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間隔の公式  作者: 藤乃病


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1/9

1.

 ―――3,465,868―――

 ―――3,429,708―――

 ―――3,355,654―――

 ―――3,325,152―――

 ―――3,285,339―――

 ―――3,225,798―――

 毎月一日、徐々に減って行く通帳の残高を見て溜息が零れる。いずれ向き合わなければならない問題だとはわかっていても、不安と恐怖をどこかへ隠して見て見ぬふりをしていたいと思ってしまう。給料が入り、生活費を引き出し、家賃等が引き落とされ、その繰り返しにより最終的に金額は減少を始めている。貯金のピークから既に20万近くも減ってしまったのか。ほんの半年しか経っていないのに、数年かけてコツコツと貯めて来たお金は遠慮も呵責も無くじわじわと減り続けていた。

 そしてそれと同時に、僕の精神的な体力のようなものもゆっくりと、しかし確実に蝕まれている。

 この生活を、いつまで続けるのだろう。

 数か月前を境に半分以下になった給料を見つめる。

 自分の所為だとは分かっているけれど、それでもどうにか、何か、特別な、救いは無いのかと、まるで神に祈るような事をやめられずにいた。

「馬鹿みたいだ」

 神頼みなんて意味が無い。全て自分自身の責任だなんてわかり切った事なのに。このまま、あと何年耐えられるのだろうか? 単純計算で行けば……、いや、不測の事態なんていつでも起こるんだ。五年、精々五年が良い所だろう。

 五年後、この貯金は無くなる。それまでに何とかしなくては。働き口を、今よりも稼ぎの良い働き口を探さなければいけない。

 そんなことは―――。

 不意に光が遮られるのを感じた。

 ここは少し大きなスーパー、たくさんの客が通り過ぎる入り口付近。幾つかあるベンチにはここで売っている自家製のコーヒーを片手にお年寄りが世間話をしている。すぐ傍のATMにはお金を下ろそうとする人が数人並んでいて、僕もさっきそこに並んでいた一員だ。今は、手に持った通帳とにらめっこをして肩を落としていた。

 そんな僕の前に一人の女性が立っていた。背はそこそこで、金色に染めた髪は長く後ろで結んでいる、ぱっと見た印象で明るく快活らしいと見え、その印象に似合う夏らしい露出の多めの服を見事に着こなしている。知り合い、だとすれば仕事の関係者に絞っていいだろう。しかし彼女のようなタイプの人間はうちの職場にはいない。

 では誰だろうか? でも見覚えはある、気がする。

 彼女は今まさに考えていますと言わんばかりに口元に手を当てて僕の顔をじっと見つめる。果たしてこういう無遠慮な視線を投げる相手が知り合いにいただろうか? 不思議と僕の記憶はいる、と答えた。

「えっと、何か?」

 思わず声を上げたのは沈黙に耐え切れなかったからかもしれない。純粋に気まずい、こういう空間は苦手だ。

 ただまあ結果的に声を上げたのは正解だった。彼女は僕の声を聞いて、ぱあっ、と目を輝かせる。

「シッキーだ!」

 シッキー、僕の事をそう呼んだのは、一人しかいない。

 記憶の海から幾つかの思い出が舞い上がる。初めて、彼女とまともに話をしたのは、そうだ、あれも夏の日だった。




 高校生にとって、最も楽しみな事の一つは夏休みなのかもしれない。

 休憩時間、教室の中は喧騒に満ちていた。彼らの話題は専ら、近く迫る夏休みの事だ。懸念されていた中間テストは終わり、後は結果を待つのみ。だが誰も彼もそんなものより友達と遊ぶ夏休みの方が楽しみで仕方ないらしい。

「財布君、夏休みはどこで遊びます?」

「七月は海外旅行だ。お前たちとは八月入ってから遊んでやるよ」

「ひゅ~! 金持ちはやっぱ違うな」

 この短い時間、後ろから漏れ聞こえて来る会話を耳にしながら読書に耽るのが僕の習慣だった。真面目なだけが取り柄の僕には残念ながら一緒に遊びに行くような友達はいない。父も母も僕のような者はそれが良いと言っている。学生は勉強が本分で、良い大学を出て良い会社に入れば将来の生活は安泰だ。

