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間隔の公式  作者: 藤乃病


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9.

 朝、目が覚めて、色々と思う事はあったけれど、まず確認したのはスマホだった。通話履歴を調べ、そこに兄の文字があるのを確認して大きく息を吐く。

「夢じゃなくて良かった」

 もしもあれが夢だったなら今頃僕は失意のあまりに膝を折っていたことだろう。幸い、そんな未来は訪れないようでありがたい。

「……まあ、今日は、仕事か」

 まずはやるべき事をやろう。洗顔、朝食、着替え、仕事へ行く準備を終わらせるのだ。昨日は色々とあった気もするけれど、それはそれとして仕事に手を抜いていいわけもない。そんなことは僕のやりたい事ではないはずだ。

 時間を空けて顔を見に来ると言っていた兄を失望させるわけにもいかないし。




 仕事は、いつも通りの始まりだ。

「相川、来たか」

 渚朝先輩から今日の指示を貰い、その仕事を滞りなく済ませて行く。確実に、一つ一つ丁寧に。途中で出勤して来た跡辺君にはどこから手を付けるか指示を出しながら、時間が進んでいく。

「今日はなんか生き生きしてますね」

 不意に跡辺君にそんなことを言われた。

「え? ……そう、なの、かな?」

「そう見えますよ。何か悩みでも解決したんですか?」

「まあ、そうとも言えるかな」

 意外に、というのは失礼だけれど、跡辺君は周りをよく見ているらしい。僕は勝手に彼を陽気でノリの軽い大学生だと思っていたけれど、きっとそれは僕がろくに彼を見ようとしていなかった結果なのだろう。

「じゃあバリバリ働いて俺の分の仕事までやっちゃってくださいよ。頼みますよ」

「あ~、ははは」

 他はともかく、ノリが軽い部分は、間違って無さそうだ。

 仕事終わり、着替えも終えて後は帰るだけだが。

「今日は終わりか」

 渚朝先輩に声を掛けられる。

「ちょっとまだ仕事が立て込んでるから長い時間は抜けられないが、少し裏で飲み物でも飲んでかないか?」

「じゃあ、ぜひ」

 先輩の誘いに乗って裏手の喫煙所へ。お茶をご馳走になり段差に腰かける。先輩は疲れているのかどっしりと腰を下ろし溜息をついた。

「今日呼び止めたのは他でもない」

「他でもない?」

「ちゃんと考えてるかと思ってな」

「ちゃんと考えてるかと思ってな?」

「どこに遊びに行くか、ちゃんと考えてるのか?」

「ああ!」

 この前の約束の話か。一応返事はしたものの、色々考えておきますというような、先延ばしの言葉を並べ立てていたはずだ。

「お前、適当な返事で誤魔化そうとしてただろ」

「あ~、あれは、そういうつもりではなかったんですけど、結果的にそういう形になっているだけと言うか……」

「へぇ~?」

 何だか、夕ちゃんみたいな事を言うな。先輩にも子供っぽい所があるという事なのかもしれない。いや、まあ、この件に関してはきちんと考えをまとめていない僕にも大いに問題があるわけだけど。

「まあ、その、ちゃんと考えるつもりはありますよ」

「本当だろうな? お前からどこか行きたいとか、そういう話を聞いた覚えがないんだが」

「それについては、否定しませんけど」

 行きたい場所なんて無かったのだから、当然、それについて語る事も無いだろう。ただ、今は。

「……最近、色々あって、ちょっと考えが変わりまして。ひとまず見識を広げる意味でも、色々と行ってみたいな、とは、思ってます」

「……ふぅん?」

 心の内を推し量るように先輩の瞳が僕の事を映す。それはしばらく続き、しかしやがてそれも終わったのか、或いは単に飽きたのか、目を閉じて手に持ったコーヒーをぐいと傾ける。

「……ま、別にちゃんと考えてるならいい。ちゃんと言っとかないと約束の事忘れてすっぽかしそうだからな」

「それは、大丈夫ですよ。僕も、先輩と遊ぶのは、楽しみに思ってます、から」

「本当かぁ?」

「ええ、まあ」

 僕は僕の事しか見ていなかった前までの自分とは違う、つもりだ。先輩がどんな一面を持っているのか、それがこれから先の付き合いの中で見えて来ると思う。その事は、純粋に、楽しみだ。

