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8 無一文の二人

 硬い革底の足音が庭の敷石を踏み鳴らしている。

 薄暮の庭先から土蔵へ踏み込んできたのは、黒羅紗の洋服に身を包んだ「東洋殖産興農社」の重役たちと、黒染めの紋付羽織袴に身を固め、真鍮の記章を胸に佩(お)びた男たちであった。先頭に立つ男の手には、東京地方裁判所の公印が押された決定書の束が握られている。

「東京地方裁判所所属の執達吏である。債権者・東洋殖産興農社の申立てに基づき、西ヶ原宗蔵殿の遺産ならびに染井堂の一切の財産に対し、不動産・動産の仮差押えを執行する」

 執達吏による宣告が蔵の中に響き渡った。

 指図を受け、書記たちが手際よく動いていく。墨汁の匂いも生々しい半紙――「仮差押公示票」を取り出すと、土蔵の扉、大金庫の鉄蓋、奥の煉瓦小屋の錠前に至るまで、糊と釘を用いて次々と打ち付けていった。紙片の真ん中には、太々しい筆跡で『封印』の二文字が朱で書かれている。

「……手回しが良いな。親父が息絶えるのを、外で時計片手に待っていたわけか」

 英一郎は壁に背を預け、視線を投げた。

 その視線の先で、芙美子が矢絣の袂を直し、小さく顎を引いてみせた。

「手回しが良いのは当然ですわ。わたくしは一年半の間、このために屋敷へ通わせていただいておりましたもの」

 芙美子の声音には、トヨの前で見せていた楚々とした面影など欠片もなかった。

 没落士族の娘という出自そのものは真実であったが、彼女はすでに数年前から、米系の製薬企業から資金を預かった東洋殖産興農社の利権を広げる一員として動いていたのである。

「宗蔵様は優れた研究者でしたけれど、商売には無頓着な方でした。舶来の減圧釜、滝野川の暗渠工事費、独逸から取り寄せた共生菌の船賃……すべてわたくしの手配した融資証書に、疑いもせず実印を捺してお支払いくださいましたわ。おかげで小屋の帳簿も、特許の出願書類の控も、すべて滞りなく商会へ納めさせていただきました」

「……大旦那様を騙していたのね」

 千草が昏睡するトヨの傍らに膝をついたまま、低く据わった声で芙美子を責めた。

「騙すだなんて心外ですわ、千草さん」

 芙美子は平然と言い放った。

「わたくし共は合法的に資金を融資し、宗蔵様はそれをお使いになった。――百日後の返済期日までに元利金合計二十万円を一括で弁済できなければ、この屋敷も、設備の数々も、特許の権利も、すべて裁判所の手で競売に付されます。無論、落札するのは私共ですけれど。……それから英一郎さん。事情がこうなりました以上、先代同士の口約束であった婚約も、正式に破棄とさせていただきますわ」

 二十万円――年商四万円を誇る染井堂といえども、その純利益の三十年分を優に超える数字であった。一介の種問屋が逆立ちしても購えるはずのない、事実上の接収通告である。

「さあ、立ち退きを」

 執達吏が容赦なく手を差し伸べた。

「公示票が貼られた以上、本物件内への立ち入りは法律により禁じられる。手回り品以外の持ち出しは一切認められん。速やかに退去されたい」

 昏睡したトヨは、親族が手配した人力車で近くの施療院へと運び出されていった。

 そして――。

 表の黒漆塗りの大門に最後の一枚の公示票が打ち付けられ、重々しい閂の音が響いた。

 英一郎と千草は、着の身着のままで巣鴨庚申塚の薄暗い街道へ放り出されていた。

 晩秋の夜風が、埃っぽい街道を吹き抜けていく。千草の手元に残されたのは、肌身離さず抱えていた竹籠――僅かな種子と、宗蔵が遺したあの暗号めいた植物図譜のメモの写しだけであった。

「……無一文だな。二十万は染井堂の利益の三十年分だ。とても百日で購える額じゃない」

 英一郎は薄汚れた外套のポケットに手を突っ込み、暗い夜空を見上げて乾いた息を吐いた。

「軍を叩き出され、実家を追い出され、最後は親父の借金のカタに街道に放り出されるのか。語呂だけは良いじゃないか。……笑えない人生だ」

「英一郎さん」

 千草は寒風に乱れる髪を手で押さえ、隣に立つ英一郎を見上げた。声音に揺らぎはなかった。

「大旦那様の残したセネガの栽培技術は……本物です。東洋殖産興農社は実験設備と紙の図面を差し押さえましたが、栽培の土を調合し、苗を芽吹かせる腕までは奪えません。士族崩れにわか高利貸しに育てられるはずがないわ」

