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間隔の公式  作者: 藤乃病


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4.

 同窓会、その言葉に胸を躍らす者と気分が沈み込む者がいるのは想像に難くない。学生時代に多くの友人がいた者は懐かしい友の姿を一目見ようと喜び勇んで出席し、変わりない姿を見てはあの頃の事を思い出し、見違える者あればあんな時代もあったと懐かしむ。思うにそれは非常に良き楽しみなのだろう。

 しかしそうでない者は、学生時代にろくに友を作らず勉学のみに励んでいた者にとって、それはどうだろう? その場に来た者を見て誰なのかなどわかりようも無いし、何ならクラスメイトの顔も名前もうろ覚え。行ったところで向こうがこちらを覚えているかもわからず、誰だっけなどと問われようものなら来たことを後悔しその場を去るのだろう。

 つまりそれは近い未来の僕の姿だ。

「気が、重い」

 同窓会。それがまさか僕に縁あるものだとは思ってもみなかった。届いた手紙は多忙で忘れていたという言い訳の元に返信もせずに捨てたのだが、どういう訳か、今の僕はそこへ行くための準備をしている。

 まあ、本来なら準備など、精々財布とスマホを持って行くぐらいだが。

「行きたくない……」

 僕は、正直な所、同窓会の誘いが来たことにすら驚いていたぐらいだ。或いは法島君は深く考えず、連絡先を知っている相手全員に招待状を送ったのかもしれないが、だとしても来ることを本気で望んで送ったとは思えない。

 あまり頭が良いとは言えない自分でも、こんなやつがそんな集まりに紛れ込めばあまり良い空気にならないことは想像がつく。

「……いやこの考え方は、辞めよう」

 ふと気付いた。その考えだとまるで法島君はともかく、僕を誘い参加の連絡をした足立さんはそんなことも分からない阿保と言っているみたいじゃないか。そんなつもりはなかったけれど―――。いや、うん。これ以上考えるのはやめよう。

 とにかく、一昨日、足立さんが言った集合時間、六時まであと十五分。流石にそろそろ家を出なければいけない。僕としては、大抵の事には五分前ならぬ十五分前行動を心掛けているので、とっくに家を出ていなければならないのだけれど。

「……行くのかぁ」

 どうにもこうにも、悪い想像ばかりが浮かんでただひたすらに足が重いのだ。とはいえ、約束した以上は行かねばならない。結果的には足立さんを通じて参加の連絡もしているのだ、急な人数の増減は向こうにとっても迷惑だし、責任の放棄に他ならない。

 重い身体をどうにか持ち上げて立ち上がり、歩き出す。空は僕の心の中のように薄暗い雲に覆われた曇天だった。




 足立さんの家へと辿り着いてしまった。残念ながら道中に不測の事態があって辿り着けなかったという結果は訪れなかったらしい。

「あ、シッキー! てっきりもっと早く来るかと思ってたよ」

「そう、かな」

「なんか待ち合わせとか早めに来るタイプかなぁって」

 それはまあ、間違いじゃない。

「じゃあ行こっか」

「……そうだね」

 向かう先はここから電車に乗って二駅先にある居酒屋。僕の通っていた高校の近くだ。

 電車内、僕らは並んで座る。足立さんは外の景色を眺めていたが、僕はこの後の事を考えて沈んでいく気持ちをどうにか誤魔化そうと必死だ。

「あ、見て見て」

 足立さんの声に振り返ると彼女が指差すのは我らが母校。

「いやぁ~、なんか懐かしいね。私もあそこに通ってたんだなぁって」

「そうだね」

 僕としては、正直、あまり感慨も何も無い。高校に対して深い思い入れも無く、ただただ毎日通っていたなと言う印象だ。あの高校を選んだ理由だって単に家から近いという理由に過ぎない。あの頃は、まだ両親も僕に多少は期待していたし、僕自身、僕の事を幸せになれると信じていた、気がする。

「あ、もう駅着くね」

 電車が徐々に速度を落として行く。吊革に捕まる人はもうすぐ訪れる衝撃に備えて手に力を込めている。そんな風に未来を想像するだけの頭は僕には無かった。経験が足りなかったのか知識が浅かったのか、或いは、ただ単に流され続けたツケを払わされただけなのかもしれない。

 電車が止まる。突如襲い掛かる負荷に対して人々は吊革を持つ手でその身を支える。要するに、ただ漠然と立っていただけの僕はここで転んでしまった、そう言う事なのだろう。今のようにせめて座ったまま夢を見ることも無ければ何の心配もなかっただろうに。

「シッキー、降りるよ」

「あ、うん」

 ちょっと、考えが悪い方へ悪い方へと行き過ぎてる。過去の後悔なんて今更だとわかっていても、今から行くのは同窓会である以上はつい過去に目を向けてしまう。或いは単に不安から目を逸らす為に過去に目を向けているだけだろうか?

