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間隔の公式  作者: 藤乃病


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2/9

2.

 女子高生の部屋に三十目前の男性が入り込むというのは、犯罪にならないか心配になるギリギリのラインだと思う。

 まあ、一応、親の、義理のだけど、親の了解を得てという点でなんとか免罪符を得ている、そう思っておこう。

「できれば帰って欲しいんだけど……」

 目の前には本気で嫌そうな表情をこちらに向ける女子高生、八海ヶ崎夕、ちゃん、がいる。

 気持ちは非常によくわかる、僕も出来るなら帰りたいところだ。色々とそれもどうだろうと思う理由があるせいで実行できていないけれど。

 はあ。

 溜息が口をついて出る。数分前の事が嫌が応にも頭の中で思い起こされていた。




 足立さんは僕と夕ちゃんの手を引っ張って家の中をずんずんと進む。暴走した機関車の如き動きは僕程度では振りほどけるはずも無く、引かれるままに辿り着いた先はとある部屋。夕ちゃん、と書いてあるネームプレートが扉を飾り立てる。

「やっぱ勉強は部屋でやらないと」

 足立さんが僕の手を離しドアノブに手をかけた。しかしドアノブに手をかけたその腕が掴まれる。止めたのは当然、夕ちゃんだ。

「どうしたの?」

「あの、ね」

「うんうん」

 夕ちゃんが固まる、何事か考えて、足立さんを見て、僕を見て、非常に悩まし気な表情をみせていたのだが。

「ちょっと待ってて!」

 いきなり大声を上げたかと思うと最小限に扉を開けて部屋の中へ入って行く。中からは何やらごそごそばたばたと音が聞こえるが、おそらく部屋を片付けているのだろう。

「あ~らら、普段から部屋は片付けるように言ってるのに~」

「うるさい! 愛さんはあっち行ってて!」

 足立さんはおどけるような表情を見せて、

「怒られちゃった」

 と言ってどこかへ、まあリビングだろうけど、行ってしまう。

 ―――一人でここに?

 こんな場所に、つまりはまあ、同級生の家で、その高校生の娘、義理のだけど、の部屋の前で、たった一人取り残されると言うのは想像以上に心細い。どう言っていいのか難しいけれど、まるで居てはいけない場所にいるかのような錯覚を感じている。いや、錯覚ではなくて事実なのかもしれないけれど。

 思わず目を閉じてその場に座り込んで考える。二人はあんまり仲が良くないんだろうか? それとも喧嘩するほど仲が良いというやつだろうか。足立さんは僕を家庭教師だなんて言っていたけれど本当にそれだけが目的なんだろうか? もちろん、困っている旧友を助けたいと言う彼女の善意は疑うまでも無いが、本当にそれだけが目的でこんなことを頼むのだろうか?

 色々と、本当に色々と考える事が増えていく。

「……何やってるの?」

 少し引き攣った、まるで理解に苦しむといったような声が僕の意識を現実へと引き戻す。扉から顔を覗かせた夕ちゃんがじっと僕のことを見つめていた。

「体調悪いなら帰れば?」

「あ、えと、いや、そういうわけじゃなくて」

「そう……」

 無言、沈黙、静寂、そこに生まれてしまった間が居心地の悪さを、気まずさを生み出す。

「べ、勉強を、しますか?」

 それをどうにかしようと口からついて出た言葉がそれだ。どう考えても間違えた気がした。実際、夕ちゃんも困惑した表情で、

「え……? あ、はい……?」

 と何とも反応に困った様な受け答え。そして結果として僕は女子高生の部屋に入る流れを作ってしまったわけだ。自分で作った流れに逆らう事が出来るはずも無く中へと足を踏み入れて、用意されていた丸椅子に腰かける。

 夕ちゃんは入ってきた僕をどうすべきか非常に困った様子を見せていた。大人として僕はその不満を解消できるように協力すべきなのではあるけれど、残念ながら、僕という人間はそんな高性能ではない。気まずい沈黙が続く。

 そして決心したように彼女は僕に言い放つのである。

「できれば帰って欲しい、んだけど……」

 と。

 それを聞いた時、僕は思わず、納得のあまり首肯せざるを得ない。それはそうだろう。多感な高校生の時期に親の同級生だか何だか知らないが良く知らない男性が部屋に入ってくるなど、本来、有り得てはならないはずだ。その点には僕も非常に強く同意するし、そういう意味では一刻も早くこの場を去るべきだ、と思う。

 しかし、しかしだ。それで終わるには色々と放置できない事がある。

 足立さんに家庭教師を頼まれたのは事実だ。そしてその思惑がどこにあるとしても、夕ちゃんの成績が実際にどうなのか僕はまだわからない。もしも彼女の成績が現実に悪かったとすれば、それは夕ちゃんや足立さんにとって喜ばしい事では無いだろう。その問題を投げ出して逃げ出すのは無責任では無いだろうか?

