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間隔の公式  作者: 藤乃病


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3/9

3.

 朝、目が覚めると最初に確認したのは机の上だった。郵便物や何冊かの本が散らばるそこには簡素な茶封筒が置かれている。それを手に取ると表に書かれている文字を確認する。

『家庭教師代』

 それを見ながら、足立さんの字は高校の頃とあまり変わらないな、とぼんやりした感想を浮かべながらその口を開く。中には五千円札が一枚入っていた。

「……まあ、流石に夢では無いか」

 寝起きの頭は僅かながらに昨日の出来事が夢では無いかと疑っていたけれど流石にそんなことは無い。足立さんとの再会、彼女からの娘の家庭教師をしてほしいと言う提案、そして夕ちゃんの勉強……、は見ていないけれど色々と話をした時間。あれらは全て現実で、その成果がここにある。

「……話をしただけで自給二千円超は、流石に出し過ぎだよ、足立さん」

 昨日、帰る直前。彼女は家庭教師代と言って無理矢理にこの封筒をポケットにねじ込んだ。僕は受け取り拒否を表明したつもりだったけれど残念ながらそれはならずここにある。彼女からすれば家庭教師はちゃんと仕事として存在するのだからお金を払うのは当たり前という事だったが、実際に勉強を見ていない僕からすれば流石に気が引けるというものだ。

 しかしまあ、この五千円が非常に助かるものなのは間違いない。

「週に二回だから、月に四、五万円か……」

 それだけの収入が増えると言うのは今の僕にとってはかなりありがたいものだ。減っていた貯金を食い止めるに値するものであるのは間違いない。たぶんこれで収支がトントンぐらいにはなるはず。ましてや足立さんの紹介、というか、まあ、足立さんと会って話をする時間があるのは、純粋に、気が楽だ。

 ディリリリリリリリリ―――

「……そろそろ仕事の準備をしないとか」

 スマホを手に取りアラームを止める。とりあえず今日は仕事だ。一旦頭をリセットして出社しなければ。顔を洗って目を覚ますと菓子パンを口に放り込み、牛乳をコップ一杯、一気に飲み干す。それから身支度を整えると外へ出た。

 朝、五時半。夏の盛りとはいえまだ外は薄暗く人の往来はほとんどない。僕は軽く伸びをしながら自分の勤めているスーパーへ向けて歩き出す。

 徒歩でほんの十分、地域住民にそれなりに愛されている少し古めかしいそのスーパーは、既に明かりがついていた。今日は渚朝先輩がいるからたぶんそれでだろう。裏手に回り従業員用の出入り口へ、更衣室へ向かう前に事務所を覗くとそこには見慣れた女性がパソコンと睨めっこをしていた。

「先輩、おはようございます」

「ん、ああ、相川か。おはよう」

 渚朝先輩は僕を見ると伸びをしてから立ち上がる。

「とりあえず着替えて来い。裏で待ってるから」

「わかりました」

 先輩は何枚か印刷した紙を持って裏手に向かう。ひとまずそれを無視して更衣室に向かい制服に着替えて後を追う。

 店の裏手、喫煙所とついでに自販機があるそこで先輩はコーヒーを片手に待っていた。

「お~、来たか。今日は何を飲む?」

「自分で出しますよ」

「まあまあ、いいからいいから」

 いつものやり取りを行った後にひとまず一番安いお茶をご馳走になる。

「いただきます」

「うん。それで今日なんだけど、冷凍食品の割引セールがあるからまずはそっちからやって欲しいかな」

「そういえば今日からでしたね」

「そうそう。特にこの辺の―――」

 しばらく業務連絡が続く。渚朝先輩はここに勤めて長く、僕が大卒で入社した時に既に七年働いていると言っていた。高校卒業してバイトでここに入り、それからずっと働いていると聞くが、店長の次にここの仕事に詳しいとまで言われている。実際、店長もかなり頼りにしているようで彼女がいる日は店を空ける事もしばしばだ。

 そういうわけで、今日は渚朝先輩の仕切りだ。この小休憩の間に今日やるべき仕事を頭に叩き込み、それから業務開始となる。ひとまずは、他の人たちが来るまでに冷凍食品の品出しを一気にやってしまおう。

 仕事の忙しい日はあっという間に時間が過ぎる。あちらこちらと品出しを延々としていると気が付けば十二時になっていた。

「相川さんもう十二時っすよ」

 跡辺君が時計を見て呟く。

「ああ、うん。ここを出したら上がるよ」

「あ、任せていいっすか? 今日は忙しいんでちょっと間に合ってないんすよね」

「まあこのぐらいはね」

 彼はバイトの同僚、今年大学三年生の後輩だ。彼はよくやってくれるのでいずれ就職と共にここから離れてしまう時が来るのかと今から戦々恐々としている。店長や渚朝先輩はどうにか引き留めようと考えているようだが、上手く行くかどうか。

 そんなことを考えながら菓子の棚を埋め続け、一通りそれが終わったところでバックヤードへ。軽く片付けをした後に更衣室に置いて来たタイムカードを手に取り、

 ポーン。

 機械にかざすと音が鳴った。退勤完了。ほんの半年ほど前は暇な日でも夕方まで働いていたはずだけれど、今の僕は十二時を過ぎればさっさと帰る。アルバイトとしての日々は実に気楽だ。

 ただ、時々、頭の中に過ることがある。

 学生時代は勉学に励み、そこそこ名のある大学を出て、就職したのがそこらのスーパーで、今や単なるアルバイト。両親にはこのことは言っていない。より正確に言えば、就職先がスーパーだと知られた時点で半分勘当のような扱いを受けているだけだが。幸いにも兄が優秀なので両親ともに僕の事など無かったものとして幸せに過ごしているはずだ。

 ははははは。

「はぁ……」

 どうしても、時折、不安がまるで暗雲のように立ち込める時がある。未来の事などなるようにしかならないと言う人もいるが、だからと言ってそれを心配せずにいられるほど僕はおおらかにはなれそうもない。視界の先、進行方向に見える大穴の事が、どうしても気になって、気になって、仕方がない。

「暗い顔だな」

 不意にかけられた声は。

「渚朝先輩?」

「今帰りか? 私も丁度休憩に入ったところでな。良かったら飯でも行かないか?」

 