 どちらにしても、気分は悪く、帰りたい。




 その居酒屋は小さなもので、隙間を埋めるようにして建っている細い雑居ビルの一角を借りてやっているらしい。外観が見えた時に最初に思ったのは本当にここなのだろうか、という疑問だった。

「ここなの?」

 というか口に出した。

「そうそう。まあ同窓会って言っても全員が来るわけじゃないし、それにここ財布っちの知り合いの店らしいんだよね」

「ああ、そうなんだ」

 その財布、もとい、財部君が主催していると聞いたから不思議だったのだ。彼は有り体に言えばお金持ちの家の生まれでクラスの中心人物でもあった。休みの日には遊興費は持つからと皆を様々な場所に連れて行っており、僕も誘われたことがあるほどに大勢を誘っていたのを覚えている。故に彼が主催であれば余程大きな店なのだろうと思っていたのだけれど、意外にもこじんまりしており少々面食らったと言って良いだろう。

「じゃあ入ろう入ろう!」

 足立さんが僕の腕を掴む。

「あ、ちょっ」

「たのも~」

 店内は居酒屋、と聞いてイメージするような雑然とした空間で、カウンターやテーブルには既に何人かが思い思いに座っている。全員の注目が、視線が、こちらに刺さるのを感じた。

「……あ、もしかして足立か?」

 最初にそう声を上げたのは、おそらく、いや間違いなく、この会の主催者である財部君その人だ。

「もしかしてって何~。久々だけど財布っち高校の時と全然変わんないねぇ~」

 足立さんは言いながら財部君と軽くハイタッチ。彼は高校の時から背があまり高くなく、顔立ちは整っていたが元々の目付きが少し悪くて何か良からぬことでも企んでいそうな雰囲気を醸し出している。要するに、少々悪人顔なのだ。大勢に囲まれて下校する姿を不良の集団と勘違いされたと言う話もあるぐらいで、先生からは頼むから大人しくしていてくれと懇願していたとか。

「ははは、まあ俺は高校の時には既に完成されていたからな。これ以上変わる必要も無いってわけだ」

 個人的な評価としては、自信家でそれを臆することなく前面に押し出せるその心意気は見習いたいとすら思う。僕が全く持たないものを持っている、と言う訳だ。

「アダチー髪色変えたんだ! 全然わかんなかった」

「ね~、その色似合ってんじゃん」

 この二人は……、誰だっけ。

「みかっちにまるたんだよね? 二人共久しぶり~」

 ……足立さんの友達かな。たぶん、休憩時間によく話してた。みかっちとまるたんというあだ名は足立さんとの雑談の中で何度か出て来た覚えがある。

 他のみんなもその場に足立さんの事を懐かしむように声を掛けて彼女を歓迎する。流石はクラスの人気者、足立さんだ。僕の方は、正直、帰りたい。

「……相川、だよな?」

 そう思っていたところで横から声を掛けられる。そこには財部君がいつの間にか立っていた。

「あ、うん。どうもお久しぶりです」

 ひとまずそう言うと彼はにこりと笑みを浮かべ、

「やっぱりな。お前が来てくれるとは思わなかった。とりあえずそこ座っておけ。金はこっちで持つから好きなもん頼んでくれ」

 自然とカウンター席に座らされメニューもついでに渡される。これは、たぶん、そうだな。来てしまったものは仕方ないし、とりあえず端の席で飯でも食わせとこう、かな。まあその厚意はありがたく受け取っておこう。

 元々盛り上がっていたのか、或いは足立さんの登場に沸き立っているのか、居酒屋の中は俄かに騒がしくなり僕のような者にとっては少々居辛いぐらいだ。それでもこの場に残っているのは、来てしまったのに勝手に帰るのは空気を悪くするかもしれないと言う不安と、純粋にお腹が減ったのでご飯を食べたいという二つの要因があるだろう。

「はいどうぞ、枝豆と日本酒、それにお刺身ね」

「ありがとうございます」

 ついでに酒も飲めるのが本当にありがたい。お酒は好きなのだけれどこの半年、流石に嗜好品は避けるべきだろうと節約の為と、まあ、他の理由もあって飲んでいなかった。今日は財部君がお金のことは持ってくれるのでただ酒、まあ、飲まないほどの理由は無いだろう。

「隣座るぞ」

 不意に隣に来たのは、男性、えっと。

「……あ、法島君?」

「お~、覚えてたか。よかったよかった」

 法島君は唯一、同じ大学に通っていた間柄だ。学部は違ったのでこれと言って仲良くしていたわけではないけれど、卒業間際に連絡先を聞いて来たので彼にだけは教えていた。故に今回の同窓会の招待状も彼から送られて来ている。

「相川さ、同窓会の返事して来てなかったよな?」

「あぁ、まあ、うん」

「やっぱそうだよな。今回連絡取れるやつ全員に招待状おくってたからさぁ、俺が気付いてないだけで返送してたのかと思ったぜ」

「そんなことは無いよ」

 僕の返事を聞いて法島君はどこか安心したように手に持っていたビールを呷る。

「いやぁ、財布のやつが、どうせなら形式に拘ろうとか言って招待状なんて作ったが、二度とやらねぇ。管理が面倒なだけだわ」

「大変だね」

「まあな。しかしおかげでただ酒がより旨い!」

 見ていて思わず涎が出そうなほど美味しそうにビールを飲み干して行く。成程、確かにそれは幹事の特権なのかもしれない。つまり、大勢を招待したと言う達成感か。目の前のお猪口から良い日本酒をちびちびと飲んだところでその快感を得る事は出来そうもない。

「しかしお前、来ると思ってなかったわ」

「ああうん。僕もまあ、来ると思ってなかった」

「ん? ……じゃあまた何で」

 まあ、僕が来た理由なんて傍から見たらわからないだろう。僕自身、ここに来ると思っていなかったわけで、数日前までは今日と言う日を寝て過ごすのだと思っていたぐらいだ。

「足立さんに、来るように言われて」

「あ~、そういやお前ら仲良かったっけ。今でもそうだったのか?」

「いや、ついこの前にばったりと」

「そりゃ面白い偶然だな」

 法島君は空になったグラスを手に立ち上がる。

「ま、折角来たんだ、どうにか楽しんで行けよ」

「ああ、うん。ありがとう」

 彼はそのまま調理場の方へ、おそらくはビールを注ぎに行ったのだろう。この店は財部君の知り合いの店で、財部君と法島君は今も仲が良いみたいだし、彼もこの店の常連か何かなのだろう。勝手知ったるというやつだ。

