第一話 『チキンボーイ・ミーツ・ガール』
西暦2082年5月11日 月曜日 午後2時31分
「2020年頃から、中国の工業地帯を中心に住民が謎の病気により続々と倒れていきました。中国政府はWHO(世界保健機関)に調査を依頼し、原因は工場の排気ガスや川に流した廃棄物質などによる環境汚染と判明。
WHOは中国政府に直ちにすべての工場の使用を停止するように要請しましたが、中国政府はさすがに一度に国中すべての工場を停止すると国全体がパニックを起こすという返答をし、とりあえず少しずつ工場の使用を止めていき、代わりに大勢の人を雇用する事で機械の分を補うという対策をしました。
2025年、中国すべての工場の作業が人の手により行われるようになり、工場からは一切の排気ガスや廃棄物質を出さなくなりました。
結果、病気で倒れる者が劇的に減少し、更に思わぬ副産として近年下がり気味だった景気が良くなったのです。
景気が良くなった理由は色々ありますが、機械の代わりに大勢の人を雇用した事で労働者が増えて、お金の流れが良くなったというのが一番大きな理由だと調査をした多くの機関の見解です。
環境汚染の対策と景気が良くなったに中国に影響され、その真似をする国、自治体、地方などが少しずつですが増え、2070年には世界中の人たちが地球の環境を破壊する物の使用を止めました……っと」
カッカッカッカッと黒板に小気味良く音を鳴らしていたチョークを動かす手を止めて、竹田先生が振り返った。
竹田 天使先生。僕のクラスの近現代史の担当の先生だ。
髪が薄く黒縁眼鏡をかけており、いつも柔和な表情を崩さない
優しそうなおじさん先生だ。
優しいではなく優しそうと表現するのは、僕はこの学校に入学して一ヶ月しか経ってなく、まだ僕が竹田先生の事をあまりよく知らないから。
噂では昔、薄い頭髪の事をからかった生徒がいて、半殺しにして髪を素手で毟り取った……らしいけど、とてもそんな風には見えないし、あくまで噂なんだしきっと嘘だろうと思う。
ちなみに竹田先生の名前は『あんじぇろ』と読む。。
その昔、日本では生まれてくる子どもにキラキラネームという、
形容しがたい名前を付ける流行りがあった。
竹田先生は改名を考えたそうだけど、敢えて改名はしなかった。
何年か先に大人になり子を持つであろう生徒に竹田先生という前例を見て、名前を付ける大切さを知ってもらいたい。という事を最初の近現代史の授業の時、竹田先生は自己紹介で話してくれた。
僕の名前は高橋 洸と言う。
名前の由来は、父さんの名前が光一で、母さんの名前が渚。
光一の光と、渚の部首のさんずいを組み合わせて洸という名前を付けた。
僕の両親は普通で良かったと思う。
竹田先生は生徒全員を見渡し、そして確認するように黒板の右隅に書いてある
今日の日付を見た後、再び生徒の方を見て口を開いた。
「今日は5月11日ですから、足して16です。出席番号16番の生徒、立ってください」 僕の席から左斜め前に位置する生徒が「はい」と返事をして、ガタッと席を立った。
「2070年、世界中が地球の環境を破壊する物の使用を止めました……と言いましたが、世界中に共通する例外があります。それは分かりますか?」
「えっと、救急車や消防車などの車は遅れると命の危険があるので例外です」
「正解です、燃料にガソリンを使っている緊急車両などの使用は例外です。地球の環境を破壊する物の使用を禁止する法律は現在どこの国にもありませんが、地球の環境を破壊する物を使わない、しかし人命に関わるような緊急時に限り使用は認める。というのが今の世界中に共通する暗黙の了解です。あ、座っていいですよ」
竹田先生は生徒全員に背を向けて、黒板にチョークで文字を書いていく。
またカッカッカッカッと小気味良く鳴る音が教室に響く……。
今やっている授業は小学生でも知っている常識で、よく分かっている。
月末にある中間テストに出そうな部分を愛用のシャーペンでノートに書き出していく。一通り書き込んだ所で一息つき、気になるあの人へと首を向けた。
僕の席から右斜め前の席にいる女子生徒の後ろ姿を見る。
(彼女は所謂高嶺の花で、僕なんかじゃまったく釣り合わないよな……)
そんな事を考えて、ハァ……と深くため息をつく。頭の中に嫌でも浮かんでくるモヤモヤを消したくて、ノートを書くのを再開した。
西暦2082年5月11日 月曜日 午後3時26分
帰りのホームルームが終わり、教室は一気に騒がしくなる。
僕は自分の席に一旦座り、これから何をしようかと考えた。
部活は帰宅部だし、特に予定があるわけでもない。
(何もする事ないし、暇なんだよ……)
入学してからずっと放課後になる度、やる事がなくて退屈している。
こんな事なら何か部活に入っておけばよかったと何度も思ったけど、体を動かすのはあまり得意ではない僕に運動部に向かないし、文化部はこれといって興味のある部活はなかった。
友達が出来れば、放課後を一緒に楽しく過ごせるかもしれない……でも、人見知りが激しく引っ込み事案な僕に友達を作るのは、とても困難な事だ。小学生と中学生の時は少ないけど何とか友達は作れた。
家から近いという理由でこの茂団高校に進学したけど、周りには中学の友達はおろか知っている人さえいない。
周りは既に友達のグループを何組か作ってるし、今更僕が話しかけてグループに入れてくれるだろうか?