 渚朝先輩は昔から優しく仕事も出来て責任感がある、尊敬すべき人だ。この仕事を一から手ほどきしてくれたのは先輩だし、中々周囲に馴染めずにいた僕に仕事上での人との付き合い方を教えてくれたのもそうだ。もしも先輩がいなければ、僕はもっと早く限界が来て仕事を辞めていたのだろう。

 店を出て少し歩く。近くの定食屋は昼時にも関わらず空いている。理由は明白で店主が変わり者で敬遠されがちなのだ。味もそれなりで普通はこんな店を選ぶ理由が無い。それでもここに来たのは、空いているのが確実で料理の提供が早いのと、僕があまり人が多い場所を好まないことに配慮してくれているのだろう。

「生姜焼き定食でいいか?」

「はい」

「店主、生姜焼き二つ頼む!」

 カウンターで暇そうに立っていた店主は無言で厨房へと引っ込んで行った。あの性格でよく客商売をやろうと思ったものだが、それは僕にも言える事なので深くは追及できない。あれで料理の腕が良ければまだよかったのだが、残念ながら僕らは長年の研究の成果として生姜焼き定食以外は大して食えたものでは無いと知っている。

 セルフサービスの水で喉を潤しつつ奥から聞こえて来る鍋の音をBGMに楽しんでいると、不意に、先輩が口を開く。

「最近は、どうだ?」

「どうだ、と、言いますと?」

「その、体調とか、精神的なあれこれとか、な」

「ああ……、最近はすこぶる快調、とまでは行きませんがそれなりに元気ですよ」

「それなりか……。まあ元気と言えるだけ良い事だ」

 一時期、僕は精神的にかなり落ち込んでいた、というか、もはや落ちていた時期があり、その頃は先輩にかなり心配を掛けてしまったものだ。幸いにして、アルバイトになり時間の余裕と心の余裕が出来たおかげか、その頃から比べれば体調はかなり良くなっている。

 まあ今は別の心配事のせいで色々と難しい状態にはなっているが。

「実際、どうなんだ? 仕事時間を減らして」

「精神的には少し余裕が出た気がしますよ。アルバイトになって責任が減ったと言うのも効いてるのかもしれません」

「そうかそうか。お前はすぐに自分だけで何とかしようとするからな。何かあれば遠慮なく頼れよ」

「……ありがとうございます」

 そうは言ったものの先輩には入社してからずっと迷惑のかけ通しのようで正直気が引ける。色々と失敗をしては助けてもらったもので、ただでさえ僕がアルバイトになって負担が増えているだろうに更に負担を駆けるのは少々、無責任にすら感じてしまう。

 さて、そんな先輩はほとんど誰もいない店内をきょろきょろと確認している。奇妙な動作だ、と思っていると、こちらに顔を近付けると小声で呟く。

「しかし気になってるんだが」

「何がです?」

「これは大丈夫なのか?」

 先輩の手は親指と人差し指で円を描いている。つまりこれとは、お金だ。

「正直、あんまり大丈夫では無いですけどね」

「そうなのか」

 先輩は途端に表情を歪めて、ああ、これは僕を心配しているんだ。

「やはり店長に直談判して少しでも時給を増やすように言った方が」

「いや、そんな。僕はこうして働かしてもらってるだけで」

「しかし店長は安い労働力が欲しいだけかもしれないぞ」

「いやいや……」

 僕の肩を持ってもらえるのはありがたいが、店長と争うような事はやめて欲しい。それこそ、胃が痛くなりそうだ。

「それに大丈夫ですよ。実はちょっとした伝手で家庭教師をやる事になったんです」

「家庭教師?」

「はい。昨日決まった話なんですけど、いつまで続くかはわかりませんがひとまずは一時的に収入が増える見込みです」

「そうか? ならいいが。そういえば君は良い大学を出ているものな、勉強は得意なのだろう? 折角ならそこの会社で一番の家庭教師を目指すのはどうだ?」

「あ、いや。そういう会社に入ったんじゃないんです。実は昨日、偶然高校の同級生に会いまして」

「ほう?」

「それで娘さんの家庭教師をやってくれと頼まれたんですよ」

「ああ、そういう事か」

 先輩は納得したように頷いて持つべきものは友だな、と小さく呟いたのだが。

「しかし君は友達がいないと前に言っていなかったか?」

 と、痛い所を突かれてしまった。先輩は今日のように時間があった時に食事を奢ってくれるのでその際に色々と話をしているのだ。その際、学生の頃にろくに友達もいなかったという話をしている。

「あ~、まあ、その。実際、関係性としては、友達と呼んでいいのかわからなくて。向こうは今になっても僕の事を友達と呼んでくれていましたけど、足立さんとは一緒に勉強会をした仲というだけだったので」

「足立さん? 女性なのか?」

「ええ」

 一瞬、渚朝先輩が険しい顔をした気がしたが、目を擦って再び見た時にはいつもの表情だった。たぶん気のせいだろう。

「娘さんがいるんだから、既婚者か」

「ええ、まあ」

「……いや、何でもない。存分に勉強を見てやるといいだろう。君の得意分野なのだろう?」

「そこまで言うほど自信があるわけでは無いですが」

「ほらよ」

 ガチャ。

 音を立てて生姜焼き定食が置かれる。相変わらず無愛想を超えて客商売を何だと思っているのかと問いたくなる接客だ。しかしまあ、生姜焼きの良い匂いが食欲をそそるので放っておこう。

「じゃあ、いただきましょうか」

「そうだな」

 そこからは軽い世間話をしながら食事の時間だ。生姜焼きはいつも通り、そこそこに美味しかった。




 先輩と分かれて家に帰る、前に、寄る所がある。家庭教師という身分には必須の物を探しに行かなければならない。つまり、高校生の使っている教科書、或いはその範囲の参考書。

 夕ちゃんはかなり頭が良さそうだった。少なくとも足立さんのように一から教える理由は無く、なんなら放っておいても自分の力で分からない所を潰して行けるのだろうけど、それはそれとして僕は家庭教師の名目で足立さんに雇われの身となる。