 徐々に人は増えて行く。全員は来ないという話だったが、中々に参加人数は多いようで、気が付けば二十人ほど。正直、顔も名前も一致しない人がほとんどだし、向こうも同じようで二言三言会話すれば大抵の人はすぐに僕の前から去って行く。当然だ、高校時代にろくに話した覚えもない相手と語れることなど何も無い。

 それに対して足立さんは流石だ。新しく入って来た人を見るや否や駆け寄って行き、男女問わずその名を言い当てては髪を伸ばしたのかとか太ったとか当時との違いにも言及、そのまま自然とみんなの所へ誘導していくと。この店の中には大きなグループが二つ出来ているが、その内の一つの中心が正に彼女だ。僕が学生時代に学ぶべきことは彼女のように人の間を取り持てる処世術だったのかもしれない。

 きっと彼女は目の前にいるのが誰であっても一緒に楽しく過ごす事が出来るのだろう。

「よ~う。顔が赤くなってんじゃねーか」

 ぼんやりとした頭で足立さんを中心に楽しそうにしているみんなを見ていたせいか、彼の接近には全く気付きもしなかった。振り向けば隣に座っている。

「財部君……、酔ってる?」

「おいおい、みんなみたいに財布って呼んでくれよ」

「え、ああ。うん。えっと……」

「……あ~、まあいいか。どうよここの酒は? 旨いか?」

「ああ。うん。そうだね、あまり知らない名前のが多いからいくつか試しに飲んでみたけど、どれも美味しいと思う」

「そうかそうか。まあ俺が選んだ全国の地酒を集めてるからな、旨いのも当然だ」

 そうだったのか。知り合いの店という事だったしその辺は融通を利かせてるのか。どっちが利かせる側かはわからないけど。

 さて、満足気に頷いている財部君だけれど。ちらりと横目で周りの様子を見ると、先程まであった大きなグループの一つが解散し二、三人で話している幾つかのグループに分かれている。それもそうだろう、その中心にいたのが他ならぬ財部君なのだから。

「みんなの所にいなくていいの?」

 軽く視線で様子を伝えながらそう尋ねると、彼はきょとんとした表情で固まる。そして少し考えて、

「ああ、もしかして気を遣ったのか?」

 と逆に尋ねられてしまった。

「ふん、だとしたら要らぬ気遣いというやつだな」

「そうなの?」

「旧交を温めるにしてもやり方は色々とある。さっきまでのように大人数で話すのもいいが、時には休日にも一緒にいるほど仲良くしていた相手とだけ話したいことだってあるだろう。常に同じ相手と一緒に居なければならないわけではない」

 成程、それは一理ある。大人数の前では話しづらい事もあるだろう。

「それに折角招いたんだ、どうせなら全員と交友を深めたいと思って何が悪い?」

「ん?」

 ……それはつまり。

「相川、スマホは持ってるか? 連絡先を教えてくれ」

 まあ、そう言う事になるのか。僕は黙って鞄からスマホを取り出す。

「高校の時は携帯も持っていなかったな」

「親があんなもの持っていたらいけないって言うからね」

「今の時代社会人には必須のアイテムだからな、無いと困るだろう」

「そうだね」

 言いながら連絡先を交換、家族や仕事の関係以外では貴重な連絡先が追加された。

「ま、今日のところはひとまず交換するだけにしておこう。俺は他の奴らからも聞き出す必要があるからな」

「そうなんだ、頑張って」

「おう」

 相変わらず、変わった人だ。高校の時から思っていたけれど、金持ちでみんなの財布代わりになっているからって自分の事を財布と呼ばせるのは正直どうかと思う。少なくとも僕としてはどうにも、呼ぶのに気が引ける。

 現在時刻、七時五十分。僕らが店に着いたのが六時半は過ぎていたぐらいだったから、既に一時間以上は経ったらしい。流石にもう追加で人が来ることは無いだろうと思われる時分だと思ったが、僕の考えは浅はかだったらしい。

 ガララ、と入り口の引き戸が音を立てて鳴った。その向こうにいるのは、背の低い、女性。誰だったかと背の順で並んだ時に前の方にいた女子の記憶を探るが、

「茜っちだ~!」

 後方から聞こえた足立さんの声にそんな思考は吹っ飛んでしまった。

 アカネッチ、アカネ、茜。ああ、そうだ。彼女は図書委員で時折図書室で見かける事があったクラスメイトだ。

「お~、遠野か。遅かったな」

「仕事が、思ったより長引いちゃって」

「もう来ないかと思ったじゃ~ん」

 足立さんが遠野さんに抱き着いたが、

「あはは、愛ちゃん暑いから離れて」

 彼女の対応はにべもなく、その頬を掴んで引き剥がすというものだ。あまり、記憶が無いけれど、二人は仲が良かったんだっけ?

 そんなことを考えていると、店内を見回していた彼女と目が合った。すぐに視線を逸らしたのだが、彼女はそんな事は気にする風もなくこちらへ近付いて来る。

「もしかして相川君?」

「え、ああ。うん」

「来てたんだ。てっきり、来ないものかと」

「……みんなに言われたし、僕自身もそう思ってたよ」

 不思議そうに首を傾げる彼女。まあ、ここにいるやつが来るつもりが無かったと言っても意味が分からなくて当然だ。

 それはそれとして、彼女は僕の隣に座る。

「なぜ?」

「え?」

「ああ、いや。うん。別に、カウンター席に座る決まりはないよ」

「それは見ればわかるけど」

 そりゃそうだ。みんな思い思いの場所に座っているし、何なら壁を背に立ったまま酒を呷っている者もいる。つまり、ここに座ったのは、僕に用がある?

