も僕に少しは仕事を任せられると思ってくれたのだ。課せられた責務を、確かに果たす事が出来ている。そういう確かな実感を得られた。もっと、もと、多くの事が出来るようにならないと。

 その為にはまず、アルバイトの教育を上手くやらなければ。

「いや、なんかいちいち細かいんですもん。こんな面倒なバイトだと思ってなかったし」

 一か月後、そう言って彼は辞めて行った。

「ちっ、また駄目だったか」

「まあまあ、こんなもんですよ。……相川もあんまり気を落とすなよ。新人なんてすぐに辞めてくもんだから」

 二人の言葉は聞こえていた、聞こえていたけれど。それよりも強く、僕の中で声が響いている。

『細かい所まで指摘し過ぎだったんじゃないのか? そもそもお前の新人への接し方は正しかったのか? もっと上手くやっていればあの子もバイトを続けてたんじゃないのか? どうして人との接し方をこれまでの人生で学んでいない。なぜこんなことすら出来ない。出来て当然のことだろう? 店長はそれを期待してお前に任せたんじゃないか』

 人生の、ツケを払う時が来たのかもしれないと、思った。

『お前は何もやって来なかった。だから与えられた責任を果たす事すら出来ない』

 苦しい日々の始まり。




「……大丈夫ですか?」

 不意に、自分の中に渦巻いていた過去の記憶を引き裂く様に、声が聞こえた。目の前には、夕ちゃんがいる。少し驚いたように、しかし心配するように、彼女は僕の顔を覗き込んでいる。

「顔色悪いですけど、体調悪かったですか?」

「あ、いや……、ごめん。少し昔の事を思い出して」

 両手で顔を覆って目を閉じ、深呼吸。息を大きく吸って、長く吐き出す。数回繰り返していると少しだけ気分が良くなった。ゆっくりと目を開けると夕ちゃんが少し落ち着かない様子で視線をあちこち行き来させて、どこか申し訳なさそうに俯いている。

「……体調は、本当に大丈夫なんだ。健康体そのものだよ」

「本当ですか? もしかして、その、風邪とかで、寝込んでいたのに呼び出しちゃったんじゃ」

「いや、それは大丈夫。本当に、ね、少し嫌な事を思い出してね……」

 未だに心の傷は癒える様子を見せない。まさかほんの些細な事を切っ掛けにここまで心配させるような事になるとは思っていなかった。

「夕ちゃ……、八海ヶ崎さんは、思ったより、優しいね」

「……何ですそれ」

「僕みたいな他人を慮ってくれるとは思ってなかったから」

 これまでの口振りを聞いた感じ、僕がそこらで野垂れ死んでいたところで無表情のまま無視してどっかに行ってしまうかと思っていた。流石に失礼な想像だったと言わざるを得ない。

「流石に、こっちが呼んでおいて、体調悪そうにしてたら、気を遣うでしょ……」

 それもそうか。しかし、ふと、疑問が浮かぶ。

「どうしてわざわざ僕を呼んだの?」

 冷静に考えてみると、いまいち呼ばれた理由がわからない。ここに連れて来られて話された内容が秋葉さんの話だったという事を考えると、それが理由ではあるのだろうけれど、それはわざわざ人を呼んでまでする話だろうか?