何だコイツ? とか思われないだろうか?目を付けられてパシリにされないだろうか?
だんだんとエスカレートしてカツアゲされたり、コンビニで万引きさせられたり、サンドバッグにされてボコボコにされたり、全裸で町内を一周走らされたり……。
簀巻きにされて線路の上に放置されたらどうしよう!
(……いや、さすがにそれは考えすぎだよな、うん)
ハァ……と本日二回目のため息をつき、どうして僕はこんな臆病なんだろう……と自己嫌悪していると、
「ヘーイ、コウサン!」
と明るい声で誰かが僕の名前を呼び、振り向こうすると背中にバシィッ!! と鋭い痛みが走った。
痛みを堪えやや涙目になって振り返ると、クラスメイトのカリンさんが満面の笑みで立っていた。
「タメ息スルトハッピー、マッハデイナクナッチャウジャン?」
カリン・エドワーズさん。僕のクラスメイトだ。
カリンさんの自己紹介で知ったのだけど、日本とアメリカのハーフで、お父さんが日本人、お母さんがアメリカ人らしい。
両親の仕事の都合でこの新潟県 茂団市に引っ越してきたんだって。
小柄で長い金髪、そして大きな青い目。茂団高校の女子の制服は薄い桃色の振袖と赤い袴なので、カリンさんには似合わない……なんて事はなく洋と和が合わさり、何だか不思議さ可愛さがある。
カリンさんを見た時の第一印象は、自由気ままな猫みたいな女の子だと思った。
同じクラスになってまだ一ヶ月しか経っていないのだけど、その間にカリンさんはいくつも事件を起こしていた。
授業中、説明書を見ながら折り紙で手裏剣をこっそり作り、完成してテンションがマックスになったのか、「ニンジャァ!」と突然叫び、思いっきりブン投げて
竹田先生の頭に当てた『手裏剣ヘッドショット事件』(説教の後、カリンさんには
授業中折り紙禁止令が下される)
教室の掃除中、箒でシャドーボクシングならぬシャドーチャンバラに夢中に
なって、窓ガラスを一枚割った『シャドーチャンバラ事件』(担任の長谷部先生にお尻ペンペンされて涙目になってた)
茂団市内にあるモダン公園の池にちくわを咥え制服のまま飛び込んだ
『ちくわで水遁の術事件』(散歩してたおばさんが入水自殺と勘違いし、110番に通報して公園は大パニックになった)
どこから抜いて持ってきたのか、案山子の頭に長い金色のカツラを被せ替わりに授業を受けさせた『変わり身の術事件』(無論欠席になった)
両手両足に強力な接着剤を塗りたくり、早朝から教室の天井に張り付いていた天井張り付き事件(どうやって張り付いたかは今だ不明)
僕が知っているのはこれくらいだ。調べればもっとあるんじゃないだろうか。
やっぱりカリンさんは、自由気ままで猫みたいな女の子だと思う。
カリンさんのつぶらで大きな青い目が真っ直ぐ僕を見つめているので、ドキッとした。女の子にジーッと見られるのは慣れていない。
背中を思いっきり叩かれたのは痛かったけど、彼女に悪気はなく、落ち込んでいる僕を見て励まそうとしたのだろう。
気に掛けてくれる人がいて、何だか少し嬉しくなった。
「ああ、うん……そうだね」
背中の痛みを我慢しながら頑張って笑顔を作り答える。
カリンさんは更に表情を明るくし、
「笑ウコーナー、ハッピー来ルジャン!」
と言った後、もう一度の僕の背中を平手でバシィ!! と思いっきり叩き、
「HAHAHAHAHAHAHA!!」
大声でアメリカンな笑いをしながら教室を出て行った。
まだ痛みが引いてない箇所にもう一撃きたので、僕は激痛のあまり3分程机に
突っ伏す事になった。
「いてて……」
背中がズキズキと痛むけど、我慢して僕は歩いている。
あの後、教室でこれから何をしようか考えたけど……何も思いつかず、結局、僕は家に帰る事にした。
学校から家が遠い生徒は電気バスや電車、電気アシスト自転車を使うけど、僕の家は学校から歩いて行ける距離なので徒歩で通学している。
急ぐ理由がないのでゆっくり歩いていると、僕と同じ茂団高校の生徒をチラホラ見かけた。
一人で歩いているのは僕だけで、男子達はこれからどこに遊びに行くか話しあっていたり、女子達は近くに開店した美味しいケーキ屋さんの話で盛り上がっている。幸せそう手を繋いで歩く男女の生徒もおり、多分……カップルだろうか?なんだか羨ましい。
僕も気になるあの人と手を繋いで歩けたら……なんて想像してみるけど、ブンブンと頭を振ってこれ以上考えるのを無理やり止めた。
僕とあの人じゃ絶対にそんな事にはならない。想像しても虚しいだけだ。
気分が暗くなり、本日三回目のため息をつこうと息を吸った時、カリンさんの言葉が頭をよぎった。
(タメ息スルトハッピー、マッハデイナクナッチャウジャン?)
