9 太平洋航路の再会
古書が天井まで積み上がった部屋の奥で、固形燃料の青い炎が湯を沸かしている。
滝川がネルの布越しに落とした軍用の濃い珈琲と、竹皮に包まれた煉羊羹が机に置かれた。英一郎は湯気の立つ厚手の洋盃を両手で包み、一気に喉へ流し込んだ。千草は差し出された羊羹を小刀で手際よく切り分け、無言で口に運ぶ。泥だらけの二人が人心地つくのを、滝川はパイプの煙をくゆらせながら淡々と眺めていた。
「……なるほどな。宗三郎の乱心に、東洋殖産興農社、それに山瀬の娘の裏切りか。染井堂も散々なことだ」
「他人事みたいに言ってくれるな、教官殿」
英一郎は空になった盃を机へ戻し、滝川を睨めつける。
「あんたが親父の研究に関わっていたのは知っている。俺が士官学校で上官を殴った時、放校処分で済んだ理由もな」
滝川は硝子眼鏡の奥の目をわずかに細め、静かにパイプを灰皿の縁へ置いた。
「お前が軍の規律に従えん不適合者なのは入学時から承知していた。だが、あの場で咄嗟に状況を判断し、敵の急所を無力化した腕と度胸はなかなかだった。参謀本部としても、軍服を着せて監獄で無駄飯を食わせるより、『首輪の見えぬ駒』として野に放っておく方が使い道があると判断した。そういうことだ」
「生薬の利権……軍需物資ですか」
千草がおずおずと口を挟んだ。
「……その通りだ、お嬢さん」
滝川の表情から、古本屋の主人の緩みが消えた。
「清国との戦以来、陸軍衛生部が恐れているのは銃弾ではない。兵を蝕む脚気と、凍てつく戦場で部隊を根こそぎ壊滅させていく肺炎や結核だ。激しい咳を鎮め気道を確保する去痰生薬――セネガの調達は、欧米列強の製薬資本に独占されている。再び戦になれば、奴らは供給を止めるだろう。すると冬の訪れと共に我が軍は肺を病んで継戦が困難になる。西ヶ原宗蔵の計画は、一民間企業の利権を超えた、陸軍の極秘兵站案件なのだ」
「だが、その親父の設備は敵の手に渡り、種子も苗もない。手詰まりだ」
「ならば、現地で掘り出してくるしかあるまい。……宗蔵が倒れた報が入った時から、こうなる予感はしていた」
「つまり、軍の使い捨ての特務工作員か。割に合わんです」
「その割に合わない仕事をこなさねば、お前たちは路傍で凍死するだけだ」
千草は手元の竹籠を抱え直して顔を上げた。
「行きます。土壌と苗の目利きは私がやります。山越えの荷運びと荒事は、英一郎さんが引き受けてください」
「……俺は千草の輜重兵か、まったく」
滝川は立ち上がり、奥の階段を指差した。
「二階の物置を使え。外務省の渡航旅券と船の切符は参謀本部で手配する。二日待て」
――二日後、横浜港・波止場の船待合所。
晩秋の冷たい潮風が吹き抜ける波止場の片隅で、滝川は外套の懐から封筒と、ずしりと重い木箱を英一郎に手渡した。
封筒の中には、外務省の菊の御紋が刻まれた二通の海外渡航旅券と、東洋汽船「亜米利加丸」のサンフランシスコ行き三等船車切符が入っていた。英一郎の偽名と、千草の「農科研修生」としての渡航名目が整えられている。
さらに小箱の蓋をずらして中を覗くと、防錆油の匂いとともに、九ミリ口径の二六式拳銃一丁と、実包が整然と詰まった紙箱が顔を覗かせた。
「米国の製薬トラストが囲い込んでいるセネガの野生原株を掘り出してこい。……手段は問わん」
英一郎は無言のまま、拳銃を外套の内ポケットへ滑り込ませた。
新港埠頭の桟橋では、三千トン級の定期船「亜米利加丸」の煙突から、低く重い汽笛が海へ向けて響き渡っていた。
石炭の煙と潮の匂いが立ち込める中、貧相な行李を抱えた三等船客の移民たちに混じり、二人が乗船タラップへ向かおうとした――その時であった。
頭上の一等船客専用の幅広なタラップから、規則正しく硬い革靴の足音が聞こえた。
見上げると、そこには白狐の襟巻をまとい、仕立ての良い洋装ドレスに身を包んだ山瀬芙美子が、人夫に荷物を運ばせて乗船しているところであった。
芙美子は雑踏の中に英一郎と千草の姿を認めると歩みを止めた。
「まあ……見覚えのある泥人形がいらっしゃること」
鈴を転がすような澄んだ声が、冷たい海風に乗って二人の耳朶を打った。その視線には嘲笑すらなく、ただ路傍の障害物を検分するような乾いた無機質さがあった。
「サンフランシスコまで二週間の船旅ですわ。……船底の悪い虫に集られぬよう、身を持ち崩さないことですわね」