「相川君、ちょっといい?」

 そんな僕に声を掛けたのが足立さんだった。




「……足立、さん?」

「あ~、やっぱりシッキーだ~!」

 正面に立つ彼女の顔立ちは確かに当時の面影が残っている。髪色が大きく変わっていたり、そもそも制服姿しか見た覚えのないのでわからなかったが、確かに彼女は足立さんだ。

「久しぶりだね、高校以来?」

 言いながら彼女は隣に座る。思わず、距離を取るように少し横に避けた。

「成人式でも見つけられなかったしさぁ」

「あ、あぁ。大学が県外で、交通費が高いから、行かなかったんだ」

「そうだったんだ。いやぁ、どうしてるかなぁって思ってたんだけどシッキー当時携帯持ってなかったじゃん? 連絡先知らないからどうしようもなくてさぁ」

「そ、うなんだ」

 足立さんはまるで光だ。こうも近くにいると眩しさで目が焼けてしまいそうだ。高校の時ならばともかく、今の自分では特に。

「シッキーこのスーパーよく使うの?」

「いや、お金を、下ろす時に」

「あ~、そうなんだ。私一年前ぐらいにこの近くに越して来てね、よく使うんだけど見たこと無かったなぁって」

「ああ、そう。じゃあ今日は良い偶然だったね」

「そうそう、ほんとね!」

 まるで照れる事も無く堂々とそう言われてしまうとこちらの方が照れてしまう。自分と出会えたのが良い偶然だったなんて。あの頃と変わらない姿を見て僕は、僕は自分が如何に惨めな存在なのかを意識してしまいそうなのに。

 そんな悪い考えが頭を過るのを、

「えいっ」

 彼女は物理的に止めてしまった。

 足立さんの手が僕の頬を摘んでいる。

「……足立さん?」

「シッキーさ、何か悩みでもある?」

 図星を突かれ、僕は思わず表情を消した。そこから読み取れる情報を無くす為だ。ただ今はそれも意味が無い。彼女が僕の頬を摘むその手からは、きっと激しい動揺が震えとなって伝わっているのだろう。

「あ~、もしかしてさ、私に会いたくなかったみたいな? こんなやつに街中で会ってアンラッキー、みたいな」

「……そんなことは無いよ。足立さんと会えたのは……、そうだね。少し学生の頃の気分を思い出せて、嬉しいかな」

「ほんと~?」

「うん、本当だよ」

 しばらく足立さんは僕の顔を覗き込み、やがて諦めたのかもう必要ないと判断したのか溜息と共に居住まいを正す。

「ま、本当って事にしておこうかな。シッキーは真面目だから嘘つかないしね」

「あはは」

 誤魔化すような愛想笑い。実際、僕は足立さんと会ったのを半分はアンラッキーと思っていた。

「じゃあさ、どんな悩み事?」

 彼女は優しさというものを持っており、僕が悩んでいるのを見捨ててはくれないらしいから。

「教えてよ。力になれるかはわからないけど。シッキーには高校の時に助けてもらったからね、出来る限り力になるよ」

 この助けを蹴る事は簡単だ、しかし、僕は、ろくにこの先どうするかというあてもなく彷徨っている。そして流されるのが得意な僕は、たとえどれ程か細い藁だとしても、掴まずにはいられないだろう。

「……実は」

 つまり惨めな自分の事を話す事になるのだろう。

「仕事を、辞めた、みたいな、感じで」

「感じで?」

「―――ちょっと、考えていい?」

「うん」

 どう伝えるのがいいだろう、僕の現状を。誰かに伝える事になるなんて考えもしなかったから。

 目を閉じ、瞼を押さえて考える。脳内には過去の映像が次々と浮かんでくるようだった、自分では見れるはずも無い自分の姿すら浮かんでいる。これはこう映っていたのだろうという想像だ、想像に過ぎないけれど。それを見ていると頭の中で徐々に話が整理されて行くのが分かる。