 尤もこれは言い訳に過ぎず、最大の問題は未だ頭の中にこびりついている減って行く通帳の残高である事は疑いようも無いけれど。

「少し、待って欲しい」

「待つって、何を?」

「つまりその……。一応足立さん……、えっと、君の言う所の愛さんに頼まれた身としては、その家庭教師役を、全うすべきかもしれない、と、思ってて」

「はあ……」

 反応が悪い、というか僕の言葉選びも悪い。いや純粋に話すのが下手なだけだろう。しかしながら僕は、足立さんから向けられた期待に、応えなければならないのだ。

「とりあえず今日一日だけでもやるのはどうかな、と、思ってみたりで……。ほら、その、教えるの下手で、全然わからなかったとか、言い訳しやすい、かな、と。その方が……」

 一応、そんな提案をしてみる。足立さんにはまるで似ていない、氷のような冷たい視線に晒されながら審判の時を待つ。たぶん針のむしろとはこういう時に使う言葉なのだろうと貴重な体験をしたものだと、関係のない事を考えて気を落ち着けて。

「……まあ、確かにそうかも」

 え。

「愛さん、頑固だから、その方が納得させやすいかもね」

「あ、うん、えっと。そうでしょ?」

 そうなのか。足立さんが頑固なイメージ、無いなあ。勉強を教えている時も思ったよりも素直に話を聞いてくれた印象しかない。しかし、学生時代に他の友達じゃなくて僕を頼ったというのは、頑固と言うか、自分の中のルールに則って行動しているって印象は受ける。普通は話したこともない相手は選ばないだろう。

 それに対して目の前の相手は、

「まあテストも近いし、教えさせてあげる。って言っても私は別に成績悪くないから教わる事なんて無いけどね」

 頑固と言うよりは純粋に心を開いてない。思わずため息も零れてしまうが、だからと言ってやらないわけにもいかない。既に家庭教師は引き受けたようなものだ、そうであればその仕事はきちんと完遂しなければならない。

 初めて足立さんに勉強を教えた時はどんなふうにしてたのだったか、ふと、過去の出来事を思い返す。




 放課後、図書室。一部の、本を読むのが好きな物好きだけが集まる空間だ。僕も偶に利用はするが大抵は目当ての本を借りたらすぐに部屋を去る。図書室に残る理由が、僕にはあまり無いから。

 しかし今日はそういう訳にはいかない。そもそも目新しい本があるか書架を巡る事も出来ない。

「ここ、冷房効いてていいね」

 足立さんが小声で僕に呟く。

 何の因果か足立さんに再テストに向けて勉強を教える役目を請け負った僕は、早速とばかりにこの図書室へと連れて来られていた。

「とりあえず座ろっか」

「あ、うん」

 まだ足立さんとどう接していいのか全く分からなくて、返事の一つ一つが手探りの状態だ。後に思ったよりもずっと気楽に接することが出来る相手だとわかるのだけど、まだまだ様々な不安で委縮していて自分から発言などとても出来はしない。

 向かい合って席に着いた僕らしばらくの間黙り込んでいた。非常に気まずい時間で、しかしながら足立さんがどうして欲しいのか想像もつかなかったし、だからと言って自分から何か言葉を発するような余裕は僕には無い。

「相川君、早速勉強、しよっか」

「え、あ……。そう、だね」

 足立さんもまだまだ僕の事が分かってなかったのか微妙にぎこちない対応。まあこれは後から思えばの話でこの時の僕は普段の足立さんと比較できるほど彼女の事を多くは知らないのだが。

「その、テスト、の、点は……。どのぐらい、だと思うの?」

「わかんない。自信無いのは確かだけど」

「自己採点とかは?」

「そうそう、自己採点ってさ、みんな言うけどどうやるの?」

 その言葉には唖然とした。単に自分の書いた答えを覚えておいて教科書やノートと照合するだけだ、たったそれだけの事にどうやるの? なんて質問が出て来るのか。

「……どの教科が、危ないなって思う?」

「正直全部自信無いんだよね~。高校の勉強全然付いて行けなくて」

「……得意科目……は?」

「音楽! 私歌上手いんだよ。カラオケでもみんな褒めてくれるし」

 諦めた方がいいと思う、と思わず口をついて出るところだった。実際、赤点を取ったとして再テストがいつになるのかを僕は知らない。しかし夏休みよりも前に行うのだとすれば精々十日程度しか時間が無い。その時間だけで全教科をある程度の点が取れるようにする。

 はっきり言って無理だ、そう思ったのが本音だ。

「ひ、とまず、数学から、やろうか。問題集あるし、どのぐらい出来るのかわかりやすいから」

「うんうん、じゃあやってこ~」

 それでも投げ出さなかったのは心の内にあった義務感のようなもの故。一度引き受けたからにはそれをすぐに投げ打つようではダメだ。そんな風にはなってはいけない。責任と義務は果たすべきものだから。

 数学の、テストの範囲の問題を幾つか抜粋して足立さんに解いてもらう。ルーズリーフを一枚を解答用紙の代わりに、計算式なりメモなり好きに書いていいと手渡し経過を観察する。彼女は軽快に手に持ったシャーペンを走らせ始め、それを見た僕は思ったよりも出来るのかと少し胸を撫でおろした。

 勘違いだった。

 彼女の手はすぐに止まり、しばらく無言で険しい表情と共に問題文と自分の書いた数式やらを見つめていたかと思うと、やがて諦めて次の問題に取り掛かる。他の問題も似たようなものだ。それらは全て今回の数学のテストに出た問題と似た物を抜粋していた。

