10 最初の襲撃
亜米利加丸の水線下、三等船室の空気は、人間が吸うものとは思えぬ代物であった。
三段に組まれた鉄パイプの寝台が隙間なく並び、吐瀉物と安煙草、何日も身体を洗わぬ皮膚の脂が、重油の焦げた匂いと混ざり合って澱んでいる。太平洋の大うねりに船体がきしむたび、あちこちから呻きと胃液を吐く音が漏れた。
千草はその吹き溜まりの隅で、船酔いひとつ見せずに指先を動かしていた。
膝の上には、持ち込んだブリキの茶筒と木炭。
傍らには、カリフォルニアの農場へ渡るという初老の鍛冶職人が、手持ちの小型鑢と半田ごてを手にしゃがみ込んでいる。千草が細かく寸法を言い、真鍮の網を丸く切り抜かせては、缶の底へ鑞付けさせていた。
「お嬢ちゃん、通気の隙間はきっちり一厘(約〇・三ミリ)に揃えたぜ」
「ありがとうございます。……外からの飛沫は弾いて、湿気だけ逃がせます。これで木炭粉を挟めば、腐りません」
千草は職人に頭を下げ、二重底の筒を手際よく組んでいく。
一方、英一郎はといえば、船底の悪臭に付き合う気など端からなく、船尾甲板の薄暗がりにいた。
夜の船尾には、白人の目を盗んで清国人の水夫たちが開いた怪しげな屋台が並んでいる。油で揚げた怪しげな麺や、雑酒の素焼き壺。巨大な通風筒の陰へ回れば、甘酸っぱい煙をくゆらせる阿片窟の筵が敷かれていた。
その一角、油じみた木箱を囲んで、英一郎は白人の水夫たちとダイスを転がしていた。
「……おいおい。カモるなら、もう少し手際よくやりな」
英一郎は木箱の上へ、革のカップを伏せた。
現れたのは三つの「六」。
水夫たちが悪態をつくなか、英一郎は相手の胸元を手で軽く払った。
「銀貨二枚だ。さっさと出しな」
酒の回った水夫の手首の癖を拾い、振る直前の視線の泳ぎに山を張った。士官学校には馴染めずとも、こうした路地裏の駆け引きで、英一郎の目は無駄に肥えていた。
巻き上げた銀貨を弾いて、屋台の親父から熱い豚肉の汁麺を二杯買った。寝床へ戻ろうとしたところで、潮風のなかから上等な薔薇の香水が漂ってきた。
黒い毛皮のケープを羽織った芙美子が、一等客区画のサロンから抜け出してきていた。
「……こんなところで、小銭稼ぎですの」
「一等の令嬢が何の用だ。身ぐるみ剥がされるぞ」
「あなたがたが船酔いで死んでいないか、確かめに来ました。アパラチアの山中で案内役がいなくなっては困りますもの」
「千草は職人を手なずけて細工中だし、俺は食い物の調達だ。心配するな」
英一郎は銀貨を鳴らし、湯気を立てる丼を持ち上げた。
「……呑気なことで」
芙美子は暗い海へ目をやった。
「サンフランシスコまではあと十日。港には現地の製薬会社の私設探偵が待ち構えています。……せいぜい、首を洗っておくことですわね」
「忠告どうも。……麺が冷める。じゃあな」
英一郎は振り返りもせず、船底の暗がりへと降りていった。
七日後の深夜、人目を避けて呼び出された英一郎と千草の前に、冷めたローストビーフの残りが置かれている。
一等客区画の小サロンには毛足の深い絨毯が敷かれ、真鍮のランプが柔らかな陰を落としていた。千草は銀のフォークを取り、牛肉を口へ運んだ。英一郎は硝子盃の葡萄酒を喉へ流し込む。
「……三等の豚小屋では、残り物でもご馳走に見えるようですわね」
安楽椅子に腰を沈めた芙美子が、ホルダーの煙草をくゆらせながら言った。
「一週間ぶりに呼び出しておいて、無駄口が多いな。……で、何の用だ」
芙美子は卓上に一通の英文書簡を出し、指で英一郎の方に滑り押した。「Parke, Davis & Co.(パーク・デイビス社)」の社名と刻印がある。
「デトロイトの製薬会社、パーク・デイビス社ですわ。全米の生薬市場を握る大資本よ。東洋殖産興農社は、彼らと裏で手を結んでいるの。宗蔵様から奪った特許の写しと設計図は、すでに横浜からデトロイトへ送られているわ」
「日本の薬草市場を丸ごと手に入れる段取りか」
「ええ。ですが、連中も壁にぶつかっているのよ。セネガの根の成分はひどく酸化しやすく、気候の違う土地へ移すと薬効がすぐに抜けてしまう。宗蔵様の日誌にある設備だけでは、どうしても成分の安定化が図れないの」
肉を噛んでいた千草が、顔を上げた。
「……だから、大旦那様のメモを探しているのですね」
千草は懐から、宗蔵の手帳の写しを取り出した。
「大旦那様は、北米の先住民が使う薬樹について書き残しています。アパラチア山脈の断崖に生えるバルサムポプラの古木――『ギレアドのバルサム』です」
「ギレアドの樹脂……」
「はい。その樹液の成分が、セネガの酸化を食い止める覆いになると書かれていました」
芙美子の目が細くなる。
「……宗蔵様はセネガの原株だけでなく、その木の樹脂を混ぜて抽出することで、薬を完成させようとしていたのね」