「相川君さ」

 どうやらその想像は間違っていないらしい。さあ、何が来る。

「愛ちゃんと連絡先交換した?」

「うん?」

 何が来たんだこれは? いや、まあ、愛ちゃんと言うのは、足立さんの事だ。彼女の名前が愛なのは夕ちゃんがそう呼んでいるのもあって流石に理解しているし、遠野さんがそう呼んでいたのをついさっき聞いたばかりだ。

 しかし連絡先を交換したか、というのはどういう問いだ?

「まあ、一応、連絡先は交換してるよ」

「……そっか。ならいいや」

 ならいいのか。てっきり何で交換したのかとか聞かれるのかと思ったけど、杞憂だったらしい。

「ついでだから私も聞いておいていい?」

「え? ああ、まあ」

 流れで、というやつなのだろうか。再び僕のスマホに連絡先が増える。いまいち目的は分からないが、それを明かす事も無く彼女は立ち上がり他の人の所へと行ってしまった。

 本当に、何なのだろう。向こうへ行った遠野さんは足立さんや他の仲が良かったのだろう人の所を渡り歩き談笑を楽しんでいるようだった。猶更、僕の所に来た理由は全く分からない。

 遠野さんが去って行き僕の所へ来る人は居なくなった。何とはなしに、周囲を、皆がどういう風に過ごしているのかを見渡した。店の中で大小様々なグループへと分かれてはいるがよくよく見れば個人個人で違った動きをしているのが分かる。ある場所に陣取って動こうともせずにそこへ来た人と話している人もいれば、思い思いにグループを渡り歩いて行く人もいる。ずっと同じ人とばかり話している人もいるし、特定の人を避けるように動く人もいる。

 色々な人がいる。そんな単純な事なのだけれど、どこか身に染みて感じるものがあった、ような気がする。実際、既にアルコールが回った頭の中でその事実をどれだけ理解できていたのかは怪しいものだった。

 帰り道、一人歩く。足立さんは何人か引き連れて二次会へと向かって行った。僕は明日の仕事もあるし、そもそも行く理由もあまり無かったので帰るばかりだ。夜、九時。街は既に静まり帰って夜道を行くのは酔っ払いや疲れた表情のサラリーマンぐらいだ。星は雲に隠れ、車の往来はほとんどなく、僅かに存在する街灯だけが周囲を照らしている。

 パチッ、パチッ。

 ガラスを叩くような音がした。街灯にぶつかる虫の音だ。或いは、この同窓会に出た僕の姿は、他人から見ればあのように見えていたのかもしれない。眩しい場所に憧れて、届きもしないのにそこへと羽ばたき続ける、ガラスが己を阻んでいる事に気付いているのかいないのか。ただ一つ分かるのは。

「滑稽だ」

 電車の時間が近い、しかし久しぶりに飲んだ酒の所為か足元はふらつき走る事は出来そうもない。終電にはまだ早い、もう一本後に乗ろうか。

「……いや、まだ、間に合うか」

 申し訳ないと思いながらも店舗の壁面に手を付いて、少しだけ足を速める。別に一本後の電車に乗ったところで大した違いは無いだろう。十数分、家に着くのが遅れるぐらいだ。ただ、その時間が、恐ろしい。

 駅のホームで一人、電車を待つ僕の心には、どんな思いが去来するのだろうか。

 それから僕は焦るように必死に家へと帰った。辿り着いた頃には身も心もぼろぼろで一度トイレで吐いたけれど、火傷しそうなほど熱いシャワーを浴びて身体中を真っ赤にしながら布団へと倒れ込んだ。最後にアラームをセットすると力尽きるように眠りに就く。




 大学生になった。新しい友人、サークル活動、アルバイト、僕には無いものだ。

 授業の選択、大学から配布された資料に目を通し必修科目を調べ、卒業までに必要な単位を確認し、それをもとに卒業までの計画を立てる。成程、三年の途中で必修外の単位は全て取る事が可能らしい。ではそのようにしよう。

 安定と確実性を求めた大学生活には、波乱はなく、ただただ停滞の日々を過ごしていた。家と大学を往復し、学期の終わりと共に単位を着実に積み重ねる。時間は多く、その時間を僕は勉学に費やしていた。

 就職活動、それは話によれば三年生には既に始まっている。僕は当然、その波に乗らねばならないと考えていた。両親は都度都度言っていた、たくさん勉強をして、良い大学を出て、良い会社に就職をする。兄はいとも簡単に超えた壁だ。僕も、両親の期待に応えなければならない。

「君は、つまらないね」

 そう言われたのは幾つ目の会社の面接だったか。幾つもの会社を受けて、その全てに落ちていた僕はもう覚えていない。

「勉強を頑張って来たのはよくわかったよ。で、それ以外は? 君はもしかしたら勉強を頑張れるのが優れた人間なのだと思っているのかもしれないけれど、それだけしか出来ないのなら大した人間じゃないよ。僕らはそういう人材は、必要じゃないかな」