「終わったよ~、色んな意味で」

 僕は全部で十問出した。彼女はその全てに対して問題を解こうとしたことは確かだ。しかしその数式のほとんどは途中で止まり、最後の答えまで辿り着いたのは三問だけ。

「これは……、その……」

「どう、かな?」

 本気で頭を抱えた。僕が出したのはテストに出た問題の類似のもの、要するに解けて当然のものばかり。数学のテストがあったのは一昨日だから、この時点で解けていないという事は彼女の点数は。

「赤点は確か三十点以下だったね」

「うん」

「今出した問題で言えば三問だ」

「私三つは答えわかったよ!」

 少し明るい表情になる彼女に思わず目を逸らす。

 確かに彼女が計算を終えて答えを出した問題は三問だ。ただしその内の二つには計算間違いがある。

「合ってるのは一問だけだね」

 正答率十分の一。百点満点で十点。まあ、赤点だ。

「マジ?」

「こことここ、計算が間違ってる」

「うっそ~……」

 解答用紙を見つめて呆然としている足立さんだったけれど、嘆きの声を上げたいのはこっちの方だったりする。

 思った以上に出来てない。

 予習して、授業を聞いて、復習する。たったそれだけをすればテストである程度の点を取るのは難しくない。幼い頃からそう言われ実際にそれを実行してきた僕からすれば、こんなにも問題が解けない事があるのかと思ってしまう。

 正直、テストの返却時に漏れ聞こえて来る五十点しか取れなかったなんて声は冗談の類だとすら思っていたのだけれど、実際に目にした今になっても、ちょっと信じられない。

「相川君、今の問題ってテストのより難しかったり?」

「……いや、一応、僕が覚えてる限りだけど、テストで出たのと似た問題にした、よ」

「マジぃ? それはさぁ、やばいよねぇ……」

 正にそうだ、やばい。

「……とりあえず、他の教科もどのぐらい出来るのか見ておきたい、かな」

「あ、うん。私の実力見せてあげるよ!」

 結局、彼女はほぼ全ての教科において彼女の事前の宣告通りの実力を見せてくれた。この教科なら赤点は免れているだろうと言う確信が持てたものは一つもなく、それを知るだけでこの日の勉強会は終わってしまう。

 帰り道、自分の知らない世界の一端を見て打ちひしがれた僕は小走りで家へと向かっていた。どうすればいいのかわからなかったから。




 解答用紙代わりのルーズリーフに書かれた計算式は非常に整った字で分かりやすくまとめられている。文字と同様に整然としていて道筋立てられた証明の行き着く先は間違いの無い答えだ。

「……えっと、本当に、家庭教師、いらなそうだね」

 そう言うと夕ちゃんは自慢げに鼻を鳴らす。

「当然です。私、頭良いので」

 とりあえずで問題集から適当に何問か抜粋してみたが、まあ見事なもので全問正解だ。血が繋がってないからだろう、幸いな事に足立さんには似なかったらしい。そうなると家庭教師の仕事は無くなってしまう訳だけど。

 どうしよう……。

 いや、そもそも冷静に考えてみれば足立さんの厚意に甘えて、更には夕ちゃんに迷惑を掛けるような事をしてまでするような事ではないか。そもそも自分の身に降りかかっている苦境は全て自分の所為なのだから、それを思えば自分自身の力でどうにかするのがあるべき姿だ。甘い考えに縋り過ぎたんだ。

 とはいえ、まあ、足立さんがかけてくれた期待には応えられないことになってしまうけれど。

「……あの、大丈夫ですか?」

「え?」

「いや、その、なんだか険しい表情で黙り込んだから」

 そんなに顔に出てたのか。高校生に心配されるような大人はまずいよなぁ。

「ああ、違うんだよ。その、心配されるような事じゃないから」

「はあ……」

 彼女は身体を半分だけこちらに向けた状態でどこか訝し気にこちらを見つめる。あまりに気まずくて、何か喋るべきなのかもしれないけれど言葉も出てこないし、そろそろ限界だ。

「あの」「あの」

 視線がぶつかる。ほぼ同時に喋り出し気まずさがより一層増してしまう。

「お先にどうぞ」

 僕は大人らしく発言権を彼女に譲る事にした。正直、今更そんなことをしたところで頼れる大人の演出は不可能だろうけれど。

 夕ちゃんは先に話すように促されたにも関わらずしばらくはもじもじとして、手遊びをして視線を逸らし、まるで今更にそんなことを聞くのが恥ずかしいと言わんばかりの様子を見せている。流石に、ここで帰るよと言い出すのは問題だろう。

 僕は軽く椅子を揺らしながら彼女が口を開く時を待つ。それが実に一分、夕ちゃんはようやく決心したようにその疑問を口にした。

「えっと、シッキーさんって、愛さんとどういう関係?」

 その問いをした彼女は、顔を俯けていて、どういう意図の質問なのかを想像するのは難しい。しかしその耳や頬は薄っすら赤く染まっていて、そのような質問をするのがどうも恥ずかしいらしい。個人的には、その関係性が気になるのは普通の範疇だと感じたけれど、まあ女子高生の考えなど僕にはわからない。