 その全てを、問題の大部分を容赦なく切り捨て、客観的な、事実のみを告げる。

「……大学卒業して、とある会社で雇ってもらって、働いてたんだけど、今はその会社でパートとして働いてるんだ」

「そうなんだ」

「それで、まあ、お金が、貯金が、減ってて……。これからどうしようかなって思ってたんだ」

 良い大学を出て良い会社に入れば将来は安泰だ。但し僕はそれが実現できなかった。良い大学には入った。有名な国公立の大学に入って、きっちり四年間勉強して、そして僕が入った会社は単なる個人経営のスーパーだった。今では社員の肩書すらなくなって単なるアルバイトでしかない。午前中しか働いていないのもあって収入は半分以下、家賃に食費に光熱費、必要な経費を支払えばその収入はほとんど飛んで行ってしまう。少し贅沢をしたり何か不測の事態が起これば貯金に手を出さざるを得ない。

 ああ、惨めだ。勉強に身を入れた学生時代は無駄だったと思われても仕方ない。僕はそれを活かせるような会社に入る事も出来ず、それどころか単なるスーパーの一社員として働くことからすらドロップアウトしてしまった。ほとんどの人が普通に続けている会社員としての生活すらも出来なかったんだ。

「なんか思ったより普通の悩みだね」

 そんな僕に足立さんは少し意外そうな表情でそう言った。

「普通、かな」

「普通でしょ? 人の悩みって大抵人間関係かお金の事じゃん。シッキーも普通の人って事だね」

 まあ大きく括るなら確かにそう言う事なのかもしれない。しかし僕の中でそれで納得できるかは別の話だけれど。普通、普通、普通―――。

 普通ってこんなに悪いものだっけ?

 変な考えが頭の中に過り始めた瞬間、足立さんの声が僕の意識を現実に引き戻す。

「あのさ。私から一つ提案があるんだけれど」

 そう言った彼女の表情は学生の頃とまるで変わらない、当時と同じでクラスの誰もが憧れた彼女そのものに見えた。




 買い物を終えて家の冷蔵庫に食料を投げ入れると再び外へ。本当なら今日は一日中家に籠っているつもりだったのだけれど、その予定は崩れた。いや、こういうのは寧ろ予定が入ったと言うべきなのかもしれない。単に元々は何もするつもりが無かっただけなのだから。

 歩いて向かったのは近所の駅。と言ってもそこから電車に乗るわけじゃない。単に待ち合わせのランドマークになるのがここぐらいだと言う話。

「……平日の昼間ならこんなもんか」

 人通りの少なさにほんの少し驚きを覚えながら壁に背を預ける。最近、あまり出掛けていなかったせいか、この辺りにどのぐらいの人がいるのかあまりわからなくなっている。就職したばかりの頃は時々電車に乗って遠出もしていたけれど、もう何年乗ってないかな。

 人が通る、人が通る。彼らは友人と小旅行だろうか、あっちのスーツの男性はきっと仕事だろう、あまり馴染みの無い格好の彼女は何だろう、分からない。

「……足立さん、早く来ないかな」

 色々と考え事で気を紛らわせようと通行人を見物していたが、段々と気分が悪くなって来た。そもそもやり方を間違えた、どうせ考え事をするなら目を閉じて世界平和についてでも考えておけば良かったのに。楽しそうにしている人、溜息交じりでも仕事をやっている人、何かはわからないが真剣な表情で歩みを止めない人、そんな人たちを見ていると自分が惨めで嫌になって来る。

 なぜ僕はただ仕事を続けるという事すら出来なかったのだろう。吐き気が込み上げて、今すぐにでもこの場を離れ胃の中身を空にしたい。

 しかしそんなことをするわけにはいかない、とにかく、今はただ、目を閉じて、深呼吸。

「シッキー?」

「わっ!?」

 急に話しかけられると、驚く。

 足立さんと合流し町を歩く。この数年で街並みがほとんど変わらないこの場所は、再開発などの話はほとんど無い。たぶんいずれは寂れて行くのだろう。今はまだなんとなく耐えている、そんな感じだ。切っ掛け一つで次々と店が潰れて行って終いには何も残らないのかもしれない。

 ……これは今の僕が物事を悪い方に考え過ぎているだけだったりするのだろうか?