「まあそれならいい。ちゃんとどこに行きたいか考えとくんだぞ」

「はい」

 少なくとも今の、仕事をしている最中とはまるで違うどこか子供っぽい姿は、新鮮で面白いと思う。仕事が出来て、周囲に気を遣い、いつも優しくて頼りになる姿だけが先輩の全てでは無かったのだ。駄々をこねる先輩の姿を想像すると、少しおかしくて、思わず笑みが零れた。




 家に帰り、そのまま今日一日を休むことに費やすのも悪くは無いが、しかし今日は家庭教師の日でもある。となれば僕がすべきはその準備だろう。尤も、夕ちゃんは既にテストを終えてしまい、先に待っているのは長い夏休み。

「相変わらず、家庭教師という名目に意味があるのか、分からないな」

 昨日、足立さんによって実際には家庭教師の仕事などそこまで期待されていなかった事が暴露されてしまったが、しかしだからと言ってそれを放り出すのは問題だろう。やるべきことをやらずに金銭を貰うなどあり得ない。その点は何があっても変わる事は無いだろう。

 しかし、まあ、いわゆるモチベーションというものが維持できるかには大いに関わって来るものがあるらしい。

「……あまり、頭に入っている気がしない」

 いつものように参考書を開いたはいいが、既に何度かやって概ね頭に入っている内容、それを活かせる場所があるのかという疑問、更には実際にはあまり期待もされていないという事実が重なり、どうにも身が入らない。学生の頃の勉強はこんなことは無かった、だろうか。正直、あの頃の事はほとんどの事をちゃんとは覚えていなくて、どうにも曖昧だ。それはつまり、ろくに身が入っていなかったという事なのかもしれない。

 仕方なく、ベッドに寝転ぶ。

「仮眠でも取ろうかな」

 昼寝は集中力の維持に効果的という話も聞いたことはある。どちらかと言えば僕は起きられなくなりそうで怖いのだが、色々と心境が変わった今ならば、そんな思いが無くもない。しかしながら僕の理性は全然関係のない話では無いだろうかとも訴えている。

「どうしようかな」

 視線を何気なく動かしていると、その先にスマホが見えた。何気なく手に取り、開く。

「……あ」

 それでふと、思い出す。一昨日、財部君から誘いがあった事、そしてそれを断った事。

「バスケか……。まだ大丈夫かな?」

 ちょっとした心変わり、財部君とのやり取りを見返し、そして。

『一昨日はああ言ったけど、まだ参加は出来るかな? 下手でも構わなければやってみたいと思う』

 そんなメッセージを送った。送って、五分ほどで、後悔が湧いて来てそのメッセージを取り消そうかと思ったけれど、いまいちやり方が分からず戸惑っている内に。

『初心者など大勢いる、気にするな。土日のどっちが良い? 何時ごろから来れるんだ?』

 返事が来てしまう。そしてそれが来てしまった以上は、参加する前提で考えなければならないだろう。まあ、自分で参加希望を出したのだから今更だ。スポーツは大して得意でも無いし、最近はろくに運動もしていない、不安は尽きないがそれでもやると決めたのだ、やるしかない。

「少し、ランニングでもしておこうかな」

 そう言って気付く。土日って事は明日か明後日、期日は目の前じゃないか。

「もう遅いか」

 失敗したかな、そんな思いも心の内にはあったが、不思議と悪い気はしない。財部君は、たぶん、まあ、いまいち彼の事は分かっていないけれど、彼がいる限りそう悪い事にはならないだろうと、なんとなくそう思った。




 通い慣れた、と言う程は通っていない道を歩く。この道をこれから先どのぐらい歩くことになるかはわからないが、可能ならばこの景色が見慣れたものになると良い。十六時を過ぎても日は高く、暑い。玉のような汗が頬を伝い落ちる。