 ひとまずは、問いに答えるとしよう。

「……えっと、まあ、そうだな。高校の時の同級生、でいいと思うけど」

「もっと詳しく」

「もっと詳しく……? 足立さんも言ってたけど、勉強を教えてたのは本当で、テスト勉強の前には図書室で勉強会をするのが恒例になってた、かな」

「ふ~ん。じゃあ友達だったんだ」

「たぶん……、そうかもしれない」

「かもって何……」

 僕と足立さんは友達だったんだろうか。正直な所、分からない。僕らの関係は基本的に学校内だけで、それも勉強に関する事でのみ繋がっている間柄だった。ほとんど先生と生徒という関係性のままそこから何かしら逸脱することも無く卒業し、それからは縁も無くなって。

 今日再会するまで僕は足立さんの事を覚えていたかも疑わしい。改めて考えると、酷い話だ。

「……愛さんが結婚してるって聞いてショックだったでしょ」

「え?」

「愛さん、綺麗だし、ちょっとノリが軽いけど、人当たり良くて、たぶんモテたんだろうなって」

「ああ……」

 それは間違いない。勉強会の時に大抵雑談を交えていたけれど、その時に何組の誰誰に告白されたみたいな話を聞いた覚えがある。休憩時間にも小声で誰かと話しているのが耳に入って来た事もあった気がする。

 彼女は、明るくて、優しくて、クラスのみんなの人気者。誰だって彼女の事を好きになる。

 とはいえ。

「ショック、は、受けてない、かな」

「え?」

「驚きはしたけれど、でも、よくよく考えれば彼女ならそのぐらいは当然、だと、思った」

 改めて自分の言った言葉を精査してみるけれど、うん、確かにそう思ったはずだ。どうしても僕が知っている足立さんは高校の時の話だから、いまいち結婚という言葉と結び付かなかっただけで、冷静になればお互いにもう三十間近。結婚しているのも当然なただそれだけの話。

 と、思うのだけれど、夕ちゃんは少し意外そうな表情を見せる。

「……ワンチャン狙って家まで押し掛けたんじゃないの?」

「ワンチャン?」

 何か狙うようなことあったかな?

 思わず首を傾げて考え込む。しかしまあ狙うと言えばやっぱりお金か。結果的には家庭教師の話は無かったことにはなりそうだけれど、足立さんがああも親身に話を聞いてくれて解決策を提示してくれるとは思わなかった。それに対して会うまで存在も忘れていたかもしれない僕はとんだ薄情者である。

 ―――やはり、そろそろお暇するべきかな。これ以上は誰にとっても良い結果が生まれそうにはない。

「あの」「あの」

 二度目。大人としてというか、さっきもそうだったし再び先を譲る。どこか困った様な表情でこっちを睨んでいたが、まあ諦めたように彼女は息を吐く。

「なんか、さっきから私が話してばかりじゃん」

「え、ああ。ごめん……?」

「……まあ、いいんだけど」

 ううむ、話すのを譲り過ぎるのも良くないのかもしれない。まずは聞き上手になれとは聞いたことがあるけれど、だからと言って何も話そうとしない相手とは会話など出来ないのは当然だ。ほぼ一方的に話すだけでも話題が尽きる事が無い人間と言うのは稀有なものらしい。

 まあ足立さんが稀有な人材なのはともかく、今は目の前の夕ちゃんだ。彼女は再びどこか言い辛そうに、話すのが恥ずかしいかのように、指先を組み替えては戻し組み替えては戻し、口を開きかけては閉じる。

 こんな時に僕はどうするべきなのだろうか? 残念ながらコミュニケーションの取り方と言うのは僕にとっては難題で、はっきり不得意な分野だ。それでも、稀少な対人関係の経験を思い起こし、現在の状況にどうにか当てはまるものは無いかと考える。

 自分の勤めるスーパー、の裏手、の、喫煙所が思い起こされる。

「……えっと、さ」

 夕ちゃんの目がこちらを見る。その目に思わず怯みそうになるが、ここで止まるわけにはいかないだろう。

「例えば、こう、悩みや、相談したいことがあるなら、聞いてあげることぐらいは出来るよ。解決するかはわからないけれど。もちろん、この事は他の誰にも話さない。足立さんにも。うん……、そんな感じでどうでしょうか?」

 先輩はもっと上手い相談の乗り方をしていたはずだ。あの頃は精神的におかしくなりかけていたのもあって細かい部分の記憶は曖昧だし、僕はそんな先輩の厚意を蹴ってしまったわけだけれど。絶対にもっと確かな信頼が持てるような話し方だったはず。今のでは寧ろこんな奴に相談するのはちょっと、と敬遠されてしまいそうだ。

 と、思ったのだが。

「……本当に?」

 意外にもそんな謳い文句に彼女は食い付いた。少し驚きつつも、僕は当然に頷く。

「もちろん。えっと、まあ、本当に解決とかはその、自信が無いけど……。少なくとも他のみんなに内緒にしてほしいと言うならそれは必ず守るよ」

「愛さんに言われても?」

「君が話して欲しくないのなら、そうしよう」

 彼女は傍から見ればそうとわかるぐらいに悩んでいた。眉間に皺を寄せて、手を顔で覆い、まとまらない思考に苛立つように何度か奥歯を噛む。

 僕にはその姿を見つめる事しか出来なかったが、やがて彼女は。

「……絶対に話さないでよ」

 そう前置きをして彼女は、思春期らしい悩みを。

「友達って、どうやって作ればいいと思う?」

「え?」

 僕の前で吐露し始めるのであった。




 友達、僕には縁の無い言葉だ。

 学校、始業前。朝の雑然とした喧騒の中で僕は一人本を読む。学友たちはその多くが友達と何かしらの会話に勤しんでいると言うのに。なぜそれが僕には出来ないのだろうかと疑問に思ったことはある、両親に尋ねた事もある。その問いの答えは、そもそもそれが必要なのか、という問いだった。