「そういうことだ」
英一郎は空の盃を置いた。
「アパラチアの奥地でセネガの原株とギレアドの樹脂、その両方を掘り出した奴だけが、この利権を握る。そして、パーク・デイビス社も東洋殖産興農社も、まだ自生地を特定できていない」
芙美子は煙草を指先で弄びながら、英一郎を見た。
「……ねえ、英一郎さん。港に着いた後、わたくしが探偵社にあなた方を売り渡さない保証はあると思う?」
「信じちゃいないさ」
英一郎は外套のポケットに手を突っ込んだ。
「だから、お前の金と情報を使い倒す。先に現物を押さえて、お前たちに突きつけてやるのさ。……お前も、手ぶらで戻れば商会に切られる立場だろう」
「……」
「後がないのはお互い様だ」
芙美子は唇を引き結び、部屋の扉を示した。
「……もうお下がりになって。三等の匂いが部屋に移りますわ」
部屋を出た二人は甲板を渡り、湿った船底へと降りていった。
千草が道具を預けていた最下層の貨物区画へ足を踏み入れた時、英一郎の足が止まった。
薄暗い通路の先。
ランタンの頼りない灯りの下で、船員が千草の木箱の前に屈み込み、針金で鍵をこじ開けようとしていた。
「……千草、壁に寄ってろ」
英一郎は身を低くし、外套の内ポケットへ手を滑らせた。冷えた二六式拳銃の鉄の感触。親指で、重い撃鉄を静かに押し下げた。
千草の木箱をこじ開けていた大男の船員は、背後の気配に気付いて振り返り、手にした錆びたバールを振り上げた。左手には、千草の真鍮缶と日誌の写しが握られている。
「……海の底へ放り込んでやる」
男が英語で罵り、道具を排水溝へ投げ捨てようと腕を振りかぶった。
「――手を離せ」
英一郎は傾く床板を滑るように間合いを詰めた。
振り下ろされた鉄棒を半身で躱し、男の手首を巻き込むように捩じり上げると、濡れた鉄壁へ男の頭を力任せに打ちつけた。骨と鉄板の鈍い衝突音が響く。
「ぐああっ!?」
「離せ。頭蓋骨を割るぞ」
英一郎は抜き放った二六式拳銃のグリップの角を、男の耳の後ろへ叩き込んだ。
だが、安酒と油で肥え太った巨漢は倒れず、額から血を流しながら、丸太のような腕で英一郎の喉首を締め上げにかかった。
「英一郎さん、目を閉じて!」
千草の声がした。少女は竹筒の栓を前歯で噛み抜いていた。
筒の先から、擂り潰した辛夷と唐胡麻、乾燥芥子の微粉末が吹き飛ぶ。粉塵が、大男の目と鼻腔へ吸い込まれた。
「があああっ! 痛いッ!!」
激痛に男の腕から力が抜け、床板をのたうち回りながら自らの顔面を掻きむしった。
英一郎は壁に背を預けて荒い息を吐き、足元で悶絶する男の首筋を靴底で強く踏みつけた。男は呻き声を漏らし、やがて動かなくなった。
「……千草、手際がいいな」
千草は倒れた男には目もくれず、床に転がったブリキ缶を拾い上げ、前掛けで水滴を拭っていた。
「……海水が入れば木炭が駄目になります。英一郎さんこそ、暴れて缶の角を凹ませないでください」
「……首を絞められて凹みそうになったのは俺の方だぞ」
英一郎は息を漏らし、男の上着のポケットを探った。濡れた紙片が滑り落ちる。
拾い上げてランタンにかざすと、粗い網点写真とともに二人の人相書き、そして『ウィルソン探偵社』の見開かれた眼の紋章が刷り込まれていた。ストライキ破りや工場の実力占拠を請け負う、全米規模の私設暴力組織の印である。
「……パーク・デイビス社の手先だな。接岸する前に俺たちを押さえる手筈だったようだ」
「……芙美子さんの差し金でしょうか」
「あいつは原株の場所を特定させるまでは生かして使う算段だ。パーク・デイビス社が直接網を張ったんだろう。商会も芙美子も、あちらの大資本にとっては使い捨ての小間使いに過ぎんということだ」
英一郎は紙片を握り潰した。
「手筈が狂った以上、上陸と同時に荒事になる。……千草、今の目潰しの粉、あと幾つある」
「材料さえあれば、何本でも作れます」
「……頼もしいことだ。港に着いたら、一暴れする羽目になりそうだな」
千草は転がった男の血を真鍮缶に付着していないかを確認し、布で拭いていたが、ふと英一郎の拳に視線を留めた。握り拳の関節が赤く擦り剥け、鉄粉の混じった脂が滲んでいる。
「……英一郎さん、手を出してください」
「ん? 手がどうした」
「鉄の錆と人間の雑菌が入れば化膿します。雑嚢にキハダの粉末がありますから、それを練って塗ります」
千草は手早く小瓶から粉を出し、傷口に擦り込んだ。無愛想で、道具の油を差すような手際である。
「千草。俺を壊れた荷車か何かだと思ってないか」
「私は、貴方に運んでもらわなければ、アパラチアで苗を探せません。……無駄に損耗して壊れたりしないでください」
そう言いながらも、千草の結ぶ布の結び目は、道具を縛る時よりもわずかに緩く、英一郎の指の血流を妨げないように配慮されていた。