 先導するように斜め前を歩く足立さんは上機嫌な様子で先へ先へと進んで行く。僕は付いて行くので精一杯だ。

「え、っと。足立さんは、何でこの辺りに引っ越しを?」

 だから話を振ったのは少しでも足を止めようとしたからかもしれない。或いは単に本当に気になっていたからだろうか。この町はそれほど魅力ある町では無いのだから。

「あ~、実はさ、旦那の家がこの辺りで結婚した時に一緒に引っ越して来たんだ~」

「へぇ……、あ、結婚したんだ」

「そうそう。だから実は今って足立じゃないんだよねぇ」

 そう言って彼女は二階建ての、少し年季の入った家の前で立ち止まる。表札には『八海ヶ崎』と書いてあった。

「ここが?」

「そう。私んち」

「はちみがさき、で合ってる?」

「そうそう。長いよね。別にシッキーは足立って呼んでいいよ。私もその方が慣れてるしね」

「あ、うん」

 なんだか、こう、色々と、想定外な事が多い日だ。

 スーパーで、僕は単に色々と相談がしたいから今から家に来て欲しいと言われただけだ。その言葉に対して何らかの、つまりは下心的な期待が無かったと言うと嘘にはなる、けれど、まあそんなことは無いだろうとは思っていた。彼女は学生時代から裏表のあまり無い性格だから言葉通り、何か悩みがあって相談したいのだろうと。

 まさか結婚しているとは、いや、足立さんなら引く手数多で当然と言えば当然ではある。しかしそれならそれで別の問題が。

「……あの、さ。結婚してるのに、僕、入っても大丈夫?」

 一応僕は独身男性だ。無論足立さんが結婚していると聞いた今、余計な下心など抱こうはずもないけれど、世間一般的な感覚からしたらあまりこの行為は褒められたものではない気がする。

 そんな僕の心配を、

「あ~、大丈夫大丈夫。今は龍一君いないし嫉妬のしようもないでしょ」

 そう言ってあっけらかんとした態度で吹っ飛ばしたのだ。余計に問題な気はするけれど。

 とはいえまあ、今更この場から逃げ出すのも難しい。僕は若干の良心の呵責に悩まされつつも足立さんの家に足を踏み入れる事になるのだった。




 リビング、目の前には紅茶とクッキー。その向こうに広がる部屋の景色は生活感に溢れたもので、今はここにいない足立さんの旦那さんに対して罪悪感だけが募って行く。やっぱり断れば良かっただろうかと後悔に苛まれながらもこの場を離れられないのは、台所で自分の紅茶を淹れている彼女が足立さんだからだろう。

 少なくとも、学生時代の彼女は人を困らせて楽しむような人間では無かったはずだ。それだけは、信じている。

「お待たせ~」

 そんなことを考えていると彼女がティーカップを持ってやって来る。向かいのソファに腰を下ろした彼女はまずテーブルの上のクッキーを見て、

「あ、クッキー食べてないじゃん。甘いの嫌いじゃ無かったよね? これ貰い物の美味しいやつだから食べて食べて!」

 なんとなく学生時代を思い出させるそんなことを言った。

「……じゃあ遠慮なく」

 クッキーはさくりと音を立てて崩れ口の中には優しい甘みが広がる。

 ひとまず紅茶やクッキーについて軽い世間話があった。しかしそこは肝心な部分でもなければ大した内容も無い。お互いにアールグレイやダージリンがどこの国の産物かもわからない程度の知識しかなく、話が広がりそうもない事が明らかだ。

「何だっけ? 確か紅茶って凄い高いやつあるじゃん。あの猫がどうたらの」

 たぶんそれはコーヒーだという事は放っておこう。その間違いを正すのはあるかもわからない今度の機会でいい。

 どうにも足立さんは話を引き延ばしている風に感じたので仕方なく、僕の方から切り込むことにする。

「えっと、本題、に、入っても?」

 僕がここに来たのは足立さんの提案について話を聞く為だ。スーパーでは結局はぐらかされて内容がさっぱりわからないその提案の内容を。

「ん~」

 時計へ視線が向く。時間を気にしている? 現在時刻は午後四時半。太陽はとうに頂点を過ぎたけれど夏のこの時期ならばまだまだ日は長い。暗くなるまで待つつもりならいっそのこと一度家を出た方がいいかもしれないけれど。