 もしも、何か勉学について尋ねられた際に、わかりませんなどと言う訳にはいかないのだ。

 参考書を買いに来るのは実に久しぶりだ。たぶん、最後は大学の頃だから、もう十年近く見ていないかもしれない。

「高校生、の、参考書か……」

 しかし来てみたはいいがどの辺りを見て行けばいいのかわからない。いっそ高校生がそこらを歩いていればそれとなく様子を観察してわかるのかもしれない。いや、そうそう参考書を買いに来る高校生もいないか。

「どうしたものか」

 ひとまず、ずらりと並ぶ背表紙を流し見しながら懐かしき勉学の記憶を思い起こす。あの当時は、教科書と資料集を交互に見つめては要点をまとめていたっけ。




 七月の夜はなんとも蒸し暑く、汗でシャツが張り付き、額から顎先を通り汗がぽたりと雫となって落ちる。用意していたタオルで机を濡らす汗を拭き取り、28度に設定した冷房を付けると、温い風が部屋の空気をかき回して行く気配がした。

 予習復習は日々の習慣で、良い成績を取るには当然の事だと思っていた。それが楽しいとか楽しくないとかいう観点で見たことは無く、ただそうするだけのものでしかない。机に備え付けられた明かりはノートを照らす。

「夏休み前に予習っていうのもね」

 当然ながら夏休み中は授業が前に進むことも無い。これから数日しかない夏休みまでの日程で授業が進む量などたかが知れている。事前に要点をまとめておくつもりだったが、やめた。

「それよりも、か」

 ノートの頁をめくる。次々と過去の記述へと戻って行き、数日前のテストの範囲。

「足立さんの日本史のテストは散々な結果だったし、他のテストもあまり期待は出来ないよね」

 明日は四教科ほどテストの返却がある予定。その内の何教科が赤点に引っ掛かるだろうか。少々失礼な想像にも思えたが、たぶん、現実的な予想というものだろう。

「日本史……、自分でノートをまとめてみたいって言ってたな」

 昨日、足立さんは僕の普段使っているノートや要点をまとめたルーズリーフを見て自分でそれをやってみたいと言っていた。彼女は今頃それをやっているのだろうか?

「……他の教科、も、暗記系は本人にやってもらった方がいいかもしれない」

 彼女はやる気はあるみたいだし、無いのならばそもそも僕に頼みに来ないだろうし、おそらくは明日になれば幾らかまとめられたノートが出来上がっている事だろう。他の教科でも同じような試みをしているかもしれない。暗記系の科目はそれをやるだけでも幾らか頭に入るはずだ。

 うん、明日は数学や国語の文章題辺りを中心にやって行こう。

 そうと決まればどの辺りを出題してどうやって解いてもらうのがいいか考えなければ。問いと答えを教えるのでは無くその筋道を教えるより良い方法を見つけ出す。

「どうしようかな」

 その悩みは随分と贅沢な悩みだ。誰かの為に悩めると言うのは、とても、気分が良いのだから。




 日々はあっという間に過ぎて行く。高校の頃の夢を見た日もあり、そういえばそんなこともあったものだと懐かしさに浸っている間に今日は。

「二度目の家庭教師の日か」

 足立さん及び夕ちゃんとの話し合いの結果、家庭教師は月曜日と金曜日、夕方五時から二時間という事に決まった。報酬は一回当たり五千円、高過ぎるのではないかと思ったが、どうも家庭教師の報酬はかなりばらつきがあるようで照らし合わせてみれば通常の範囲内の報酬らしい。家に帰って調べたので間違いはないだろう、ひとまずその提案を受け入れる運びとなった。

 しかしながら、だ。正直な所様々な理由で気が重い。

 机の上に広がっている参考書の山を片付けひとまずはパンを食べる。菓子パンの糖分が脳に染み渡り徐々に覚醒し始めるのを感じる。しかし覚醒して思う事と言えば。

「一体、何を教えればいいのやら」

 高校の時、足立さんは明らかに勉強が不得意だった。最終的には赤点を取るような事は無くなっていたが、その一方で勉強会で教える事が尽きる事も無かった。彼女は常にわからない部分を持っていて、僕はそこを重点的に教えればいいだけだったのだ。

 しかし今回、夕ちゃんの場合は訳が違う。軽く話をしただけではあるが授業について行けていない部分など特になく、そもそも教えるような部分が存在しない。ましてや僕は随分とブランクがある。一応、この数日で多少は埋められるよう努力したつもりではあるが、どこまで通じるかは未知数だ。

 さて、僕に家庭教師としての仕事はあるのだろうか?

「……こうしてみると、なぜ夕ちゃんは家庭教師にOKを出したのかわからない」

 初めは明らかに断るつもりだったはずだ。明らかに迷惑そうに僕の事を見ていたのをはっきり覚えている。それなのに最終的にはなぜか家庭教師を雇うのも悪くないと言う結論になっている。

「そんなに期待されるような事があっただろうか?」

 正直、色々と、分からない。

 とはいえ引き受けた仕事は完遂できるよう可能な限りの事をすべきだ。少しでも夕ちゃんの力になれるよう頑張るしかない。

 立ち上がり台所へ、菓子パンの袋をゴミ箱に捨てて、コップに牛乳を注ぎそれを一気に飲み干した。食道を通り過ぎ胃へと水分が入って行くのを感じて、大きく、息を吐く。

「よし、もう少し勉強しよう」

 残り僅かな時間ではあるが、まあ、最後の追い込みと言うやつだ。頑張ろう。




 家を出て、道を行き、ごく最近見たばかりの家を訪ねる。そして、若干躊躇いつつ、いや若干どころでは無いが、インターホンを前に逡巡する事しばらく、ようやく決心がついて指先でボタンを押す。

 ピンポーン。

 家の中からありがちな音が聞こえ俄かに中で騒がしくする音が聞こえる。たぶん足立さんがばたばたと出迎えの準備をしてくれているのだろう。やがて足音がこちらに向かって来て、ドアが開く。

「いらっしゃいシッキー」

「どうも」

「とりあえず上がって上がって」

 足立さんのお言葉に甘えて中へ入る。前回来た時は色々といっぱいいっぱいだったので見ていなかったが、二度目という事で少し余裕が出来たのか、自然と玄関に置いてある小物やら掃除の行き届いた床のフローリングが目に映った。流石は足立さんと言うべきか、僕などとは違いオシャレに気を遣った部屋だというのが伝わって来る。