 夏だ。

 インターホンを鳴らす、いつものように中からどたどたと足音が響く。

「シッキー、いらっしゃい」

「お邪魔します」

 足立さんの出迎え、中に入りリビングへ。相変わらず、どこから買っているのか、美味しそうなお菓子がお茶請けとして出て来る。

「……このお菓子は、どこで?」

 なんとなく尋ねてみると、足立さんは少し驚いたように目を丸くしていた。

「えっと、何か変な事言った?」

「いやいやいや、全然? 珍しいって言うか、初めてかもと思って」

「何が?」

「シッキーがそういう事聞いて来るの」

 そういう事、という言葉が含む意味は何だろうか。少し難しいが、確かに、足立さんが僕に出したお菓子について話を聞いたのは初めてだ。

「そんなに美味しかった?」

「ん~、たぶん、これまで出してくれたのとそこまで差はないかな」

 今まで食べたものを思い返しながら、考える。

「……ああ、この前、上で夕ちゃんと食べたクッキーは美味しかったかも」

「あ~、あれは凄い高いやつだったからね。友達に貰ったんだけど、海外旅行のお土産だったからそうそう買えないかな」

 そんなに良いものだったのか。僕は随分と気楽に食べてしまったけれど、良かったのだろうか。そんな僕の考えを見透かしたかのように。

「シッキー、食べ物って言うのはね、美味しく食べる為にあるんだよ」

 得意気な笑みを浮かべて、彼女は言う。どうにも、足立さんには、勝てそうもないと思う。

「夕ちゃんもすぐに帰って来ると思うから、それまではこのお菓子をどこで手に入れたか事細かく教えて差し上げよう」

「お願いするよ」

 近所のスーパーでやっていた北海道フェアで売っていた、ただそれだけの話をさも壮大な冒険であったかのように語る彼女の姿は活き活きとしていて、成程、彼女が大勢の人に好かれるのも頷ける。そう思った。

 そんな話も終わりを迎えた頃、まるで時間を測っていたかのように扉の開く音がする。

「ただいまー」

「夕ちゃ~ん、お帰り~」

 そして帰って来た夕ちゃんの元へ飛んでいく足立さん。その姿はなんだかもう見慣れてしまったな。少しして、夕ちゃんがリビングに顔を出す。

「ん」

 発された言葉はその一音だけであったが、まあおそらくは付いて来いと言っているのだろうと思い立ち上がる。先先と階段を上って行く夕ちゃんの姿、を階下から見守る足立さん。

「気に入られてるねぇ」

 リビングから出て来た僕にそう声を掛けた。

「どうだろうね」

 実際、気に入られているのかはかなり疑問だ。彼女にとって僕が何なのかは、昨日足立さんから色々と聞いた今になっても、正直よくわからない。ただまあ、必要とはされている、と、思っておこう。




 部屋の戸は開いていた。中を覗くとこちらをじっと睨むように見ていた夕ちゃんと目が合う。

「入って」

 僕は無言のまま中に入り、少し悩みながら扉を閉め、用意されていた椅子に座る。何か向こうから話があるかと思い待っていたが、中々話し出そうとしないのでひとまずこちらから。

「……あ~、テストは、どうだった?」

 そう尋ねると彼女はその言葉を待っていたかのように、鞄の中からテストの、返却された解答用紙を取り出した。

「お~、94点」

「凄いでしょ」

「うん、凄い」

 どう考えても、良い点だろう。間違いなく成績優秀だ。

「もう結果が返って来たんだ」

「英語は一日目だったからね。他のは来週だって言ってた」

 成程、日程の問題か。そんなことに納得していると、彼女は優越感に満ち満ちた表情で自慢げにテスト用紙をゆらゆら揺らす。

「相川さんでもこんな点は取ったこと無いんじゃない?」

「いや、あるかな。英語はあまり得意じゃなかったけど、大体90点前後だった気がする」

 ぴたり、と揺れが収まった。直後に返答を間違えたのかもしれないと気付いたが、今更だろう。

「あ~、その、僕は、ほら、他の事とかしてなくてさ。勉強ばっかりだったから」

「……私も、別に、部活とかやって無いし」

「いやほら、その~」

 頭の中に幾つか言葉が浮かぶ。習い事だとか、友達だとか、家の手伝いだとか。しかしながら、彼女がそのいずれかにうつつを抜かしている様子など見たことはない。要するに、その辺の事情が何も無いという事で。