(笑ウコーナー、ハッピー来ルジャン!!)
日本に来てまだ日が浅いので、日本語と英語が混じった変な文になったんだと思う。このまま吸った息を地面に向かって吐き出したら、まだよく分かってない
日本語を頑張って使って僕を励ましてくれたカリンさんに何だか悪い気がする。
立ち止まり、真上を向いて雲一つない青空に吸った息を吐き出した。
気のせいかもしれないけど、少しだけ気分が晴れた。
道のど真ん中でカリンさんみたいにHAHAHAHAHAHAHA!! と大声で笑う勇気は僕にないので、口の端を少し吊り上げて微笑を作ると、再び歩き出す。
(少しだけ福が来るといいな)
そう思いながら道の角を曲がった瞬間、本当に福は来た。
「うわっ!」
「……っ!」
突然、飛び出してきた何者かとぶつかって、僕は転んで尻餅をついた。
「いたた……」
痛むお尻をさすりながら見上げると、目の前には……。
同じクラスで僕の気になる人――五十嵐 月子さんが、そこに立っていた。
「急いでいたんだ、すまない」
氷のように冷たい……いや、冷たいというか、水のように透き通ったような感じの声が辺りに静かに響く。
こんな近くで彼女を見るなんて初めてだし、声を掛けられたのも初めてだ。
驚きと嬉しさがゴチャゴチャになって、僕の思考がしばらく停止した。
数秒…いや、もしかしたら数分だろうか?しばらく尻餅をついた体勢で固まっていると、立ち上がらない僕を心配してか、五十嵐さんが僕に手を差し伸ばした。
「立てないのか?ほら」
そこで止まっていた僕の脳がやっと動き出し、
「い、いえ!立てますから!」
と、慌てたように言いながら自力で立ち上がった。
五十嵐さんと向き合うと、僕の方が背が低いので見上げる感じになる。
身長は175cmくらいかな、細身で色白なので雑誌の女性モデルみたいに見える。前髪は眉の所で切り揃えており、後ろ髪は背中に届くくらいの長さだ。
艶やかな黒い髪は太陽の光に反射して、キラキラ輝いている。
制服の薄い桃色の振袖と赤い袴がとてもよく似合っていて、綺麗でカッコいいと思った。
まじまじと五十嵐さんを見ていると本人はその視線に気付いたようで、
「何か付いているか?」
いつもの人形のような無表情さを保ったまま聞いてきた。同じクラスメイトなのに、僕は彼女のこの表情しか知らない。嬉しそうな顔や楽しそうな顔、悲しそうな顔などを見たことがないからだ。
そのせいか、何だか非常に近寄りがたいクールでミステリアスな重い雰囲気を
いつも醸し出している。その雰囲気に入学当時から僕は引かれているのかも知れない。
「な、何も付いてないです! すみません!」
まじまじと見ていた事に罪悪感を感じて、つい謝ってしまった。
本人はそのつもりはないと思いたい……けど、五十嵐さんのつり気味な目を見ていてると、もしかしたら僕が不愉快な思いをさせているんじゃないかとつい考えて、目を逸らしてしまう。
「……そうか。確か高橋だったな」
心臓がドクンと跳ねた。五十嵐さんが僕の名前を覚えててくれた事が嬉しかったのだ。
「ふぁ、ふぁい!」
緊張して変な返事をしてしまった。ええい、もっとしっかりしろ僕!
「怪我はないか?」
「な、ないれす!」
また変な返事をしてしまった。なんで僕はいつもこういう時に格好がつかないのだろう……。
「そうか、すまなかった」
そう言い頭を下げ、五十嵐さんは僕の横をスルリと通り過ぎ、両手で袴の裾を少し持ち上げて、全速力で走って行ってしまった。
走っていく五十嵐さんが見えなくなるまで、僕はその後ろ姿を見つめていた。
「夢じゃ……ないよな……」
無意識に呟く。
気になる人と話が出来た事が、酷く現実味がないように思えた。
もしかしたら夢なんじゃないかと思ったけど、ズキズキと傷む背中やジンジンと痛むお尻が、これは夢じゃないぜ兄ちゃん、と教えてくれているような気がした。