「いや~、ほんとはさ、本人が帰って来てから一気に話そうかと思ったんだけど。まあいっか。先に話しちゃうね」

「本人?」

「そ。実はさ、シッキーにね、家庭教師をお願いしたいと思って」

「……家庭教師?」

 それは、また、意外と言えば意外、なのだろうか? しかし相手が足立さんとなると少し他の人とは事情が異なるというか、家庭教師というそれの意外性は薄い。

「シッキーって勉強教えるの上手かったじゃん? だからうちの子にも勉強を教えてくれないかと思ってさ」

 僕が勉強を教えるのが上手かったのかどうかは今になっても分からない。

 けれど不意に、本に囲まれた図書室の独特の匂い、テスト前で勉強の為に集まった生徒がノートに何やら書き込む音、次に出す問題を考えながら読み込んだ教科書をめくる感触、机を挟んだ向こう側にいる彼女の姿。

 冷房の効いた室内に七月の暑い風が吹いた気がした。




「相川君、ちょっといい?」

 後ろの席に座っていた足立さんとまともに会話をしたのはその時が初めてだった。彼女はクラスの中でも人気者で休み時間にはいろいろな友達と話をしている声が良く聞こえて来る。その声がまともに僕に向けられるなどとは一度たりとも思ったことが無かったけれど。

 喧騒の中でかけられた声に僕は緊張しながらもゆっくりと本を閉じて彼女の方へ向き直る。最初は一体何のつもりだろうかと思った。何せろくに話した事も無い間柄だ、このタイミングで話しかける意味があるとは思えなかった。ただ、彼女の表情を見ればどこか深刻な悩みを抱えているように見えた。

 例えば海で流されている人間が空に浮かぶ飛行機を見かけた時のように、要するに溺れる者は藁をも掴むというあれだ。

 きっと彼女はそういう気分で僕に声をかけたのだろう。

「えっと、何か?」

 そして僕はそれを見捨てられるほど非情では無いらしい。どんな頼みが来るのか戦々恐々としながらも、せめて多少でも力になれる頼みであれば良いなと密かに思っていた。

「……テスト、どう?」

「テスト?」

「うん、点数どうかなって……」

 テストが終わったのはつい先日。しかしまだ結果は返って来ていない。終わった直後は皆が教科書などを手にあそこの問題が合っていただの間違っていただのと盛り上がっていたが、それも過ぎた話だ。今はその向こうにある夏休みが一番ホットな話題と言えるだろう。

 なのに今更なぜテストの点を? それも僕に?

「……まあ、たぶん、そこまで悪くないと思う」

 しかしまあ不意を打たれ聞かれると、何も考えずに正直に答えてしまうのは昔からの癖だった。記憶を頼りに問題とその答えを教科書と照合した結果、おそらく平均で90点を超えた点数を出している事だろう。この点なら通知表もそう悪い数字は出ないだろうし、親の期待にも最低限は応えられる、と、思う。

「足立さんは?」

 何気なく聞き返したそれは深い意図は無かった。純粋に会話はとりあえず相手に聞き返す事から始めてみようと、何かの本で読んだ会話術の実践と言うべきか、たまたまそれが頭に入っていただけに過ぎない。