 明らかに、恨みがましい眼で、睨まれている。

「……あっ、そうだ! 六田君は、どうだったかなぁって……」

 それはもうあからさまな話題の転換ではあったが、幸いにも夕ちゃんはふん、と鼻を鳴らしながらもそれに乗ってくれるらしい。

「六田の奴は、まあ頑張ってたけどね。90点だって」

「へぇ、凄いね」

「私の方が上だから!」

 まあそれはその通り。別にその事を否定したいわけでも無いので、ひとまず分かってる分かってると言いながら宥める。

「まあ、今回は相当頑張ってたみたいだけど、結局私の方が上って事」

「頑張ってたんだ」

「当日目の下に隈作ってたりしたからね」

 おぉ、六田君、結構本気だったんだな。負けてしまって今頃悔しい思いをしているのかもしれない。

「因みに、六田君は英語得意なの?」

「どうだろ。でも数学では負けないって言ってたから数学が得意なんだと思う」

「勝負は合計点で?」

 夕ちゃんが頷く。

「何教科だっけ?」

「七」

 七教科あって、一つ目で四点差か。……まだ安心は出来なさそうだけれど。

 そんなことを考えていると夕ちゃんがこちらを睨んでいるのに気付く。

「何?」

「いや、うん、えっと……」

 何、はこちらの台詞では無かろうか、と思わなくもない。

「もしかして、私が負けると思ってる?」

「いや、そこまでは……」

「じゃあ六田の事を応援してる?」

 流石に全く知りもしない六田君のことは、応援しようにもどう応援すればいいのか分からない。祈念するにも顔も知らないというのはちょっと。

「いや、まあ、そういう関係があるのは、良い事だと思ってね」

「はぁ?」

「ほら要するに今の二人はライバルみたいだから」

「あいつが勝手に私の事をそう見てるだけなんだけど」

「ん~、それは、そうか」

 途中まで否定するつもりだったけれど、夕ちゃんの話からだけではどうにも否定のしようがない。六田君にも、実際に会ってみたら、どんな人なのかわかるのかもしれないけれど、流石に高校に入り込んだり入り口付近で出待ちするのは不審者だ。

 しかしそうまでして何がしたいのかと言えば、結局、どこか勿体無いと思っているだけなのだろう。どんな繋がりなのかは分からないけれど、それを切ってしまうのは。

「でもさ、そういう勝負の場があると、負けたくないと思うからさ。自分を高めるのには、都合が良いかもね」

「どういう事?」

「負けたくないなら努力するでしょ?」

 夕ちゃんは僕の言葉に、少し悩む素振りを見せた。しかしそれは僕の言葉が正しいのかどうかを吟味しているというよりは。

「……まあ、確かに、一理あるかもしれないけど。六田の奴も、まあ、本気で私に勝とうとしてるのは伝わるし、うざいけど、まあ、相川さんがそう言うなら……」

 どこか、言い訳を探しているだけに見えた。

 或いは、夕ちゃんも少し変わったのかもしれない。周囲の人間を単に邪魔だと思うのではなく、周囲の人間との繋がりを求めるような形に。六田君を起点に、彼女が形成する人の輪が広がって行くのだとすれば、それはきっと良い事だと思う。

「そういえば秋葉さんは何か言ってた?」

「ああ、秋葉は、何か私の点見て喜んでたけど……。あいつは本当に何考えてるかわかんなくて、ちょっと怖い」

「あぁ……、うん」

 どうやら秋葉さんとは、合わなそうだけど。

 それからしばらくどの教科が自信があるとか、無いとか、そんな話をしばらくして。それから自然と話はその先へと流れて行く。

「学校は、もうすぐ夏休みだよね」

「まあね。再来週には終業式があって、そこからは九月まで休み」

「羨ましいね。社会人になるとそこまで長い休みは取れないよ」

 まあ僕は社会人と言うには少々半端者だけれど。何せ午後からは毎日時間が空いている、場合によっては、学生よりも僕の方が自由時間が多いのかもしれない。

「夏休みも」

「ん?」

「家庭教師、やるの?」

 ……その件に関しては、どうなんだろう。

「僕個人の都合を言うならば、幾つかの理由で続けさせてもらえるとありがたいけれど、基本的には夕ちゃんの希望が優先されるべきだとは思うよ」

「何その言い方……、いっつもそうだけど、なんか回りくどい」

 それは否定できない。とはいえ、これは、癖のようなもので、今更直す事も出来ないだろう。

「……相川さん、休みとか、どのぐらいあるの?」

「休み?」

「夏休みとか無いの?」

「ああ、いや。僕はその、本業の方はそういうの無いんだ」

 寧ろ人が休みの日こそ稼ぎ時と言うか、直近で言えば盆周りは基本的に長い休みを頂くのだろうけど、この仕事では寧ろ忙しい日々なわけで。一般に言う夏休みなんてものは無いのである。

