11 サンフランシスコの調達
嵐は凪ぎ、冷え切った朝の海面を乳白色の霧が這っていた。
甲板に立つと、潮の匂いと共に、石炭の煤煙、挽肉を焼く油、乾いた土埃が混ざった、東京とは似ても似つかぬ異国の空気が流れてくる。
霧の切れ間から、赤茶けた断崖と、急峻な丘陵にへばりつく木造洋館の群れが姿を現した。
船首の欄干に、三人が並んでいた。
黒羅紗のマントを羽織った芙美子。薄汚れた外套の襟を立てた英一郎。背嚢を背負った千草。
「……坂ばかりの街だな。逃げ回るには骨が折れそうだ」
英一郎は吐き捨て、外套のポケットで二六式拳銃のシリンダーを確かめた。実包が六発。予備弾は紙箱に十八発。
「悠長に構えていられるのは接岸までですわ」
芙美子は金時計の蓋を弾いた。
「船底の雇い主、ウィルソン探偵社は税関に網を張っています。あなた方が足を踏み入れれば、言いがかりをつけられて刑務所送りですわ」
「お前の差し金ではないのか」
英一郎が横目で見ると、芙美子は視線を逸らさずに返した。
「あんな品のない手勢、私共の手配ではありません。パーク・デイビス社が独自に動いたのでしょう。わたくしもすでに『用済み』と見なされている証拠ですわ。……食い物にされて引き下がる気など毛頭ありませんけれど」
「飼い犬が手を噛むわけか」
「……飼われてなどいません。――連中を出し抜きます。商会の信用を使って、銀行からドルを引き出せるよう手配を回しました。チャイナタウンの馬車宿に、幌馬車一台とライフル三挺、ラバ二頭を押さえてあります」
「手回しだけは確かだな」
「ええ。ですが、港を抜けてそこまで辿り着くのは、あなた方の足と腕力次第ですわ」
芙美子は千草へ視線を落とした。
千草は装備を点検していた。腰には船底の職人から買い取った短包丁。背嚢には真鍮の二重底缶が二基。袂には催涙粉末の竹筒が四本。
「千草、仕度はいいか」
「船内で揃えられるものは揃えました。アパラチアへ入る前に、手鋤を買い足す必要があります。それから、芙美子さん」
「何です」
「馬車の手配金、出し惜しみしないでくださいね。車軸の折れるような安物を宛がわれたら、そのケチった金で私たちが全滅します」
「……帳簿を知らぬ娘に指図される筋合いはありませんが、承知しておきますわ」
ボオォォォ――。
霧笛とともに鐘が鳴り、船が巨大な木造の桟橋へ滑り込む。
桟橋には、焦茶色の山高帽を目深に被り、フロックコートの懐に手を突っ込んだ男たちが何人も立っていた。胸元には「見開かれた眼」の真鍮バッジが鈍く光っている。
「……出迎えは十分だな」
英一郎は煙草を海へ弾き落とした。
「千草、離れるなよ」
「言われずとも。盾になってもらわねば困ります」
埠頭に降り立った三人の足元を、石炭の煙、馬糞の酸っぱい臭気、チャイナタウンから漂う生姜と大蒜の匂い通り抜けていく。
下船ゲートの周囲では、荷車を引く苦力やアイルランド系の沖仲仕たちが荷を奪い合っていた。
「千草、籠を前に抱え込んでおけ。すれ違いざまに掻っ攫う手合いがいる」
英一郎は千草を背後に庇った。千草は木箱を引き寄せ、周囲を見回す。
「……来ていますね。穀物倉庫の陰、それから客待ちの人力車の溜まり場」
「ああ。港湾労働者の目つきなんかじゃないな」
キャスケットを目深に被り、上着の膨らんだ胸元に手を差し入れた男たちが三人を見据えていた。探偵社が日当で雇ったゴロツキである。
「お待たせしました」
背後から芙美子が追いついてきた。