 少なくとも、彼女の性格からすると考えにくい気がする。

「……それは、愛さんが、……勝手に」

「ああ~……」

 そういえば足立さんが電話をかけて来たんだった。明らかに夕ちゃん、もとい、八海ヶ崎さんは電話の向こうで不満そうにしていたっけ。

「……いや、何も無しに足立さんが僕に電話を?」

 図星を突かれた、彼女は正にそういう風に肩を震わせて即座に視線を逸らす。

「例えば、言葉の端で僕を呼べみたいな事をちらっと、言ってしまった、とか?」

「そんなつもりじゃなかったし!」

 いきなりの大声に思わず身を逸らす。

「ちょっと、ちょっとだけ、次はいつだっけ、とか聞いただけだし! 別に呼べなんて言ってない!」

 ああ、成程。つまり本当にちらっと言った言葉から勝手に足立さんがその心の内を推測して僕を呼んだと。

「……もしかして、そうなると足立さんのそれは完全なおせっかいを超えてありがた迷惑だった、みたいな?」

 もしそうなら僕はとっとと帰るべきだな。今ならスーパーに半額弁当が残っているかもしれない、寄って帰ろうか。

 しかしその検討は無意味なものとなる。

「……いや、愛さんには、感謝、してる、ところもある」

 照れているのか頬を赤く染めながら彼女はそう言った。どうやら、ひとまず即座に帰る必要は無いのかもしれない。

「ちなみに、僕を呼ぶ必要はあるの?」

「……愛さんにも、お父さんにも、余計な心配かけたくないし」

 要するに適度な部外者である僕ならば相談がしやすいという事だ。

「最初に話をした時に絶対に誰にも話さないって言ったのは今でも有効でしょ?」

「まあ、当然。あの時の会話もしっかり覚えてるよ」

 完全に一字一句違わずかと言われれば無論首を横に振るけれど。しかし、今気付いたけれど。

「……それを思うと、不思議だね」

「何が?」

「あの時は友達をどうやって作ればいいかって聞いて来たのに、さっきの君は所詮他人だからと跳ねのける」

 その矛盾に、彼女は、気付いていたのだろう。唇を噛んでどこか気まずそうにしている。

「本当は友達が欲しいけれど、それが出来ないのを認めるのが嫌だから強気な態度で突っぱねてるんだ」

「そんなことは……」

「別に否定してもいいけれど、否定したところで結果は変わらないと思うよ」

 僕の言葉に彼女は、ただ、黙り込む。その様子に僕はいつか教えた新人バイトの事を思い出す。あの時も様々な指摘に対して彼はただ黙り込んで、やがてそれはバイトを辞めるという形で表出することになった。今の僕はあの頃から何も成長していなくて、ただただ同じことを繰り返そうとしているんじゃないだろうか?

 喉の奥から、よく親しんだ味のものがせり上がって来るのを感じる。思わず口元を抑えて、それを無理矢理に飲み込んだ。

「えっと、その、ごめ」

「謝らないでいい」

 僕の謝罪は、彼女の言葉によって遮られた。

「たぶん、その通り、だと、思うから」

 その表情は、どこか、悪いことをした子供がそれを見つけられた時のようにバツが悪そうで、今更ながらに彼女はまだ子供なのだと気付く。そしてそんな彼女は、ぽつりぽつりと自身の過去について、話し始める。

「私のお母さんは、随分前に、私が小学生に入ったばかりの頃に亡くなりました。あの時まだ私は小さかったけれど、今でも、まだ、覚えてます」

 小学生、それも入ったばかりと言うなら、まだ母親にべったりと甘えていても不思議はない頃だ。その出来事がどれ程大きな痛みを彼女に与えたのか、僕には想像すらつかない。

「お父さんはそれから必死で、働きながら私の面倒を見ていました。それを見ていると、子供心でも、分かるんです。どれだけ大変な事をしているのかって」

 それは、子供を持たない僕でも大変な事だと想像がつく。僕は僕自身というたった一人の面倒すらまともに働きながら見る事は出来なかった。育ち盛りの子供の面倒など、見切れるはずも無い。きっと、死に物狂いだったのだろう。

「だから私は、一人でも、大丈夫だって、お父さんに安心してもらえるように、そういう振る舞いをしたんです」

「それは……、健気で、素晴らしい事だと、思う」

「小学校の高学年になる頃には自分で料理とか、してたんですよ。中学に上がる頃には買い物とかもするようになって……。お父さんが少しでも楽になればと思って、私も必死でした」

 つまり、彼女の見せる顔は、父親に心配を掛けまいと必死に一人で立とうとする、その姿の延長線にあるという事なのだろう。自分一人で、何もかも出来てしまうのだと、周囲にそう喧伝することで、負担を減らそうと。

「学校でも、そんな調子で?」

「……とにかく手がかからなくて何でも出来るんだって、そういう子供になろうと思ったら、周りの子達と遊んだりなんて出来なかったから」

 そういうものなんだろうか? 子供時代にろくに遊んでいなかったせいでよくわからないけれど、しかし最近はゲーム機などを買い与えたりとかでお金がかかるとも聞く。いや、今はスマホだろうか? いやあ、話が脱線してるか。とにかく、彼女がそう言うのだからそうなのだろう。