「まだ夕ちゃん帰って無いんだよね」

「そうなんだ」

「いっつも早いんだけどね~、まあたぶんすぐに帰って来るかな」

 言いながら彼女は自然と僕をリビングに誘導し座るように促す。自身は台所で以前にも振舞ってくれたように紅茶を淹れているのだろう、相変わらずもてなしの精神が凄い。

 ひとまず腰を下ろした僕は特に目的もなくリビングに飾られているものへ目をやる。まず目に入ったのは写真立て、そこに写っているのは足立さんと夕ちゃん、そして見覚えの無い体格の良い男性。おそらくは、これが足立さんが言う所の龍一君、彼女の結婚相手なのだろう。足立さんと龍一君は屈託のない笑みを浮かべているが、二人に肩を抱かれている夕ちゃんの笑みは少しぎこちない。

 再婚、した、事と言うか、まあ色々と思う所があるのだろう。

「お待たせ~。紅茶飲んで飲んで」

「ありがとう。いただきます」

 足立さんは、夕ちゃんについて思う所は無かったのだろうか。表面上の彼女は夕ちゃんに対して特別悪い感情は抱いていないように見える。見た目や性格の事を除けば、その向けている愛情の量は間違いなく親子だと思えるほどに。

 しかし自分が好きになった相手の子供、自分と血の繋がっていない子供、それを相手に全く思う所が無いという事が有り得るのだろうか。

 正直、わからない。

「足立さんは」

「ん~?」

 わからないことは聞いてみればいい。そう思ったのだが、果たしてこれを軽々に聞き及んでいいものか。少し悩み、僕は、

「夕ちゃんの成績についてどう思ってるの?」

 聞かずにおくことにした。仮に聞くにしても今ではない、そう思ったのだ。もしもこれから先もこの関係が続くのなら、いずれより相応しい時が来るかもしれない。そういう事にして先延ばしにした。

 それに成績についてもどう思っているのかは気になるし。

「正直、わざわざ家庭教師を頼むほど悪い成績とは思えなかったけど」

「ん~、でも勉強って出来て困る事は無いでしょ?」

「勉強が出来たら困らないって事も無いと思うけど」

 これに関しては、自分自身の実感として確かな事だ。勉強だけを頑張って、結果として落ちぶれた僕がいる。大学、高校、或いはもっと前から、他にやるべきことがあったのを僕は見過ごして来ただけなのでは無いだろうか?

 その考えの元では、夕ちゃんにこれ以上勉学に費やす時間は必要無いのかもしれない、そう思う。

「まあそれに関してはシッキーの言う通りかもね。私の知る限りで一番頭が良いシッキーがそう言うんだから」

「……それはどうも」

「でも私はシッキーの事を信頼してるよ」

「……それはどうも?」

 にこにこと笑顔を浮かべるばかりで続きの言葉は無い。はぐらかされた、感じだ。もう少し突っ込んで話を聞いてみても良いけれど、たぶん、この調子では話すつもりは無いのだろう。

「確認なんだけど」

「うん」

「同級生のよしみで僕を助けようとしただけって事は無い?」

「……えっと?」

「つまり、その、僕の境遇を憐れんで援助をする為に家庭教師という方便を使った、ってこと」

 僕の言葉を足立さんは、時間をかけてゆっくりと飲み込む。

「あ~、つまりシッキー可哀想、助けなきゃ! って思ったかって事?」

「そうだね」

「もうちょっとわかりやすく言ってよ~。それに同級生のよしみって、どうせなら友達だからとか言ってよ」

「あ、うん。ごめん」

 今、僕悪かったか? ……悪かったかもしれない。

「まあでもさ、シッキーの力になりたいと思ったのもあるけどさ。別にそれだけが理由ってわけじゃないよ」

「そうなんだ」

「うん。だってそういうのシッキー嫌でしょ?」

 それはその通り。そうでなければわざわざこんなこと聞いたりしない。正直、不安と申し訳なさで押し潰されそうだったのだ。もしも僕なんかを助ける為だけに足立さんがこの提案をしたのであれば、と。

「さっきも言ったけど、シッキーの事は信頼してるから」

「信頼」

「そうじゃなきゃ夕ちゃんの事を任せたり出来ないしね」

「……その信頼に応えられるか、不安だよ」

 確かに実の娘のように大事にしている子の事だ、信頼が無ければ任せられないだろう。それは分かるけれど、その相手が本当に僕で良かったのだろうか。僕にどれだけの事が出来るだろうか。成績を伸ばしてあげたい気持ちはあるけれど、果たして伸びしろはあるのだろうか?

 ガチャ。

 ドアの開く音が響く。

「帰って来たみたい」

 一拍、間を置いて。

「……ただいまー」

 夕ちゃんの声が、憂鬱そうなその声が聞こえて来る。

「夕ちゃんお帰り~」

 足立さんは声を聞いてすぐに飛んで行った。さて、僕はどうするべきだろうか。

「あの人、来てるの?」

「言ったでしょ? 月金に家庭教師してもらうって」

「そうだけどさ……」

 段々と声がこちらに近付いて来て、リビングに夕ちゃんが顔を見せた。

「どうも」

 ひとまず頭を下げると彼女も同じように会釈してすぐに顔を引っ込める。

「愛さん、やっぱりさ、家庭教師なんて」

「ほらほら、早く準備しないと」

「あ、ちょっ」

 声を聞くだけで光景が想像できる。たぶん夕ちゃんは背中を押されて自分の部屋まで一直線だ。ああいう時の足立さんは有無を言わさぬ力がある。単純にこっちの話を聞く気が無いとも言うけれど。とはいえ彼女に悪意が無いのは一目瞭然なので僕らのような押しに弱い人間にはどうしようもなくただ流される事しか出来ないのだろう。