 元々予定していた、両親がピックアップしていた有名企業に就職することは出来なかった。理由は明白だ、僕には勉強があったが、本当にそれだけしかなかった。両親からは何をやっていたんだと罵倒され二度と帰って来るなと言われそれきりだ。きっと誰もが知る有名企業で着々と出世の道を歩んでいる兄さんのようになってくれると思っていたのだろう。忙しさの余り帰って来ることもなく、しかし多額の仕送りだけは欠かさないあの兄のように。

 残念ながら、僕にはそんな才能は無かったらしい。

 大学祭、毎年その日を家から出ずに過ごしていたのだけれど、就職活動の為に大学の支援センターに行く必要があった。それで、大学へと足を踏み入れた。活気に溢れた、一体いつから準備していたのかもわからない、ただそこは彼らの努力の成果が表れている。

「僕も、ああいうことをすべきだったのだろうか」

 自然と、人通りの少ない、日陰の道を歩む。彼らに自分の姿を見られるのが嫌だった。彼らの純粋な心に余計なものを混ぜたくはなかった。僕はこの場に紛れ込んでしまったあまりに救いようの無い異物だったのだ。

 職を選ばなければ仕事はあった。支援センターの人が紹介してくれた幾つかの仕事の中で、自分が一人暮らしをしながらどうにか生活できそうな給料を得られる場所を選ぶ。その小さなスーパーは僕がつまらない人間であっても雇い入れてくれて、それなりに近場で安いアパートを借りる事も出来た。

 僕は、社会人になった。

 何の誇れることも無い、社会人に。




 目が覚めた。全身冷や汗に塗れて気持ち悪い。内容はよく覚えていないけれど悪い夢を見ていた気がする。時間は、まだ、朝の四時。今日は仕事だが今から行くには時間が早過ぎる。ならばもうひと眠り、と行きたい所だけれど、たぶん悪夢の続きを見る事になるだろう。ここは一旦シャワーでも浴びて心を落ち着けよう。

 寝起き、昨日のアルコールがまだ残っているのか普段よりも頭に霞がかかったような心持ち、服を脱いで浴室、シャワーを浴びる。全身に感じていた、嫌なぬめりのあるような不快感が洗い流されて。

「熱っ!」

 思わず叫んでその場から後ろに下がる。そしてシャワーヘッドから飛んで来る熱湯を避けながら温度を調整する。何だ、何でこんな熱い湯が……。

「ああ、そうか、昨日僕がやったのか」

 ようやく目が覚めたのか、それとも酔いが醒めたのか。昨夜の事を思い出し、少し気分が沈んでいくのを感じた。調整して出て来たぬるい温度のシャワーは、夏のこの時期でも少し冷たくて、風邪を引きそうだ。

「……時間まで、勉強でもしよう」

 身体を丁寧に拭き、汗も熱湯もぬるま湯も全て過去のものにして、部屋へと戻った僕は参考書の類を幾つか取り出す。今日は家庭教師の日だ、準備を怠ってはいけない。これまでの二回とも、さして勉強を教えた時間が長くは無いのが事実だけれど、それが手を抜く理由にはならない。ブランクがあるのは事実なのだから確実に頭に入れておかないと。

 それに、勉強をしている間は他の事を何も考えなくていいから。それは、疑いようもない、僕に身に付いた習性なのだと思う。




 職場、いつものように制服に着替えて店の裏手へ。今日も渚朝先輩がコーヒーを片手に待っていた。

「来たな。今日も一日頑張って……」

 しかしいつもの言葉が途中で止まる。先輩は僕の顔をじっと見つめて何やら不審そうというか、不安そうというか、妙な表情をしている。

「どうかしましたか?」

「いや、それは私の台詞じゃないのか? 顔色が少し悪いように見えるが」

「え?」

 顔色、悪いのか? 朝に鏡を見た時はそうは思わなかったけれど。或いはアルコールが抜け切ってなくて正常な判断が出来ていないのかもしれない。

「……二日酔い、ですかね。昨日久しぶりにお酒を嗜みまして」

「そうなのか? というか、前は帰りによく買っていたと思うが」

「バイトになってからは禁酒、というか、節約で、ちょっと止めてました」

「お前……、酒も飲めないぐらい厳しいのか?」

 しまった、無意味に心配させるような事を言ったかもしれない。実際、明らかに先輩の目はもうそれだけであなたを心配していると訴えているように感じる。

「まあ、別に、一応ってだけです。やっぱり日々の支出を見直すのは大事ですからね」

「それはそうだが……」

「それに昨日は同窓会ってやつで、そんなのに行けるぐらいには余裕がありますから」

「同窓会ぃ?」

 ……なんか、更に余計な事を言った気がする。まるで嘘を誤魔化そうとして余計に嘘を言って進退窮まって行く姿、そのお手本だ。

「ふぅん……。これは、今日の昼は、少し話を聞かないといけないな」

 先輩は据わった眼で僕を見つめる。なぜだろう、何も悪い事はしていないはずなのに、何か悪いことをしてしまったかのようだ。

「いや、別に、そんな話すような事は」

「とりあえず仕事だ。この話は後でな」

 結局、話をするのは確定らしい。これは、うん。今の内にどんな話をするか考えておこう。なるべく当たり障りのない、そういう話を考えておくんだ。




 仕事は、そつなくこなした。二日酔いなどは無かったようで、朝の気分の悪さは単に夢見が悪かったせいなのだろう。普段通りに働き、普段通りにやるべきことをやって帰路に就く。

「おやおやぁ、もうお帰りかな?」

 そこを未だ仕事中の渚朝先輩に見とがめられて足を止める。更衣室の前の壁にもたれかかり、先輩が休憩に入るのを待つ。流石に、見とがめられて猶も約束を無視して帰るつもりはない。というか単に裏手で待っているつもりだったのだけれど。