「相川君、今日も放課後よろしくね」

 だからそう声を掛けられた時に反応できなかったのは仕方ない、と思って欲しいという話だ。そもそも声を掛けられるだなんて思っていなかったのだから。

 足立さんは声に気付いた僕が顔を上げた時には既に、自分の机に荷物を置いて少し離れた席、友達の所へ行っていた。だから僕は返事が出来なくて、少し悪いことをしてしまった気分だ。

 本の頁をめくる。そこに書かれている文字を目で追いながら僕は頭の中で全く別の事を考えている。今、の、僕と足立さんの関係性は何と呼ぶのが正しいのだろうか、そんなふとした疑問。たった一日、一緒に勉強会をしただけの仲だ。友達と呼ぶには相応しく無いだろう。実際、僕は彼女の事をほとんど何も知らない、知っているのは勉強があまり得意でないことぐらいだ。それと補習を回避しようと努力している事。

 ―――たぶん、これ以上は無益な思考になるだろうと考えるのを止める。頁の最後まで追っていた文字を再び最初から読み直す。しかし、結局、この日に次の頁を読む事は無かった。

 放課後。家へ帰る者、部活へと向かう者、或いはそれ以外、皆が思い思いに立ち上がり教室を去って行こうとする。僕も、その一人だ。

「あ」

「あだっち~!」

 足立さんの声が、クラスメイトの声で遮られる。

「カラオケ行こうよ! テスト終わったんだし良いでしょ?」

「あ~、いやそれがさ」

「なんか忙しい系? ままま、いいじゃん、ちょっとだけでもさ~」

 よく足立さんと一緒に居る、古島さんだったかな。テストも終わったし遊び歩きたい気持ちを持つのは自然な事なのだろう。足立さんも、そうだろうか。そんなことを考えながらその場を後にする。

 放課後の、皆が思い思いの方へ進んで行く廊下、その喧騒が僕にはなんとなく、寂しさを覚える。僕は誰とも交わることなく図書室へと歩みを進めた。

 冷房の効いた部屋の中、昨日と同じ席に座り鞄の中身を広げる。昨夜、色々と考えたけれど、はっきり言って時間が足りないというのが結論だ。今日返却されたテストは日本史のみ、あまり芳しい表情では無かったのは見た。赤点だったのかもしれない。であれば今日は確実に日本史の点数が上がるような事をしよう。赤点かどうかわからない教科に時間を使ってはいられない。

 昨夜色々と書き綴ったルーズリーフを取り出す。ここには日本史のテストに出そうな部分はある程度まとめてある。江戸時代全般と範囲が広いからある程度絞って教えた方がいいかも。いや、まずは返却された回答を見て比較的点を取れている辺りを集中的にやるべきかもしれない。

 教科書や資料集と睨めっこをしながら五分、図書室の扉が開く。そこにはどこか暗い表情の足立さんが立っていた。彼女は恐る恐る図書室へと足を踏み入れて辺りを見回し、そしてこっちを見た。

「あ」

 驚いたような表情、の次に胸を撫で下ろして息を吐く。彼女は小走りでこちらに来て正面、椅子に座った。

「よかったぁ~。相川君帰っちゃったかと思ったよ」

「え? 何で?」

 確か朝に今日もよろしくって言われた気がするけど、聞き間違いだった?

 しかし記憶を探る僕を見て足立さんは僕よりもどこか驚いた様子に見えた。

「……何か、変だった?」

「あ~、そうかも。相川君って、ちょっと変わってるね」

「変わってる?」

「うん、いい意味でね」

 いい意味、その言葉にあるのだろうか。

「朝もさ、返事してくれなかったでしょ? で、さっきも私が相川君に声を掛ける前にみかっちが来ちゃってさ、そのまま行っちゃうんだもん。嫌になって帰っちゃったんだと思って」