「英一郎さん」
「なんだ」
「……あの女、気に入らないですね」
「同感だ」
石炭の煙と錆びた鉄の匂い、それに潮風が混ざり合った波止場に、再び重々しい汽笛が轟いた。
三等船客の乗り場へと続くタラップの前で対峙した三人の間を、冷たい海風が吹き抜ける。
山瀬芙美子は白狐の襟巻に細い指を沈め、値踏みするように英一郎を見据えた。
「まさか、あなた方と同じ船で太平洋を渡ることになるとは思いませんでしたわ」
「奇遇だな、山瀬の。てっきり巣鴨の地所を巻き上げて、祝杯でも挙げている頃かと思っていたが」
「祝杯なら、米国から原種を持ち帰った後にいくらでも挙げられます。――商会の上層部もそこまで無能ではありません。宗蔵様が遺したあの実験設備、装置と図面を押さえたところで、肝心の『生きた野生セネガの原株』と、それを土に馴染ませる『薬守の腕』がなければ、ただの鉄屑に過ぎないと気付いたのです」
「……だから、私を回収するために乗ってきたのですね」
千草が竹籠を抱えたまま声を挟んだ。
「その通りですわ、千草さん」
芙美子は平然と事実を並べ立てた。
「あなた方がどれほど小細工を弄したところで、米国の法制度も通関の実務も知らないし、大陸横断の切符の手配すらおぼつかない。いくら船の旅券を持っていようと、サンフランシスコの税関で拘束されるか、アパラチアの山中で野盗かトラストの私設警備員に撃ち殺されるのが関の山です」
「……」
「わたくしが商会の金で通訳と為替、鉄道の手筈を整えて差し上げます。その代わり、原種を掘り当てた暁には、それをそっくり商会へ引き渡していただくわ」
「……虫のいい」
「現地に着くまで俺たちを手足として使い倒し、苗を掘り出した後ろから消す気か」
「お互い様ではありませんこと?」
芙美子は冷ややかな眼差しで英一郎を見下ろす。
「あなた方も、わたくしの財布と信用を利用し尽くし、隙を見て原種を奪って逃げるおつもりでしょう。……百日後の競売期日までに二十万円を用意できなければ染井堂は消滅します。どちらが相手の首根っこを押さえて出し抜くか、これはそういう話ですわ」
信義も情実も欠片もない、損得勘定による「一時休戦」であった。
「結構だ。利用できるものなら何でも利用してやる。……特等船室のご令嬢、三等の吹き溜まりにいる俺たちに、まともな食い物と寝具の融通くらいは利かせるんだろ。請求は全部お前の部屋番へ回す」
「図々しい男。……それなら、このトランクを船室まで運んでいただきましょうか。運搬賃くらいは働きなさいな」
芙美子が顎で示したのは、真鍮の金具で補強された、大人二人がかりでも持ち上がらぬ巨大な革製トランクであった。
「人夫賃は別料金だ。労働力を安売りする趣味はない」
「……浅ましい商人根性ですこと」
「褒め言葉として受け取っておく」
二人の応酬を余所に、千草は男と女の舌戦など最初から視界に留めていなかった。
千草は木箱の上に腰掛け、膝の上に広げた更紙に、鉛筆で細密な図面を走らせていた。通気孔の径、内側に敷き詰める水苔の湿度、木炭の粉末による防腐層――アパラチアで掘り出した野生株を、生きたまま太平洋を越えて巣鴨へ持ち帰るための「生体輸送箱」の構造図である。
「千草、何を描いている」
英一郎が声をかけると、少女は淡々と答えた。
「仮に野生株を掘り当てたところで、湿度調整と換気が出来なければ、船底の熱気で腐敗してしまうでしょう。無防備な野生株では二週間の航海には耐えられません。お二人の足の引っ張り合いを聞いていても事態は改善しないのです」
「……」
「そんなことより、船内の渡航者から、銅板と目の細かい真鍮網を調達してきてください」
「……そんなものを、移民が持っていると思うか」
「三等の船底には、炭鉱夫や板金工の出稼ぎが大勢乗り込むはずです。道具箱を漁ればきっとあります」
空を圧するような、三度目の長い汽笛が鳴り響いた。
亜米利加丸の太い係留索が次々と解かれ、黒く巨大な鋼鉄の船体が、鈍い水音を立てて横浜の桟橋を離れていく。
冬枯れの陸地が遠ざかり、見渡す限りの鉛色の太平洋が広がっていく。
特等船室の豪奢なデッキで毛皮を纏う芙美子と、船底の澱んだ暗がりで拳銃を抱く元士官候補生、そして輸送箱の寸法を計算し続ける十六歳の薬守――。三人三様の二週間の航海が始まった。