 待つ事十分ほど、ぽん、と肩を叩かれる。

「すまない、待たせたな」

 既に制服から着替えていた先輩が目の前にいた。

「まあじっくり話を聞かせてもらおうじゃないか」

 その気合は何なのだろう。正直、大した話など出来ないのだけれど。

 いつもの定食屋。相変わらず空いているこの店はほとんど貸し切りだ。店主もおそらくは僕らの話になど興味は無いだろうし、個室でもないのになんと密談に向いている店なのだろう。そんな皮肉っぽい事を考えたところで、注文を終えて、先輩が早速切り込んでくる。

「同窓会、行ったんだって?」

「ええ、まあ」

「ふぅ~ん」

 ふぅ~ん、と言われても、僕は先輩がその事に興味があるという事実に驚いている。何の興味だ?

「何でまた? 正直、あまり良い言い方では無いが、あんまり同窓会とか行きそうには見えないが」

「ああ、まあ、そうですよね」

 同窓会の会場だけでなく職場でまで言われるのか、それ。とはいえそう言いたくなるのは僕も分かるから何とも言えない。

 さて、質問の回答だけれど、理由は単純明快だし隠す必要もない。

「この前に同級生に会ったって言ったじゃないですか」

「ああ。娘さんの家庭教師をやるんだよな」

「まあその時に、同窓会があるから一緒に行こうと」

「……へぇ~」

 何だろう、どういう反応だ? 少し、こう、怖い目をしている。

「狙われてるんじゃないか? いやしかし、う~ん」

 小声で何事か言っているが、いまいち先輩が何を考えているのかよくわからない。

「……まあ、同級生に久しぶりに会って、偶然同窓会が近ければそういう事もあるか」

「そうですね」

 よくわからないが納得したらしい。実際、その言葉通りなわけだから僕としても何か言う必要はない。

「同窓会は楽しかったか?」

「……まあ、それなりに」

「ははは、分かりやすいな、その嘘は」

 思わず、目を逸らした。全くその通りで、今のは明らかな嘘だ。盛り上がる皆の横で一人料理と酒に舌鼓を打っているという状態を楽しいと言える人間はそう多くないだろう。昔の僕ならば、今よりもそれを楽しめたのだろうけど、今の僕には少し難しい。

「当時の友達とかは……、ああいや、すまない」

 言ってから気付いたのだろう。友達はほとんどいなかったという話はしたことがあることを。

「しかし大人になってから会うとまるで別人のようだと感じる事もあるだろう。その場で仲良くなった相手なんかはいないのか?」

「……ほとんど一人でいたもので」

「あっ……、そうか」

 気まずい空気になってしまった。僕が同窓会の一つも楽しめないせいでこんなことに。あ、いや待てよ。

「ああ、でも、あれですね。二人ほど、連絡先を交換しましたよ」

「え?」

 あからさまに意外そうな、というか驚きで目を見開くと言う言葉がよく似合う表情だ。

「ええ、一人は主催していた、高校の時からクラスの中心だった人で、実はその人が食事代は奢ってくれてたんですよね」

「奢り? 同窓会で?」

「はい。まあなんで、食事だけでもしっかり元は取ったって感じですよ」

「……何人ぐらい来たんだ?」

「二十人は来てましたよ」

「二十人分の食事代を……?」

 改めて考えると恐ろしい事だ。二十人分の食事代など支払ったら僕の給料の一か月分が吹き飛ぶかもしれない。しかも会場は貸し切りみたいだったし、どうやら高校時代よりも彼の金払いの良さは磨きがかかっているらしい。