「……あー」

 確かにそう見えるかも。全然考えてなかったな。やるんだと思ってたから、帰るとか、全然。

「それどころか今見たらやる気満々って感じじゃん? 実は今結構嬉しいんだよね」

「そうなんだ」

 そうなのか、嬉しいのか。

「えっと、じゃあ、勉強、する?」

「もちろん!」

「じゃあまずは日本史の点を見せてくれると」

 そう言うと足立さんは固まってしまった。その反応だけでどのような点だったのかは見るまでも無い。

「とりあえず今日は日本史をやろう。去年再テストはやったんだよね? どんな問題だったか、つまり、えっと、本来のテストとの違い、みたいなのって覚えてる?」

「本来のテストとの違い?」

「問題が、同じじゃなくて、違うのになってるのか、というか……」

「あ~、どうだったかな。去年の事だし……、あんま覚えてないかも」

「そっか」

 じゃあ傾向を読むのは無理か。となると一通りやってみるしかないかな。

「もしかしてそんなことも覚えてないのかとか思ってる?」

「え? いや。単に……、再テストの、傾向と対策、を取るのは難しいな、って」

「ふ~ん。なんかさ、相川君って表情があんまり変わらないから何考えてるのかわからないんだよね」

 そうなのか? きっとそうなのだろう。そう言われて見れば不機嫌なのかと問われた記憶は何度かあるかもしれない。

「私の周りって結構すぐに顔に出る子が多くてさ。何考えてるか話聞かなくても分かる人多いんだよね」

「その方が分かりやすくていいかもね」

「そうでもないよ」

「そうなの?」

「うん」

 どうしてだろうか。僕としては、基本的に相手が何を考えているのかなんてわからないんだから態度でも表情でも明確に示してくれた方が助かる、気がする。友達が多い人にとってはきっと何か違う、基準のようなものがあるのだろう。僕にはわからないような。

 でもまあ、いいか。

「とりあえず答案を見せてもらって、取れそうなところを確実に取れるように勉強して行こうか」

「あ~、見せなきゃダメか~」

 見せてもらった答案は壊滅的で、ここから同じレベルのテストで点を取れるようにしなければならないというのは中々に辛い案件である。

「……日本史は、苦手?」

「ん~、どうだろ。他の教科も似たようなもんだからさ~」

「そっか。暗記系全般苦手?」

「正直そういうのよくわかんないんだよね。数学とかもさ、結局公式を暗記しないとじゃん? そうなると私にとっては全部暗記系なんだよね。だって公式とかさ~、全部一緒じゃん! 違いが分かんないよ」

「……成程」

 確かにそれはそうかも。公式を暗記しているのが前提で初めて次に進めるんだもんな。まあその公式自体も色々な計算から導き出す事は出来るけれど、現実的な話、公式を暗記せずにやろうと思ったら電卓無しで十桁の掛け算をやるような遠回りな事だ。

 となると、どうしようかな。

「一応、テストに出たところとかはまとめてみたんだけど」

 ひとまず準備して来たルーズリーフを渡す。足立さんはそれを受け取ると、しばらく固まったようにしていた。

「えっと、読みにくい? 一応、丁寧な字で書いたつもりだったけど」

「あ、いやいや。字綺麗だ~って思ったけど。それよりもほら……、こんな準備までしてくれてたんだと思って」

「……? いや、でも、勉強、教えて欲しいって頼まれたから。ああ、僕はほら、部活や塾や習い事とかしてないから、帰った後は結構時間があるからね」

「……あ~。そうなんだ」

 これは、どういう反応だろう。正直、足立さんは僕にとってあまりに未知の存在だ。色々と話していて僕が考えもしなかったような反応をしてくれて、そうだな、たぶん、ちょっと楽しいのだと思う。

「とりあえず、そこに赤字で書かれているのが一番問題として出やすそうなところかな。青字は余裕があるなら覚えておきたいところ。黒はまあ、普通? 説明に必要だから書いてあるけどそこまで考えなくても大丈夫、だと思う」

「相川君ってノートもこんなきっちり取ってるの?」

「ノートはもう少し細かい部分も書いてるよ」

「見せてもらっていい?」

「ああ、うん」

 鞄よりノートを取り出し手渡す。足立さんはそれを開いて興味深げに観察している。

「さっきのルーズリーフより読みにくいと思うよ。そっちは自分しか読まないつもりで書いてるから」

「いやいや、私のノートより読みやすいよ。ちょっと待ってね」

 そう言って取り出された足立さんのノートは、実に、こう、カラフルだった。

「……目が痛くなりそう」

「あ~! それ先生にも言われた」

「あ、ごめん」

「別にいいよ。実際私もあんまりノート読み返す気しなくてさ~。頑張って黒板写してるんだけどどこが大切なのかわかんなくなっちゃって」

「そうなんだ」

 彼女のノートは成程、頑張らなければ成し得ない努力の結晶だとは思う。一行一行文字色を変えて書かれ、時折蛍光色の派手な装飾が文字を彩り、突然現れた天使? のような生物がここ重要と言っている。授業中だけでこれを作り出す速記術の方は興味があるけれど、正直、分かり辛い。

「このノートの取り方は……」

「取り方は?」

「……やめた方がいいと思う。正直、僕にはこのノートに書いてあることが頭に全然残りそうもない」

「だよねぇ~」

 思わず、目が点になった。怒られると思って言った言葉が普通に同調されてしまうと逆にどう反応していいのかわからない。

「私も相川君のノート見て違ったな~って思ったんだよね。こっちのノートは三色しか使ってないけど分かりやすいもん。最悪赤い所だけでも見て行けばいいんだろうな~って思った」

「ああ、うん。一応、時間が無いテスト直前とかはそういう使い方をしてるよ」

「私のは全然、ほら、どのページもカラフルだからさ、一応ここ大事! とか書いてるんだけどそれがどこかわかんないんだよね」

 正にそれは僕が思った事だ。

「まあ、その、僕は個人的にだけど、色の数は大して重要じゃないと言うか、最悪二色でもいいかなと思ってて。見返した時に色の違いで重要かそうでないかわかれば十分と言うか」

「この赤線が引いてある所は?」

「赤文字ってなんか読みづらいと思って、長い説明文は下線で誤魔化してる」

「なるほど~」

 足立さんはしばらくノートをじっくり見学しながら時折僕に質問をしたり、だ。時間が過ぎて行くがこれでいいのだろうか? 少なくともノートを見返している状態だから勉強にはなっているかもしれない。

 時計を見る、過ぎて行く時間に焦りを感じつつも、どうすればいいだろうか?