 過ぎなかったのだけれど、尋ね返したことで足立さんは更に眉間に皺を寄せてしまう。

「あぁ、うぅ……」

 そしてまるで腹を空かせて地面を這いずっていた獣が餌を見つけて駆けた先で罠に掛かった様な、要は暗く深い絶望の内にいるような呻き声を上げてしまう。

 まるで苛めているような気分で非常に周囲の目が気になってしまう所だったが、幸いにもこちらに注目している人はいない。

「あの、足立さん……、とりあえず顔を上げて……」

「ああ、うん。ごめん、こんな風にされても困るよねぇ」

 足立さんは申し訳なさそうに頭を掻いていた。それを見て、彼女はあまり憂鬱そうにした顔が似合わないと思ったのをはっきり覚えている。

「あのさ、お願いがあって」

「お願い?」

「テストやばくて、たぶん赤点なんだ」

「え……」

「あ~、馬鹿にしてるでしょ~」

 赤点、存在するとは聞いていたが実際に取ったことは無い。正直に言えば自分にとってはあまりに低すぎるハードルで跨いでいる事を意識した事すら無かったのが本音だ。

 しかしそれに躓きそうな人がいると言うのを聞いて思わず、

「……あ、いや、驚いた……、かな」

 あれは実際に意味があるものだったのか、と驚きが隠せなかったらしい。

「驚いたって、そんなに私頭良いと思ってた?」

「いや、えっと……、足立さんが頭良いかは知らなかった、かな。ただその、赤点って、あんまり意味無い制度だと思ってたから」

 あれは要するに、手を抜いて適当やらないようにする為に作られたものだと思っていたのだけれど、どうやらそれは僕の思い込みだったらしい。

「まあ相川君頭良さそうだもんね……。だから! お願いしたいんだけど!」

 彼女は両手を顔の前で合わせ深々と頭を下げて頼み込む。

「勉強教えてくれない?」

「勉強?」

 必死だ、と思った。

「えっと、何で?」

「実はさ、赤点だと再テストになるんだけど、そこで良い点取らないと夏休み補習なの。去年は二学期のテストでやっちゃってさぁ。冬休み、登校してたんだよ、私」

 冬休みに登校。きっとほとんどの学生は休みを満喫しているのだろう。その中で学校に通うと言うのは辛い思いだったに違いない。

「それは、とても、嫌だね」

「でしょ? だからお願いっ、力を貸して欲しいの!」

 手を合わせて懇願するその姿はとても真剣で、きっと夏休みを非常に楽しみにしているに違いない。足立さんならば友達と毎日のようにどこかへ遊びに行くのかもしれないし、或いは家族と旅行にでも行くのだろうか? どちらにしても、補習が入ってしまえばそれは叶わない夢と化すだろう。

 少し、悩んだ。けれど、僕は。

「……えっと、僕に出来る事なら」

 力を貸す事にした。

「ほんと?」

「でも何をすればいいか」

「じゃあ今日からお願いね! 放課後は図書室で勉強会ってことで!」

「え、ああ。……じゃあ、うん」

 正直な所、僕は人に勉強を教えると言うのをやったことが無かった。そもそもどうしていいのかもわからなかったし足立さんの期待に応えられる自信も無かった。それでも足立さんは僕を疑う素振りも無くただただ僕の力を信じてそう言ってくれた。

 そうやって人に頼られ期待されるのは、間違いなく嬉しい事なのだと、僕はこの時に初めて知った。




 懐かしい記憶が頭の中を通り過ぎて行った。あれから十数年、目の前には大人になった足立さんがあの時と同じような頼みをして来ている。なんだか不思議な気分だ。

「えっと、子供、は、成績が?」

「そこまで悪いわけじゃないけどね。まあ親としては色々と心配でさぁ。何かしてあげられないかな~、なんて思ってたんだよね」

「そうなんだ」

 足立さんは見た目や話しぶりから感じる印象よりもずっと真面目だ。勉強はあまり好きでは無かったようだけど、補習を回避する為とはいえ、ろくに話した事も無い僕に勉強を教えてもらうように頼むのは、そうした心の性質が関係しているのだろう。

 今も、自分の子供の為に力になろうと必死なのかもしれない。

 ……或いは、高校の学友があまりに惨めな姿を晒しているのが見ていられないのかもしれないけれど。

「もちろんお金は払うよ。家庭教師の相場は分かんないけどさ」

「あ、え? いや、それは……」

「まあまあ。シッキーもお金で困ってるんでしょ? アルバイトと思ってさ」

 気が引ける、けれど、僕は贅沢を言える立場では無いしはっきり言ってお金を貰えるのならとてもありがたい。というかお金に困っている僕を見かねての提案なのだとすればそれが当然ではある。足立さんの厚意を受け取るなら、当然お金は受け取らなければならない。

 僕にお金を受け取るだけの何かが出来るだろうか?

 いや、まあ、当時から勉強だけはしっかりやっていたし、足立さんを相手に人に教える経験も少しとはいえ積んでいる。ましてや足立さんの子供となれば仮に高校卒業後すぐに結婚して子供が生まれたとしても、小学校高学年。

 時間が経ったとはいえ流石に、流石に何とかなる、はず。

「足立さん、その、じゃあご厚意に甘えて」

 ガチャ。

 扉を開く音が聞こえた。

「ただいまー」

 続けて家に帰って来た事を示す挨拶が。

 ああ、さっき本人が帰って来てから説明するつもりだったと言っていた。確かに、もう学校も終わる時間かもしれない。声からして女の子だろう。足立さんは軽く明るい感じだが、この子はどちらかと言うと大人しそうな印象を受ける。まあ血を分けていようとも子供が親と同じような性格になるわけでも無い。僕も、親兄弟とは全然違う性格をしているし。