「とんでもないお坊ちゃまがいるんだな」

「そうですね。実際、彼はそんな感じですし」

「そうか……。因みにもう一人は?」

「ああ、そっちは……。何というか、あまり関わりがなかった相手なんですけど」

 改めて考えると、遠野さんと僕の関係って何なのだろうか。連絡先を交換こそしたものの関係性はあまりに希薄で言葉にしづらい。

「その、再会した、家庭教師やる娘さんの親の、同級生の、友達、みたいで」

「みたいで?」

「……それぐらいの間柄なんで、彼女の事はあんまりよく知らないんですよね」

「なぁにぃ?」

 先輩が妙に強い口調で迫って来るが、そんな勢いで来られても困る。これ以上に語れることが無いんだもの。

「写真とか無いのか?」

「写真ですか? 撮ってないですけど」

「じゃあ連絡先交換したんだろ? プロフィール画像とかは?」

「それは……、どうだろう?」

 そういえばスマホ、全然見てないな。アラームがセットされていたから一度は見たんだろうけど、朝もろくに見た記憶が無いし。

 ポケットから取り出し、画面を付けると。

「あ、連絡来てる」

「どんな内容だ?」

「……昨日の夜だ」

「……少しは見るようにしろよ?」

 今の先輩が思わず普通にダメだしをしてしまうような事を僕はしてしまったらしい。まあ、うん。朝に一度ぐらいは見ておくべきだったとは、僕も思う。

 ひとまず、財部君の方から

『飯は旨かっただろう。俺が認めた味の店だ、当然だがな。今度また呼ぶからその時はよろしく』

 彼らしい口ぶりだ。面倒な挨拶は抜きに自分の要件だけをはっきりと言うそのスタイルは、嫌いじゃ無かったりする。

「なんかちょっと柄が悪そうだな」

「そうですか?」

「もう一人の方はどうだ?」

「えっと……」

 遠野さんからも通知が来ている。こっちは。

「スタンプですね」

「よろしく、だけか」

 ひとまず、こちらこそよろしく、とだけ返事を送っておく。

「……なんだか、交換した割には特に何も無いんだな」

「こんなもんでしょう。元々そんなに関わりがあったわけでもありませんし」

「そういうものか? それならそもそも連絡先を交換する必要も無いと思うがな。その他大勢とは特に何もしていないんだろう?」

「僕はそうですが、彼女はそうじゃなかっただけでは?」

「むぅ……。そうか」 

 先輩はどこか悩まし気に考え事を始めたのだが、残念ながら今日はここまでだ。迫る足音、カチャカチャと音を鳴らす食器。

「あいよ」

 ドン、と無造作に今日の定食が僕らの前に置かれる。店主はそのまま踵を返して去って行く。おそらく、僕らはこれからも何度かここには世話になるのだろうけど、きっと店主の笑顔を見る日は来ないのだろう。

「食べるか」

「ですね」

 相変わらず、生姜焼きはそこそこの味だ。他の定食よりはましだけど、わざわざお金を払ってこれなのか、と思わずにはいられないぐらいの味。まあ値段はそれなりに安いし作ってもらえるだけ感謝すべきなのかもしれない。




 仕事へ戻る先輩を見送り帰宅。それから、するのは。

「さあ勉強だ」

 家庭教師の時間までは少し時間がある。時間つぶしも兼ねて勉強勉強だ。学生時代を思い出して少しだけ気分が沈むけれど、それはまあ、無視しよう。

 幸いというか何というか、高校時代に学んだ事など色々と忘れているもので、おかげで時間が過ぎ去るのは早い。知識の再確認をしているだけでも中々終わりが見えないものだ。教師がこれでは全く説得力が無くてどうかとは思う。

 未だ陽射しは強く、じりじりと焼けるような道路の上を歩く。蜃気楼のようにゆらゆらと景色が歪んで見えるのは本当に恐ろしいものだ。まだ七月も始まったばかり、あと一か月以上、二か月経っても暑さは変わらないかもしれない。額から汗が噴き出して、地面へと零れ落ちて行く。きっと後ろを見ればまるで足跡のように汗が落ちて僕の通ってきた道が分かる事だろう。

 足立さんの家に辿り着く。インターホンを鳴らせば家の中からばたばたと足音が聞こえ、当たり前のように扉が開く。

「シッキー、いらっしゃ~い」

「うん、お邪魔します」

 満面の笑みで迎え入れられひとまず中へ。そこに、見慣れない靴があるのを見つける。しかしまあ新しい靴を買っただけかもしれないと思い直し。

「今日、お客さんいるんだ」

「そうそう、そうなの」

 思い直す必要はなかったと頭を掻く。しかし、お客さんか。夕ちゃんが帰って来るまで僕はどこにいればいいんだろうか。流石に邪魔をするのはまずいだろうし。

「でもシッキーも知ってる人だから」

「え?」

 リビング、そこには確かに知っている人がいた。というか、つい昨日に見たばかりだ。

「遠野さん?」

「こんにちは」

 遠野、茜。僕らの同級生にして、昨日の同窓会の出席者。背は低く、落ち着いた雰囲気を常に纏っている、ある意味では足立さんの対極のような人だ。彼女がなぜかこの場にいる。思わず入り口で突っ立ったまま固まってしまう。

「相川君、座ったら? 家庭教師の時間まで暇なんでしょう?」

「あ、うん。そう、です」

 どうやら足立さんに僕らの関係を聞いているのだろう。当然のように家庭教師の件に言及している辺り、それは間違いない。ひとまず僕は落ち着くべきだと思う、ソファに腰を下ろす。丁度時を同じくして足立さんが紅茶を持って来てくれた。

「これシッキーの分ね。今日は奮発して高いやつだから美味しいかも」

「そうなんだ、ありがとう」

 手に取ったカップにはいつもより少し濃い色の液体がなみなみと注がれ、漂う香りも心なしかいつもより気分を高揚させる。軽く口に含み、味を見る。

 うん、違いが、わからない。カップを置くと台所に戻って行った足立さんを視線で追い、それから何気なく遠野さんの方を見る。

 ―――静寂。

 見たはいいがこれと言って話すべき言葉が何も浮かばない。しかし沈黙を保つにはただただ気まずく、それを背負えるほど僕の心は強くない。全く動じる様子の無い遠野さんと違い、僕はあまりにひ弱な存在だ。

「遠野さんは、足立さんと仲が良かったんだね」

 だからだろう、そんなことを口走ったのは。正直、あまり褒められた問いでは無いと思う。だってまるでそれが悪い事のように聞こえないだろうか?

 とはいえ、遠野さんはそのような事は全く気にしていないようだけど。

「まあね。高校の時から仲が良かったけれど、知らなかった?」

「ああ、うん。実は」

「結構あなたって鈍感というか、察する能力が無いのね」

 確かにそうだ、ぐうの音も出ない。剣呑な雰囲気の中に足立さんがお菓子を手に戻って来る。

「あ~、茜っちがシッキーをいじめてる~」

「いじめてるつもりはないけれど」

「いじめられてるつもりもないです」

「そう? ならいいんだけどね」

 彼女は一瞬で場の空気を変えて、ついでにお菓子を僕らの手に押し付ける。貰ったものは仕方ないので包装紙を破き口に入れる。どうやらクッキーらしい。口の中でほろほろと崩れ優しい甘みが広がって行く。