「ねえねえ」

 僕が時計を見るのにも飽きて来た頃に足立さんが口を開く。

「な、何?」

「書くのと読むのとどっちが勉強になるかな」

「……どうだろう。一般的には書く方が頭に残るとは言われてるけど」

「じゃあさ、ノートの取り方、ちょっと教えてよ」

「……まあ、僕のやり方で良ければ」

 この日、教科書で言うと三頁だ、ほんのそれだけではあるけれどノートの取り方を教えた。足立さんは好奇心旺盛と言うか、手を動かしながらもしょっちゅう質問をして来るので考えがまとまらず言葉に詰まる事もあったけれど、なんだか不思議と、楽しい時間だった。

 図書室も閉まる時間が来て僕らは広げた荷物を仕舞いこむ。

「このルーズリーフ貰っていい? 家でも続きしたいからさ、参考に良いなって思って」

「もちろん。あげるつもりで持って来たから」

「そっか……。相川君って下の名前何だっけ?」

「え? ああ、式だよ」

「式かぁ。シキ、シッキ……。うん」

 そして彼女は言った。

「じゃあ今度からシッキー、ね。」

「シッキー?」

「あだ名。ほら行こ。今日のお礼にジュース奢るから」

「あ、うん」

 あだ名、それを貰ったのは初めての事だった。小走りで外へ向かう彼女を追いかける。その時の表情を誰も見ていなかったのは幸運だった。

 きっと嬉しくて、頬が緩んでいたことだろう、恥ずかしい姿じゃないか。友達が出来たみたいで舞い上がってしまうなんて。




 目の前で、夕ちゃんはつい先程まで黙り込んでいたのに、今度は堰を切ったように喋り始める。

「いや友達がいないってわけじゃないよ」

「ただ単に参考意見として聞きたいだけっていうか」

「そもそもほら、友達って絶対必要なわけでも無いし、私みたいな優秀な人間にとっては足を引っ張られるのも面倒だし」

「……聞いてる?」

 何と、言えば、良いのだろうか。

「ちょっと待ってね。考えをまとめるから」

「はあ?」

 難しい質問だ。友達の作り方、だなんて。学生時代、僕はいつも、足立さんとの勉強会の時はともかく、基本的に一人でいた。要するに僕は友達を自分の力で作った事など無いのだ。

 何なら未だに、僕を友達と呼んでくれる足立さんに対してすら、どこか引け目のようなものを感じている。

「何? 何か文句でもあるの?」

「いや、別に文句は……」

 それでもまあ、尋ねられた以上は何か答え、は無理でも参考になる意見ぐらいは出してみたい。いっそのことそういった対人関係に関する本でも読み込んでみるのが正解かもしれないけれど、あの手の本は専門外だ。今から読みに行くわけにはいかないし。

「ねえ、何か言ってよ」

「まだ考えがまとまらなくて」

 急かされているしそろそろ考えをまとめよう。とは、言うものの……。

「う~ん」

「何? そんなに私があんなこと言うのおかしい?」

「え? いや、別にそれは」

「じゃあ何!」

「単に良い答えが出て来なくて」

「はぁ?」

「僕の学生時代なんだけれど、友達とか全然いなくて」

「愛さんの友達なんでしょ? あの人顔広いの知ってるよ。今でもたまに学生時代の友達と遊びに行ってるし」

「そうなんだ。まあ確かに足立さんは友達多そうだよね。でも僕は正直、いないと言っても過言では無いかな……。足立さんと友達なのも、彼女がそう呼んでくれるからだよ」

「……何それ」

 露骨に不満そうな表情をされてしまった。それはそうだろう、自分の中で勇気を振り絞って尋ねた事柄に残念ながらろくな返答が無い。これほど不幸な事は無いかもしれない。

「えっと、一般論で言えば、趣味が合うとか、会話のペースが心地いいとか、何か一緒にいる理由があると友達として長続きしやすいとは聞くかな」

「そんな通り一遍の回答はいらない……」

「まあ、そうだよね」

 まずいなぁ、相談に対して参考になる意見も出せないだなんて。こんな大人になるつもりはなかったのに。

「……愛さんとは、どういう関係だったの?」

「学生の頃?」

 夕ちゃんは黙って頷く。

「僕は名字が相川、あっちは今は八海ヶ崎だけど当時は足立さんって名前でね、席が前後だったんだ」

「それで話す機会が多かったって事?」

「いや? まあ確かに授業で前後の人で話し合って何かしろと言われれば話す事になるけれど、足立さんとまともに話をするようになったのは夏休み前の勉強会からだね」

 彼女の成績は悪く赤点を取ってしまった事、そして補習回避の為に勉強会を行ったことを話す。

「……愛さんって頭悪かったんだ」

「どうだろうね。飲み込みは早かったよ。実際、次のテストは赤点は無かったし」

「じゃあ私の方が頭良い?」

「勉強は間違いなく、足立さんより出来るだろうね。本当に、家庭教師としての仕事は無さそうだと思ってる」

 残念、と言うのは流石に自分本位過ぎる考え方なので自重した。しかし、勉学に関しては何もすることが無いとはいえ、今日ここに来た以上は何かしらの成果というものを出す必要があるだろう。