 いや、勝手に夕ちゃんを僕と同じタイプに組み込むのはちょっと失礼か。

 ひとまず、僕も部屋へ向かう。

「愛さんがああ言うから仕方なくやるけど、私の邪魔はしないでよ!」

 部屋に入っての第一声。

 うん、やっぱり押しに弱い人間に分類しておこう。

「えっと、まあ、とりあえずどうしようか?」

「どうしようかって……。私が決めるの?」

「そういう訳じゃないけれど」

「じゃあどういう訳?」

 う~ん、やっぱり当たりが強いので同じタイプは無理があるか。

 さて、益体の無い分類学はこの辺にしておいて、真面目に家庭教師としての任を果たさねば。

「とりあえず幾つか質問しても良い?」

「変な事聞いたら殴るからね」

「期末だしそろそろテストなのかな? 日程があれば知りたいなと思って」

「ああ……。来週だけど」

「点数は取れそう?」

「心配されるような事、無いから」

「それは良い事だね」

 馬鹿にしてると取られたのか睨まれてしまう。正直、夕ちゃんは結構目付きがきついと言うか、そんな顔をされるとちょっと怖い。

「えっと、とりあえずどの辺りがテスト範囲なのか聞いても良いかな? 一応僕も高校生の授業範囲を改めて勉強し直しては見たんだけど、今どの辺りやってるのかわからなかったからちょっと心配で」

「……まあ良いけど」

 ひとまず机の上に広げられた教科書を見ながらテスト範囲の確認。一部予想していた範囲と異なっていたので、後で改めて勉強のやり直しだ。

「最初のテストは数学なんだ。苦手な所とかあるの?」

「数学なんて公式を覚えるだけの暗記だもの。簡単よ」

 足立さんも数学は暗記科目だって言ってたっけ。彼女は簡単とは言わなかったけれど。血の繋がっていない親子とはいえこうも話が変わるものか、思わず感慨に耽ってしまう。

「寧ろあなたの方が本当に勉強が出来るのか疑わしいけど」

 そんなことをしていたら小声でちくりと刺すような言葉がやって来た。何か反論したい所ではあるけれど、中々難しい。

「一応、ある程度は教えられるように勉強して来たけど……。まあ信じられないよね」

「それはまあ、証拠でもあれば別ですけど」

「……証拠にはなるかわからないけど」

 肩にかけていた鞄から家で要点をまとめたルーズリーフを取り出す。

「一応自分なりに色々と要点をまとめたりして頭に入れて来たつもりだよ」

 教科ごとに数枚に渡るそれを見て夕ちゃんは口を尖らせて僕を見た。

「……本当に準備して来ないでよ」

 どうも理不尽なクレームを受けた気もするけれど、あまり気にするまい。店長や先輩もクレームの八割は聞き流せと言っていたし。

 いや、夕ちゃんは家庭教師にそこまで乗り気じゃないっぽいし、ここはこっちもやる気の無い姿を見せて早々に終わりにすべきだったかもしれない。しかしそうすると足立さんの期待を裏切ってしまう事になるんだろうか? それはそれで問題だし、僕はどうすべきなんだろう。

 悩みの余りに唸り声をあげるのをどうにか堪えていると、夕ちゃんがいつの間にか僕が置いたルーズリーフの束に目を通し始めていた。

「……わかりやすい」

 お、意外に好評?

「って言うか……」

 夕ちゃんは鞄を開けるとそこから一冊のノートを取り出す。そしてそれを開くと、不思議と僕のルーズリーフと似たようなレイアウトの文字の並びが現れる。黒、青、赤の三色のみで構成されたそのノートは地味ではあるが目で見た時に重要な場所がすぐにわかるようになっている。

「同じようなノートの取り方だ」

「……何か嫌なんですけど」

 ああ、まあ、そうだよね。三十間近のうだつの上がらない男性と同じだね、は普通に罵倒だった。

「は、いいとして。その……、このノート……、違くて」

「……えっと?」

 何だろう。本当に何を言おうとしているかわからない。

 どうにもできずしばらく待っているとようやく言いたいことがまとまったのか彼女は口を開く。

「これ、愛さんに教えてもらったんです」

「何を?」

「ノートの書き方」

「そうなの?」

「お父さんと結婚してすぐ、去年ぐらいに、教えてもらって」

「……へえー」

 そっか、足立さんはあのノートの取り方、まだちゃんと覚えてたんだ。

「前は鉛筆だけで書いてたんですけど、こっちの方が分かりやすいからって、無理矢理に直されて。まあおかげで成績は上がりましたけど」

「……そうなんだ」

 あの時に少し教えただけの事がこうして今に繋がっている。上手く言い表せないけれど、凄く不思議で、悪くない。

「それは、いいんですけど!」

 と、その感慨を叩き割るような声で夕ちゃんが吼える。

「で、ですけど?」

「なんか、やっぱり、怪しくないですか?」

「何が?」

「やたらテンションの高い愛さんと、あなたの存在が!」

 ……よくわからない。たぶん傍から見た僕の顔は誰がどう見ても困惑している表情だろう。

「誤魔化そうったってそうはいきませんよ! どうせ、浮気相手、なんでしょ!」

 浮気相手、の部分だけ小声だったのはたぶん周囲への配慮だろう。もしもご近所に聞こえたりしたら少々都合が悪いから。

 それはそれとして。

「う、浮気……? 僕と足立さんが?」

 何ともまあ、僕としてはどう反応していいのか困る。

「お父さんがいないのを良い事に、浮気してて、この機に我が家に入り込もうとしてる、そうでしょ!」

「なぜ急に?」

「このノート、愛さんと一緒の取り方なのが怪しい」

「それ、怪しいかな?」

「どうせ学生時代に付き合ってて、それが再会と同時に恋心も再燃とかそう言うのなんでしょ! ノートの取り方が一緒なのが付き合ってた証拠よ!」

「それは単に僕が足立さんにこうやるとわかりやすいよって教えただけなんだけど……」

「嘘だ! どうせ勉強会とか言いながらいちゃいちゃしてたのを誤魔化してるんだ!」

 何ともまあ、何ともまあ……。どうすればいいのやら、悩むなぁ。

 どうやら夕ちゃんは思い込みの激しい性格らしい、この状態では何を言ったところでまともに取り合ってはくれないだろう。

「一応、説明すると、足立さんがテストで赤点を取ってしまって、再テストに向けての勉強会で、教えたんだよ。元々はすごくカラフルなノートだったんだけど、見づらかったから」