「昨日の同窓会だと他の人もいて茜っちとあんまり話せなかったからさぁ、そしたら今日は休みだって言うから久しぶりに一緒に遊ぼうって話になってね。一緒にお店回ったりしてたんだ」

「それでまだ時間があるから、お家にもお邪魔させてもらったわ」

 成程、というか、この二人の仲の良さはよくわかった。

「本当は龍一君も紹介したかったんだけどねぇ。忙しいみたいでさぁ。もう二か月も会ってないよ」

「仕方無いんじゃない? そういう仕事をしている人と結婚したんだから」

「そうなんだけどさぁ……。ま、それはまた今度って事で」

「そうして頂戴。私も楽しみにしてるから」

 しかし意外だ。なんとなく僕が考えていた、その、カテゴリー分けというか、人の性格的な立ち位置で言うと、この二人は全く別の方向を向いていると思っていた。だからこの二人が一緒に居る事など無いだろうと無意識に思っていた気がする。

 そんな考えは思い違いに過ぎないと言うのは目の前にいる二人のやり取りを見ていればわかるけれど。常にテンション高めの足立さんと落ち着いた雰囲気の遠野さんは対照的ではあるかもしれないが、それはそれとして良い友人だ、間違いなく。

 ガチャ、と不意に扉の開く音がした。

「ただいま~」

 その声に反応するように足立さんが跳び上がる。

「夕ちゃんお帰り~!」

 そして玄関へと駆け出した。遠野さんは呆れた様子でそれを見つめ、

「もしかして毎回あんな感じなの?」

 と僕に尋ねる。思い返してみればわかるが僕がここに来たのはたったの三回、しかしその三回ともが全く同じようにしていた。

「そうだね」

「ああいう子供っぽい所、治りそうにないわね」

 全く同意見だ。しかし、

「それが足立さんの良い所だとは思うけど」

 何気なく、そう口にしていた。それを聞いて遠野さんは僅かに視線をこっちに送り、そして微笑む。

「そうかもね」

 と、口にしながら。

 帰って来た夕ちゃんはリビングに顔を出すと、いつものどこか不満げな表情ではなくまるで余所行きの仮面でも被っているかのように落ち着き払った表情だ。

「遠野さん、お久しぶりです」

「こんにちは。元気みたいだね」

「はい、ありがとうございます」

 ああ、遠野さんとは知り合い、というか、親の友人という微妙な距離感でどう対応していいのか分からないのだろう。そんなぎくしゃくした会話の後、彼女は僕の方をじっと見て。

「五時になったら、始めますから。それまで準備してるので、入らないでくださいね」

「ああ、うん。わかりました」

 珍しく家庭教師の事に前向き、というよりは単に遠野さんがいるから相応の態度を取っているだけだろう。内心はきっと面倒に思っているに違いない。二階の自分の部屋へと去って行く夕ちゃんを見送り、足立さんが戻って来る。

「あれでもうちょっと愛想が良ければ男子にモテモテだろうにねぇ」

 そして言った言葉がそれだ。夕ちゃんの容姿に関して言えば、僕の美醜の感覚が狂っていなければという前提ではあるが、平均よりは間違いなく上だろう。

「美少女の家庭教師が出来て相川君はラッキーだね」

 何気なく振られたその言葉に僕は、

「……いや、正直、頭が良いから、何を教えていいか分からなくて。困ってる、かな」

 同様に何気なくそう答える。実際、今日も何を教えていいか悩んでいるところだ。一応、家で色々と考えては見たものの、夕ちゃんを相手にはおさらい程度にしかならないかもしれない。そうなった場合、僕の存在意義はあるのかどうか。

 ふと、遠野さんがこちらをじっと見ている事に気付く。

「えっと、何か?」

「……いえ、高校の頃と変わらないな、って」

「ああ、うん。そうかも」

 あの頃からろくに成長もせず大人になってしまった。遠野さんや足立さん、他のみんなだって色々と変わって、子供から大人になっているはずなのに、僕の中身は何も変わった気がしない。そして僕にはどうすれば変われるのかもわからない。

「ま、あまり気にしないで。悪い意味で言ったわけじゃないから」

「え? あ、そうなの?」

「突然嫌味を言うような人だと思われてる?」

「あ~、そっか、そういう事になるのか。いや、そんな風には思ってない」

「ならいいけど」

 確かに悪く言われてるなんて思い込みか。あのいつも落ち着いている遠野さんが突然嫌味を言うような人であるとは思えない。だとしたらさっきの言葉の意味は何だろうか。それを遠野さんに尋ねようかと思った時には、既に彼女は足立さんとの会話に入っていて、僕はその機を逃したと言わざるを得ない。

 そして残念ながら時間切れ、五時、だ。

 二階へと足を踏み入れ扉の前に立つ。少し緊張で息を吐きながらゆっくりと扉を叩いた。

「どうぞ」

 許可を得て中へ。整頓された、というよりは物の少ない部屋だ。雑多に物が置かれて散らかっている僕の部屋とは大違い。扉を閉めて、ひとまず用意されていた椅子に腰かける。

「じゃあ、えっと、今日も始めて行こうか」

「その前にちょっと話があります」

 話がある、と聞いて真っ先に思ったのはやはり家庭教師を辞めて欲しいと言われるのではないかという事だ。どれだけ僕が色々と考えたところで彼女の成績には家庭教師が必要とは思えない。或いは、東大でも目指すのであれば話は別なのだろうが、そうなると残念ながら今度は僕にその力が無い。

 儚いものだ、そう思いながらその宣告を待

「まじで意味わかんないんですよ、六田の奴」

 ……何か、想像と違う言葉が聞こえた。

 

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