「……まあ、家庭教師としてはお役御免だろうし、この機会に他にも悩みがあるなら話ぐらいは聞くよ。例によって僕が解決に一役買えるかはわからないけれど、話す事で少しでも何か気が楽になる事があるのならいいと思う。旅の恥はかき捨てとも言うし、二度と会うことの無い他人や海に向けて叫んだとでも思ってもらえれば」

「どうせ相談するなら何か建設的な意見が欲しいけどね」

 毒づく様にそう言われてしまったが、全く反論できない。ここにいるだけでは壁に話しているのと変わらないじゃないか。海に向けて叫べば少しは気晴らしになるかもしれないが壁に話しても鬱々として気分が沈むだけ。

 さて、どうしようか。このままだと僕は足立さんの厚意に甘えるだけ甘えて何もしないやつになってしまう。

 かと思ったけれど、

「でもまあ、その心意気に免じて、話ぐらいはしてあげる」

 素っ気ない風を装い視線を遠くにやりながら彼女はそう言った。どうやら二度と会わない他人程度の扱いはしてくれるらしい。

「じゃあ、是非とも聞かせてもらうよ」

「聞くだけじゃなくて意見も欲しい所だけど」

「……はい」

 もう少し便利な道具へと進歩しろと言われてしまった。ごもっとも。

 



 話をすること一時間ほど。夕ちゃんは学校生活の中で随分と不満を貯め込んでいたようだ。成績優秀な自分に対して、足を引っ張る凡人たち、それが嫌で嫌でたまらないと。まあ、おそらくはこういう機会はあまり無いのだろう、吐き出す愚痴はどこか支離滅裂で、聞いていると頭が痛くなりそうな物ばかりではあったけれど。そして、その話が終わったのは僕や彼女がそれを止めようと思ったからではなく。

 コンコン。

 と、足立さんのノックの音が響いたからに過ぎない。

「勉強に熱が入ってるみたいだけどそろそろ時間も時間じゃない?」

 時間はもうすぐ七時に差し掛かろうとしている。外も日がほぼ沈んでいて薄暗い夕闇の様相。最近はこんな遅い時間に出歩くこと無かったな。

「それもそうだね。流石に僕もお暇しようか」

 あまり遅い時間まで居残って迷惑を掛けるのもまずいだろう。夕ちゃんが今の時間に満足できたかはわからないけれど、僕なりに出来る事はやった、と、思う。……思いたい。いやさ、愚痴を聞いていただけじゃないか、流石に自分に対して過大評価が過ぎる。

 足立さんはそんな僕の考えを知ってか知らずかにこにこと笑みを浮かべている。まさか中の話を聞いていた、わけではない、と思うけど。どうだろう、しかし彼女は結構真面目なところあるから盗み聞きなんてしないか。

「夕、どうだった?」

 足立さんはじっと夕ちゃんの方を見て尋ねる。その瞳は、まるで、血が繋がらずとも親なのだと、思わせられる何かがあった。それに対して夕ちゃんの方はそっぽを向いてどこか不満げに見える。やはり僕では力が足りなかったか。思わず、肩を落とす。

 が、

「まあ、悪くなかった、かも。家庭教師、雇うのも、悪くない、かも、ね」

 と変わらず不満げな表情のままで言った。思わず僕が彼女の方を見ると睨まれたので大人しく余所へ視線を向ける。

 対して足立さんの方はどこか満足気だ。何に満足しているのかはわからない。

「そっか、じゃあシッキー。今後ともよろしく!」

「え、あ。うん。……うん?」

「じゃあご飯にしよ。シッキーも食べるでしょ? 久しぶりに腕によりをかけて作ったから食べてって!」

「あ、ちょっ」

 腕を掴まれて引っ張られ思わずそんな声が出た。まあ、拒否する理由は無いんだけど。食費も、どうにか削れるなら削って行った方がいいかもしれないし、一食分でもそれが浮くのは素直に嬉しい。

 僕らの後ろから夕ちゃんは溜息交じりについて来る。階段を下りながら見せているどこか憂鬱気な表情はやはり家庭教師など必要ないんじゃないかという後悔から来ているのかもしれない。

 というか、僕はこれから家庭教師をやる事になるんだろうか? 勉強、普通に出来てるのに? ……いまいち何が起こっているのか付いて行けていない気がするけれど、これでいいんだろうか?

 



 ご馳走になったビーフシチューは美味しかった。何でも一から自分で作る本格派とのことで色々と言っていたけれど、あまり料理に馴染みの無い自分には半分も理解できなかった。ただ、楽しそうに笑う足立さんと溜息交じりながらも時々ビーフシチューの美味しさに頬を緩める夕ちゃんの姿ははっきり覚えている。

 新しい生活が始まる香りがした。





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