 しかし小学生にしては少し大人びたような声だったな。

「お帰り夕ちゃ~ん」

 足立さんは立ち上がって玄関まで小走りに向かう。きっと毎回そうしているんだろうなと思える自然さだ。

「愛さん、誰か来てるの?」

 愛さん? ……ああ、そう言えば足立さんの下の名前が愛だった気がする。親の事を下の名前で呼ぶのって普通なんだろうか? 昔とは色々と親子の在り方も変わっているとは聞くけれど、どうにも馴染める気がしない。僕が古臭い人間という事なのかもしれない。

 それはそれとして壁の向こうからは二人の会話が続けて聞こえる。

「そうそう。昔の友達で、買い物行ったらばったり会ってね。せっかくだからうちにご招待したの!」

「……靴見る感じ男の人だよね? お父さんがいないからって男連れ込むの?」

 娘さんの方がそう言った事に対して意識が高い。というか、何か、妙に他人行儀だな。

「まあまあ。紹介するからこっち来て」

「え、あ!」

 足立さんがリビングに現れる。娘さん、娘さん? を、引き連れて。

「……え、っと?」

 娘、らしき彼女、背は足立さんと変わらないぐらい、髪は肩にかかるぐらいで艶のある黒髪、少し目はきつい印象があって親子なのに全然似ていないという印象を受ける。ただ、どう考えても小学生ではない。なにせあの制服は見覚えがある、近所の高校の制服だ。ほとんど出掛けないとはいえ、何年もこの近くに住んでいれば家の近所を登下校で通りかかる学生を何度も見かけたことがあるものだ。

 高校、は、十五歳からだから……。えっと。

「中学、の、時に?」

 計算上十四歳で子供を産んでいたって事に? なるのか? 目の前で起こっている現実が信じられず冷や汗が伝うのを感じる。

「中学? 何が?」

「いや、え? 足立さん、も、まだ二十九歳、だよね?」

「ん~?」

「高校生の子供、は、つまりその、計算すると、そうなる、よね?」

 僕の言葉を、彼女がゆっくりと咀嚼し、飲み込み、理解する。

「……あ、違う違う。あれ、言ってなかったっけ?」

 違う、のか。それは良かった。

 しかし何を言ってなかったのか、これはどういう事なのかという疑問に関して、即座に足立さんから説明が入る。

「この子は夕って言って。今の旦那の、まあ所謂連れ子ってやつだね」

 連れ子。要は結婚した際にその相手が以前に別の人物と授かった子供。

「ああ、成程」

 確かにそれなら色々と説明がつく。この子が高校生でも足立さんの年齢とは一切関係ないし、さっき微妙に他人行儀に感じたのも元々他人だからという事だ。似ていないのも血の繋がりが無いなら寧ろ当然。

 末恐ろしい事態が起こったのでなくて良かった。

「あの、愛さん。この人は?」

 足立さんの背に隠れるようにして彼女は、夕ちゃん、は僕を警戒するように睨んでいる。少なくとも見ず知らずの他人である僕よりは足立さんの事を信用しているらしい。

「シッキーはね、高校の時の同級生。頭が良くてね~、テスト前になるといっつも勉強教えてもらってたんだ」

「どうも、初めまして」

 軽く会釈してみたが警戒が解けた様子は無い。そもそもさっきも男を連れ込むなんて、みたいな反応してたし僕に対してはあまり良い印象は持ってなさそう。

 その反応を見ていると、思う。足立さんに悪いけど家庭教師の件は断るべきかもしれないと。そもそも高校レベルの勉強となると流石にあまり自信が無いし、あれだけ警戒されている状態ではお互いの為にならない気がする。

 こうなれば早めにお暇しようかな。淹れてもらった紅茶を一息に飲み干して立ち上がり。

「お、やる気だね~」

「え?」

「実はシッキーには夕の家庭教師をやってもらう事になったんだ」

「は?」

「私の成績もシッキーのおかげで随分と上がったからね、夕ちゃんも成績爆上がり間違いなし。大学も選び放題選り取り見取りってこと」

 あれ、いや、僕は適当に挨拶をして帰ろうと思って。

「じゃ、善は急げだもんね。早速行こう行こう!」

 足立さんの押しの強さは大したもので、僕らは呆気に取られて何も言えない。手を引かれて部屋まで一直線、ブレーキはどこへ?




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