「愛さんがそんなことするとか、本気で言ってるの?」

「……? いや、そうしてたけど」

 というか今でもそういう事しそうじゃないだろうか? 僕の中では足立さんの印象だけれど、実利よりも見た目の綺麗さとか、そういうものを重視していると思っている。いまいち、夕ちゃんの中にある足立さんがどんな姿をしているのかわからない。わかるのは、少なくとも今、浮気を疑われてることぐらいか。

「そんな事言うと、本人に聞くからね!?」

「え、ああ。うん……?」

 何だろう、何を考えているのか全然わからない。

 そして夕ちゃんは部屋を出て行く。たぶん足立さんに聞きに行ったのだろうけど。入り口から顔を出して耳を澄ませると一階から声が聞こえて来る。

「え? ああ、そうそう。シッキーに教えてもらったの。当時は私馬鹿だったからさ~、カラフルなノート取ってたなぁ、懐かしい」

「あの人から教えるって言って近付いてきたの?」

「え? いや、私から。友達みんなそんな頭良くなかったからさぁ、シッキーは前の席で頭良かったのは知ってからさ。いや~、あの時は補習になるかどうかの瀬戸際だったからさぁ、必死だったよね」

「……じゃあそこからあの人が連絡先を聞いて来たり」

「シッキー携帯持ってなかったよ。家の電話番号も教えてくれなくてさぁ。そのせいでこの間再会するまで連絡先知らなかったんだよねぇ」

「……そう」

「この話ってこの前しなかったっけ?」

「愛さんに勉強教えてたってのは聞いた気がする」

「そっかそっか。まあシッキーとの思い出が知りたかったら後で教えてあげるよ。今は勉強頑張って」

 夕ちゃん、軽くあしらわれてるな。頭は良さげなのにどうしてあんな風になってしまうのだろう。いや、勉強が出来るかどうかとコミュニケーションの話は別に関連は無いのかもしれない。寧ろほぼ無いだろう。僕は本当に不得意だし。

 っと、戻って来る。部屋の中に戻り階段から響く足音に耳を澄ませる。

「お帰り、どうだった?」

「……ふんっ」

 どうやらご機嫌斜めらしい。

「あ~、あの、僕に、どうして欲しいとかある?」

「出来れば帰って欲しい」

「……それ以外で、家庭教師的なその、何かで頼めるかな」

「そんなの無い」

「でも前回は最後には家庭教師も悪くない、みたいなこと言ってなかった?」

 それを告げると彼女は顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。どうも、触れて欲しくないところだったかな。しかし一度は、程度こそわからないがそう思ったという事実があるのなら、僕が家庭教師を続ける突破口はここにあるのだろう。

「まあ、その、僕は、一応やる気はあるからさ。勉強でも他の事でもいいから、力になれる事があれば教えて欲しい」

 そうでないと足立さんに顔向けできそうも無いからね。

 そんな僕の言葉に対して夕ちゃんはじっと、こっちを見た。

「……この前話した事覚えてる?」

「ん? ああ、色々と、学校での、友達とか、先生とか、何か色々な愚痴とか?」

「そう、それ」

 前回、家庭教師と言う名目で行ったのは単なる愚痴聞き役だったと言わざるを得ない。彼女に友達の作り方について聞かれるも何も答える事が出来ず、その後は彼女が色々と溜まっていた不満を爆発させるように一時間程は話し込んでいただろうか。

「ちょっと、相談があるんだけど」

 また相談か。正直な所、少し困ってしまう。それが家庭教師としての役目なのかはわからないが、その本分を果たせないのであれば少なくとも悩みの解決ぐらいはすべきだろう。それはお金を貰い働く中で当然の責任だ。

 だけど僕にはその責任を果たせる気が全くしない。

「……ひとまず、話を聞こうか」

 しかし僕に逃げる選択肢は無い。自分の生活を少しでも上向かせる為、先輩のように僕を見てくれる人に心配を掛けない為、足立さんの厚意に対して報いる為。

「学校でさ、六田ってやつが、よくちょっかいかけて来るの」

「今回のテストでもさ、勝負しろとか言って来て。まあ相手してやるのも面倒でしょ?」

「正直負ける気もしないし鼻で笑って取り合う気も無いんだけどさぁ。いっつもいっつもあいつも飽きないなぁって」

「それは良いんだけど、それと別に秋葉って子がいて。うん、女の子」

「その子が負けてくれって、テストでの勝負で」

「無意味に成績下げるのも嫌だから断ったんだけどさぁ。そしたらテスト用紙を上手く改竄しろって、返却された後に上から書き足して点数を書き換えろみたいなこと言って来たの」

「無茶苦茶言うから無視して帰ったんだけどさぁ」

「どう思う?」

 つらつらと述べられた情報を整理する。

 まず六田君という子がいて、彼は夕ちゃんをライバル視しているらしい。それは別にいい、というかライバル視してくれるような相手がいるのは良いことだ。どんな形であれ人との縁があるというのは将来に役に立つはずだ。僕は今更にその事を実感し後悔している。

 それはそれとして、彼とテストの点で勝負をする、のだろうか? とにかく勝負があるとして、横から秋葉さんが出て来るのは何だろう。

「ねえ、どう思うって聞いてるんだけど」

「いや、ちょっと、考えてて」

「私、意味わかんなくて。上から数字書き足すったってばれそうじゃん? 意味無いでしょ?」

「まあそうだね。……例えば、えっと、その秋葉さんとは仲が悪かったり?」

「別にそんな話したこと無いけど……。あ、でも前に体育でめっちゃ敵視して来る子がいるって言ったの覚えてる?」

「ああ、体力測定でなんか、だっけ?」

 確かまとめて数人で測る項目で毎回張り合って来る子がいてちょっと怖かったみたいな事を言っていた気がする。向こうの方が良い記録が出た時は勝ち誇った笑みを浮かべてたとか。

「そうそう。それが秋葉」

「それが秋葉さんかぁ」

 ううむ、成程。となるとこれは。

「思うに、六田君に負けるところを見て溜飲を下げようとしているのかもしれないね」

「それって気分良い?」

「嫌いな相手が誰かに負けている姿は人によっては気分が良いと聞くよ」

 本当に、良くある話だ。店長に厳しく当たられたバイトの子がクレーム対応でその店長が頭を下げている様子を見てけらけらと笑う、そんな姿を何度見た事か。まあそういう子らはすぐに辞めて行ってしまったけれど。店長ももう少し人当たりが良ければ人が定着するだろうに。

 っと、思考が脱線してるな。

「つまり秋葉は私が誰かに負けてる所が見たいって事? 嘘だってわかってるのに?」

「六田君じゃあ勝てないと思ってるのかもね」

「……まあ、六田に負ける気はしないけど」

 六田君、哀れな。誰からも勝利を得ると思われていないなんて。

「でもそれなら秋葉が直接私と勝負すれば良くない?」

「……あ~」

 それもそうだ。わざわざそんな迂遠な事をする必要はない。いや待てよ、僕は秋葉さんが夕ちゃんが負けている姿を見たいのだと思っていたのだけれど、逆なんじゃないだろうか? つまりは、夕ちゃんの負けではなく、六田君の勝っている姿を見たいのだ。

 いやしかしそれは何の為に?