「しかしまあ、基本的に週に二日は休みがあるから、そんな感じかな」

「へぇ~……」

 夕ちゃんは指先を遊ばせながら、唇を真一文字に結んで、偶にこっちをちらちらと見て来る。何か、言いたいのかもしれない。それを言うように促すべきか、それとも待つべきか、少し悩んで僕は。

「夕ちゃんは何か夏休みに予定とかあるの?」

 なんとなく、適当に話を振った。

「……愛さんが近くで好きなアニメの展示があるから一緒に行こうって」

「そうなんだ」

 足立さん、アニメとか見るのか。知らなかった。

「あと、六田の奴が、何か、俺が勝ったら一緒に祭りに行こうって」

「え?」

 祭り? いまいち、唐突で、話が掴めない。

「どう思う?」

「……どう、なんだろうねぇ」

 わかるのは、六田君の方は夕ちゃんの事を嫌ってはいないってことぐらいだろうか? 嫌っている相手を祭りに誘うような異常な感性は流石に持っていないだろう。

「行くの?」

「勝つから、関係ない、と、思う」

 ああ、これは流石に、分かる。悩んでいるんだ、どうすべきか。だって今のままだと勝ってしまったら祭りには行かないって事で決着してしまうから。

「……祭りって、七月の終わりに毎年やってるやつだよね」

「うん」

 毎年、その日は日中の客入りが悪くなるのでよく覚えている。というか、店長が毎年この日は気を付けろと口を酸っぱくして言うので覚えてしまった。

「……祭りと言えば、毎年あそこの屋台の食事はレベルが高いと評判らしいよ」

 これは跡辺君が言っていたんだったかな? ぼんやりとした記憶だけど。

「勝ったら好きな物でも奢ってもらったらどうかな?」

 その言葉に夕ちゃんは、顔をばっと上げて、こっちを見た。そして頬を膨らせて、

「なんか、見透かしてるみたいな言い分で、むかつく」

 どうやら反感を買ってしまったらしい。やはりコミュニケーションは難しい、僕程度の経験値では上手く行きようがないという事か。

「でも」

「ん?」

「悪くないかもね。それなら、私も美味しい思い出来るし」

 そう言った彼女の表情は、どこか晴れやかに見えた。

 が、まだ終わりではない。

「相川さんは?」

「え?」

「私が勝ったら、ご褒美に何か奢ってくれます?」

「え~、と?」

 少し考えて、意味を理解する。

「僕も祭りに来いと?」

「もちろん。だって相川さんの提案でしょ?」

 それはそうなんだけれど。いや、元を正せば六田君ではなかったか? まあそんなことを言っても無駄なので口にはしないが。

「……まあ、成績優秀者には、そういうご褒美ぐらいは、あっても良いのかもね」

 にっ、と彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「期待してますね!」

 なんだか、負けた気分だ。しかし高校生の集まりに僕のような三十間近の人間が顔を出すというのは、どう考えてもかなり気まずい。お小遣いを渡すだけで済ませられるならそれが良いのだが。

 彼女の表情を見る。その時を楽しみにしているような、その笑みに、何も言えない。

 まあ、諦める事も肝心だ。

「夏休み」

 不意に彼女が口を開いた。

「今までは学校に行かない日々ってだけで、大して面白くもないと思ってたけど、今年は少し、楽しみです」

 その言葉を聞いて、僕は、僕もそうなのかもしれないと、思った。

 兄の訪問、財部君のお誘い、渚朝先輩との約束、夕ちゃんと行くお祭り、足立さんだって黙ってはいないだろう。或いは、僕の方から何かお礼をするのも悪く無い。

 うだるような暑さの中を歩く人たち、それを窓越しに見下ろして教科書やノートと向き合っていた、そんな夏を思い出す。

 今年の夏は忙しくなりそうだ。無意識に、僕は柔らかな笑みを浮かべていた。



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