「……」

「まだ百日あります。もし巣鴨の土地が奪われたのなら、別の土地で芽吹かせればいい。……取り返しますよ、英一郎さん」

 十六歳の少女の、一片の感傷も交えぬ言葉に、英一郎は靴底でゆっくりと地面を踏み締めた。

「……無謀だが、土足で踏み荒らされたまま引き下がるのも虫が好かん。百日だな」 

 英一郎の瞳の奥に闘争の火が静かに灯り始めた。しかし、外套の懐を探って出てきたのは、わずか十二銭の銅貨と、湿気た吸い殻同然の煙草が二本。

 祖母のトヨは、親族のつてで小石川の養育院へ担ぎ込まれた。生き残った親族たちも既に散り散りに逃げ去り、巣鴨庚申塚の暗がりには、締め出された二人の影が落ちるばかりだ。

「千草。お前の実家は近くだったな。今夜はそこに転がり込ませろ」

 英一郎が寒風に肩を竦めて言うと、竹籠を抱えた千草は半歩下がり、首を横に振った。

「お断りします。うちの狭い長屋に穀潰しを養う余裕はありません。それに、いま親に『店が差し押さえられて無一文になった』などと知らせれば、心労で倒れます」

「薄情だな。元坊ちゃんを道端で野垂れ死にさせる気か」

「凍える前に、その頭で次を考えてください」

 行く当ては一つしかなかった。神保町の裏通り、元上官・滝川が営む古書店「萬葉堂」である。

 だが、巣鴨庚申塚から神保町までは優に一里半(約六キロメートル)の道のりがあった。

 明治三十三年の東京において、路面電車なる文明の利器はまだ影も形もない。馬車鉄道が新橋や上野の幹線を細々と走るのみであり、目の前の白山通りを行き交うのは、夜の闇に提灯を揺らす辻馬車や客待ちの人力車であった。

 二人にはその車代を払う小銭もない。空腹を抱えたまま、霜の降り始めた泥道をただ自らの足で歩き通すほかに道は残されていなかった。

 白山坂を下り、小石川の暗渠沿いを南へ下る。

 湿った夜風が外套の綻びから体温を奪っていく中、英一郎は泥に足を取られながら、頭の中で損得の勘定を繰り返していた。

「……百日で二十万円だ。普通に生薬を栽培して問屋へ卸したところで、一反あたりの上がりなんざ精々数十円にしかならん。土を耕して収穫を待つような真っ当な手前じゃ、百年かかっても届かん数字だな」

「ええ、種から育てるなら、収穫までに最低でも三年はかかります」

 千草は息を乱すこともなく、淡々とした歩調を崩さずに言った。

「大旦那様が残した仕掛けは、種を撒いて待つ温室ではありませんでした。すでに育った『生きた成株』を移植して、地下水と共生菌で根を肥大させて増産する目論見です」

「移植か。……だが、その成株は国内には一本もない」

「東洋殖産興農社が抱え込んでいる苗も、恐らく、宗三郎と同じく横浜の商館から手に入れた軟弱な温室育ちです。この地に根付けて、あの設備で増産出来るのは、北米のアパラチア山脈、その断崖に自生する、風雪に耐えた野生の原種だけでしょう」

 英一郎は薄汚れた襟を立て、喉の奥で乾いた息を鳴らした。

「……つまり、こういうことか。百日以内にアパラチア山脈の奥地へ潜り込み、現地を牛耳る米国の製薬トラストの目を盗んで、生きたセネガの原株を強奪して持ち帰る。それを巣鴨の設備で育て、純度の高い去痰薬を精製し、陸軍省医務局や帝国大学へ試薬を持ち込んで巨額の前受金を引く。……その金で仮差押えを解除させる以外、詰んだ盤を引っくり返す手はないというわけだ」

「ご明察です。士官学校に入学された頭が、回ってきましたね」

「言うのは簡単だがな。事実上の密航と敵地での略奪だ」

「指を咥えて待っていれば、百日後には揃って野垂れ死にですよ」

 千草の返答には一片の迷いもなかった。

 二時間余りの夜道の果てに、二人は神保町の裏通りへ辿り着いた。

 冷たい夜露と跳ね上がった泥に塗れ、靴底の革をすり減らした英一郎は、萬葉堂の格子戸に手をかけ、遠慮なく押し開いた。

 深夜の古書店に、真鍮の呼び鈴が乾いた音を立てる。

 立ち込める古書の黴の匂いと珈琲の残り香の中、奥の帳机で筆を執っていた滝川が、眼鏡の奥から眉を寄せて顔を上げた。

「……夜分に泥人形の闖入とは、風流にも程があるな」

「教官殿、厄介になりに来ました」

 英一郎は泥のついた靴のまま上がり框へ腰を下ろし、懐の銅貨十二銭を机へ放り出した。

「一里半歩いて、胃袋が背中に張り付いています。……ひとまず、軍用珈琲と羊羹の残りを恵んでください」

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