「例えば、六田君と秋葉さんは仲が良かったり?」

「さあ? 別に二人と仲良いわけじゃないし、知らない」

 そうだった、夕ちゃんは友達とかいないタイプの女子高生だった。

「でも仲良いわけじゃないのに六田君とは話を?」

「あいつが勝手に絡んで来るだけ。勝負事とか、好きなんじゃない?」

「他に六田君が競っている相手はいないのかな?」

「知らない」

「……そっかぁ」

 正味、情報が少な過ぎて推理のしようがない気がする。それで悩んでいると夕ちゃんがこっちをきっ、と睨む。

「それで、どう思う?」

「どう、ねぇ」

 まさか僕には関係ない事だしわからないとは言えない雰囲気だ。せめてもう少し色々な情報が出そろっていればなぁ。

「……わかった、正直に言おう」

「うん」

「評価できない」

 一瞬、夕ちゃんは面食らったような表情を見せた。珍しく僕が断言するような口振りをしたものだから想定外だったのだと思う。しかし目をぱちくりさせた後は何かに気付いたように目を見開いて。

「つまり六田みたいな奴は評価に値しないぐらいレベルが低いって事ね!」

「いや違うけど」

 思いきり勘違いした結論を叫んだのだった。

「違うってどういう事? ああ、秋葉がって事?」

「それも違うけど」

「じゃあ何?」

 思わず、頭を掻いた。どう伝えたものかと少し悩み、可能な限り誠意ある伝え方をすることを選ぶ。

「そもそも僕がこの話の部外者なのは前提として理解して欲しいんだ」

「自分は関係ないって事?」

「どちらかと言うと、その会話を直接見聞きしたわけじゃない、って意味に取って欲しいかな。その上で僕はこの件に関しての判断を足りない情報で判断することは良くないと思っている」

「はぁ?」

「僕は一応家庭教師として雇われた身だ。家庭教師の役割をどうとらえるべきかは難しいけれど、僕は人を正しい方向へ教え導くのがその責任だと考える。そうなった時に今のような相談に対して一方的な見方だけで結論を出すのは少々短絡的だな、と」

「……私が相談してるんだから私の味方してくれてもいいじゃん」

「相談者がいつでも正しいわけじゃないよ。そもそもこの相談に関してはあまりに情報が少ないよね。六田君になぜそうするのかを聞いたわけでも無いし、秋葉さんに対してもそうだ。今こうして僕は相談という形で話を聞かされているけれど、それより先に出来る事があるんじゃないかな?」

 たぶんこれは僕の悪い癖で、やるべき事、あるべき姿、そんなものに拘っていつも言い過ぎるやり過ぎる。今僕は相手の事をもっと知るべきなんじゃないのか、そう言う事を夕ちゃんに言ったわけだけど。

 それを真に言われるべきなのは僕の方なのだ。

「出てけぇーっ!」

 思わず、荷物を手に取るのも忘れて部屋を出る。心底、思う。僕は家庭教師なんて向いていない。

 バタンッ!

 部屋の戸が勢いよく閉められてしまった。流石にノックをして今すぐ荷物を取りに行くなんてことはしない。怒りのあまりにぶん殴られてしまうかもしれないし、それこそ家庭教師のすべき事とは思えない。そもそも困りごとの相談自体、家庭教師ではなくカウンセラーの仕事では無いだろうか。

 足立さんに言って辞職すべきかもしれない。そう思って階下を覗き見るとリビングから顔を出してこちらを見ている足立さんの姿があった。目が合うと彼女は手招きする。僕は、少し悩んで、階段をゆっくりと降りて行く。




 淹れ立ての紅茶からは湯気がゆらゆらと立ち上る。その向こうに見える足立さんの表情は不思議と愉快そうに見えた。

「夕ちゃんがあんな大きな声出したの久しぶりだよ」

「……そんなに怒らせちゃったか」

「いいのいいの。そのぐらい元気な方がいいじゃん。私らも負けてられないよ?」

 そういう問題だろうか。時々、いやしょっちゅう、足立さんの考えには付いて行けない。

「足立さん、僕は家庭教師を辞めようかと思うよ」

「怒られたから?」

「うん。あんな風にさせてしまうのは、向いていないのかな、と思って。実際さ、勉強を教える必要はないんじゃない? 彼女は優秀じゃないかと思うけど」

「ま~、そうだね。龍一君頭良いからさ、私と血が繋がって無いのは本当に良かったと思うよ」

 反応に困る。血が繋がっていない事など気にもしていないから軽々と口にするのだろうけど、出来ればもう少し周りにも気を遣って欲しい。まあ、彼女からすれば自分が気にしていないから周りも気にする必要が無いと伝える気遣いなのかもしれないけれど。