「色々と変わって来たのが高校に上がってからぐらいで。その頃にお父さんは愛さんに出会ったんです」

「高校に入った頃というと、去年の春ごろ?」

「そうです。お父さんも話しませんし、私も詳しく聞いてないので知りませんけど、出会って、気が合って、それから結婚です」

 そんな短いテンポで話すような事なのだろうかそれは? しかし結婚したのは去年と聞いたし、実際、出会ってからの話はとんとん拍子で進んだという事だろう。

「……お父さんが再婚したのはショックだった?」

 一般論として、親の再婚というのには子供に多大な衝撃を与えるものだと聞く。特に、以前の、本当の親の事を忘れられない子供にとって。

 しかし。

「驚きはしましたけど、ショックって程では。お父さんがこれまで私の為に頑張って来たのは知ってますし、お母さんが死んでから随分と経ちましたから、好きな人が出来て結婚するぐらいは別に。愛さんも、良い人だとは思いますし」

「でも足立さんとはなんかちょっと、ぎこちないというか……。愛さんって呼び方も他人っぽいし」

「急に新しいお母さんとか言われても、どうしていいか分からなくて」

 そこにあるのは純粋な戸惑いだ。元々人付き合いの苦手な少女にとって、突然現れて父親と結婚して新しい母となった相手というのは、その人の良し悪しに関わらず少々手に余る存在なのかもしれない。

 こうしてみると、夕ちゃんというのは。

「……僕は、君の事を気難しい子だと思っていたけど」

「思っていたけど?」

「単に不器用なだけなんだね」

「はあ? 馬鹿にしてます?」

 飛んで来る罵倒を笑いながら受け流し、何の益体も無い会話と共に時が過ぎて行く。彼女の悩みを聞く為に来たはずなのに、それを解決へと導くことが少しも出来ていない。その事がひたすらに気がかりではあったけれど、不思議と悪くない時間だという気はしていた。

「シッキー」

 不意に、足立さんに名を呼ばれて会話が止まる。僕は戸を開けて顔だけで階段の方を覗き込む。

「足立さん、どうかした?」

「遅くなっちゃったし晩御飯食べて行かない? もう作ったからさ」

 言われて時計を見れば既に夜の七時を回ろうとしていた。いつの間にこんな時間が経っていたのだろう。ちらりと、夕ちゃんの方を見る。

「お呼ばれしてもいいのかな?」

「好きにしたら」

 僕はそれを許可と受け取る。

「足立さん、いただきます」

「は~い。じゃあ準備して待ってるね~」

 彼女がリビングの方へ消えて行くのを見送る。部屋に戻り、荷物を手に取った。

「行こうか。なんだか、何も解決できなくてごめん」

「……謝らなくていい」

 夕ちゃんはそう言うとずっと被っていた布団を投げ打ち立ち上がる。それからベッドの傍、充電器に然してあったスマホを手に取り、そのまま僕の方へと。

「連絡先、教えてよ」

「……え?」

「いいから!」

 困惑、しつつも、ひとまずこれ以上怒らせるような真似はするまいと素直に教える。そして即座にスタンプが送り、わざわざ僕の画面を覗き込んでそれを確認していた。

「よし」

「……そうだね」

 一応、足立さんにはお伺いを立てるべきだろうか。お宅の娘さんと連絡先を交換させて頂いたのですがよろしかったでしょうか、と。まあこの後のご飯を食べながら。

「連絡先」

「ん?」

「交換した事、愛さんには言わないでよ」

「……えぁ」

「絶対だからね!」

 一方的にそう言って夕ちゃんは階段を下りて行く。本来なら僕はそういう訳にはいかないと言うべきなのだろうけど、本人が嫌がっているのであればその意志を尊重すべきかもしれない。しかしそれは自分がどちらにも良い顔をしようと、八方美人なだけで悪の道へと突き進んでいるだけなのでは無いだろうか?

「シッキー! 早く早く!」

 思考は、僕を呼ぶ声に遮られる。考えるのは後でも出来るから、ひとまず今は目の前の事をするべきだ。

 そう言い訳して、僕は、夕食の団欒を過ごした。


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