「それで、どうだろう? 目的を果たせない家庭教師にお金を払う必要は無いと思うけど」

「……ん~、まだ、駄目かな」

「駄目なんだ……」

「うん。何度でも言うけど私はシッキーの事を信頼してるんだ」

「家庭教師として?」

「いや、人として」

 ……う~ん、そういう風に言ってくれて嬉しいのは嬉しい。しかし、その期待は、あまりに重い。

 しかし彼女にとってはその期待は当然のことだと、そう大した話じゃないと、おそらくそう思っているのだろう。ただ微笑みを浮かべて口を開く。

「私はね、シッキーの事も、夕ちゃんの事も、色々な事がさ、なんか上手く行くと良いなって思ってるんだよね」

「……干ばつ地帯に降りそそぐ慈雨のように愛に満ちた考えだね」

「シッキーは相変わらず難しい言葉使うの好きだね」

 言い返しはしない。しても意味が無いし。

「まあそういうわけだから家庭教師を辞めるのはまだ駄目。少なくとも、夏休みが終わるまでは続けてもらうから」

「……結構長いね」

「たかだか一か月で分かる事なんて少ないよ?」

「出会ってすぐにわかる事だって少なくないと思うけどね」

 皮肉っぽく言っては見たが彼女が意見を曲げるとは思わない。それに、少なくとも足立さんがそう願っているのなら、そのぐらいは続けてみるべきだろう。それが僕に課された責任のはずだ。

 しかし。

「でもさぁ、今追い出された所なんだけど、続けられるかな?」

「どうだろうねぇ」

 楽しそうに笑みを浮かべる足立さんの姿にただただ肩を落とす。

 結局、この日は足立さんの仲裁が入り何とか家庭教師業へと戻る事となった。ひとまず、残り時間は純粋に勉強時間となったわけだが、会話らしい会話も無く互いにとって苦行であった事は語るまでも無い。

 次からどうしよう。




 夕食に誘われたが気まずいので辞退して外へ出る、

「いいからいいから!」

 事など出来るはずも無く腕を引っ張られあれよあれよという間に食卓に着いていた。向かいに座る夕ちゃんの目は厳しい。

「も~、二人共そうやってつんけんしないの。仲良くしなきゃ、ラブアンドピースでしょ?」

「ああ、まあ、そうだね」

「……ふんっ」

 まだ二回しか会ってもいないのに何とも嫌われたものである。おそらくは、僕が悪いのだろう。いつだってそうだ、僕はあまり人付き合いが得意ではなくて、すぐに怒らせたり困惑させたり理解に苦しむ行動をとってしまう。良くないという自覚こそあるが直る兆しは一向に見られない。改善の意志が見られないのか、或いは僕の頭が悪過ぎてそもそもその方法が分からないのか。

 たぶん、両方だろう。

「さあさあ食べて食べて。今日はカレーにしたの。お代わりもあるからいっぱい食べてね!」

 山のように盛られたカレーが目の前に提供された。……僕は今からこれを食べるのか?

 ちらりと夕ちゃんの方を見ると彼女にも同じぐらい大量のカレーが足立さんの手によって運ばれている。その顔はこれから起こる戦いに向けて精神統一をしているような、どこか神妙な顔つきだ。

「じゃあ、食べよっか。いただきま~す!」

「いただきます」

「い、いただきます」

 足立さんの食べっぷりは豪快なもので正直、驚いた。大きなスプーンにカレーを山盛り取ると、それを口を大きく広げて頬張る。改めて考えてみると僕は特別足立さんと一緒に食事をした覚えが無いので知らなかったが、雑談の中で彼女は確かに家ではよく食べるのだと言っていた気がする。

 成程、これがそれか。

「シッキー、もしかして辛いの苦手?」

「え?」

「あんまり進んでないから」

 カレーを指差しそう指摘される。成程、既に足立さんは半分近く、夕ちゃんもがつがつと必死に食べているのが見える。

「カレーってさ、どんどん食が進むと言うか、あっという間に無くなっちゃうと思うんだよね。だからさ、もしかして辛いの駄目だったかなぁ、って」

「ああいや。その、足立さんの食べっぷりが凄くて、ちょっと見惚れてた、かな」

「そう? みんなこんなもんじゃない?」

「……いや、ほら、僕の家は結構みんなお上品と言うか、静かな感じだったから」

「あ~、そうなんだ。確かにシッキーの家族だったらそんな感じかもね」

「そうなんだよね。カレーは、美味しいよ。正直、家で食べたやつよりずっと」

「お~、嬉しい事言ってくれるねぇ~」

 これはあれだ、頑張って食べなければ。今ならば、夕ちゃんが食べる前に神妙な表情を見せていた理由が不思議とわかる。

 食べる、食べる、食べる。スプーンで米とルーを掬い上げ、口に放り込む。うん、美味しい、それは間違いない。少なくとも実家で食べたものやレトルトで食べたそれよりも何倍か美味しいと思う。しかし、しかしだ。

 僕には量が多過ぎる。

 足立さんは気付けばお代わりを注ぎに行ったのだが僕はようやく半分ほどだ。夕ちゃんもおおよそ四分の三まで行ったところで少し苦しそうに表情を歪める。

「……大丈夫?」

 思わず、聞いた。

「……そっちこそ」

 そう、返事が来た。あれほどいがみ合っていたのに今の思いは一つらしい。諦念と共に二人、カレーを口に運ぶ。

 結局、僕らが食べ切ったのは足立さんがお代わりをも食べ切った後だった。

「足立さん、よく食べるね。前の、ビーフシチューの時はそう思わなかったけど」

「ビーフシチューはねぇ。牛肉が高いから量が作れないんだよね」

「……そう」

 なんだその理由は。

 食器の片付けを手伝い、一息ついて、さあ重たい腹を抱えて帰路に就こう。

「あ、そうだ」

 そう思った時に足立さんが何かを思い出したように声を上げる。

「シッキーさ、同窓会行く?」

「同窓会?」

「そうそう。今度の日曜日、ってか明後日か、近くの居酒屋で集まろうってやつ。財布っちが主催だからお金は向こうで持つってやつ」

「あー」

 来てた、気がする。確か先週、もっと前だったかな?

「法島君から連絡が来たのを見た気がするよ」

「え~、じゃあ来ないの?」

「まあ、そのつもり」

 そもそも僕が行ったところで盛り上がりはしないだろう。

「行こうよ。私も行くからさ」

「え、いや……」

「あ、もしかして何か用事が?」

「……無い、けど」

「じゃあ決まり! 財布っちに連絡しとくね」

「あ……」

 彼女はスマホを取り出してあっという間に連絡を終えてしまう。止める間も無いとはこのことだ。

「じゃ、明後日の夕方六時にここ集合ね!」

 ……何ともまあ、気が重くなる事が増えて行くじゃないか。足立さんの向こうでは夕ちゃんがにやにやと、いい気味だと言わんばかりに僕をあざ笑っていた。




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