「手荷物検査を出たところで取り押さえられる手筈ですわ。――馬車は三番倉庫の裏手です。走れますわね、千草さん」
「大奥様の荷物を担いで巣鴨から日本橋まで歩いた足です。問題ありません」
「よし、行くぞ」
合図とともに、三人は人混みの間を駆け出した。
倉庫の陰から男たちが飛び出し、英語で怒鳴りながら追ってくる。
「止まりやがれ、黄色い猿ども!」
英一郎は路肩に積まれていた鰊の塩漬け樽の留め木を、すれ違いざまに蹴り飛ばした。崩れ落ちた重い木樽が追手の足を払い、派手な転倒音が響く。
波止場を抜け、倉庫の裏を駆け抜けると、そこはサンフランシスコのチャイナタウンであった。
路地裏の馬車宿の前に、二頭立ての黒塗りの幌馬車が待機していた。御者台には清国人の古老が無言で腰掛けている。
「飛び乗りなさい!」
芙美子の声と同時に、英一郎が千草を幌の奥へ押し込み、自身も飛び乗った。
古老が鞭を振るう。馬車は追手の怒号を置き去りにして、急坂を駆け上がっていった。
英一郎は荒い息を整え、幌の隙間から外を覗いた。
「……撒いたな。だが駅には電信が回る。山瀬、丸腰のまま大陸横断は無理だぞ」
「ええ、わかっています」
芙美子は座席の下の木箱を開けた。銀行で引き出したばかりの合衆国紙幣と、金貨の詰まった布袋が入っている。
「すぐ先のモンゴメリー街に、古参の輜重兵だった男が営む銃砲店がありますわ。そこで必要な火力を調達なさい。千草さんも、そこで植物採集に必要な道具を揃えなさい。……ただし」
芙美子は手帳を取り出し、二人を見据えた。
「一セントの無駄遣いも認めません。すべて東洋殖産興農社の債務として記録します。後で利息をつけて請求しますからね」
「命があっての請求書だ。せいぜい大事に抱えていろ」
馬車が銃砲店の軒先に止まるや、英一郎は飛び降りた。
店内は硝煙と機械油の匂いが充満し、壁一面にライフル、硝子ケースには無骨な回転式拳銃が並んでいた。
髭面の店主が怪訝な顔を向けると、英一郎は短く英語で要求のみを告げる。
「コルト・シングルアクション・アーミー。四十五口径、五インチ半銃身。それと実包を三箱。急げ」
店主は客の眼配りを見て取ると、カウンターの下から油紙に包まれた重い銃身を出してきた。
鈍い光を放つ鉄の塊――コルトSAA。
英一郎はシリンダーを回し、噛み合わせを確かめた。日本から持ってきた二六式拳銃は機構が華奢で、こちらの粗悪な弾薬には合わない。荒野で使うなら、この頑丈な鉄の塊に限る。
「千草、必要なものはあったか」
振り返ると、千草は店の隅で、肉厚のボウイナイフと帆布の麻袋、小型の手鋤を検分していた。
「これと、これです。このナイフの峰の厚みなら、石灰岩に食い込んだセネガの直根を傷つけずに掘り出せます。それから、油紙と生石灰を一袋」
「よし、包ませろ。おい親父、このウィンチェスターライフルと弾も一箱追加だ。それと煙草と干し肉を馬車へ」
カウンターに積み上げられる火器と資材。
馬車から降りてきた芙美子が、金額を聞いて眉をひそめた。
「……百七十八ドル四十セントですって? 小隊でも編制するおつもりですの」
「弾をケチる奴から死ぬ。払え」
「芙美子さん。この麻袋の厚みがなければ、汽車の煤煙でセネガの菌が死にます。必要な経費です」
「……嗜好品の煙草まで経費とおっしゃるの」
「行軍中の消耗品だ」
「……」
芙美子は唇を引き結んだまま金貨を店主の前のカウンターに叩きつけると、手帳に硬い筆跡で書き留めた。
『英一郎:銃器弾薬および行軍消耗品百二十ドル』
『千草:採集機材および雑費五十八ドル四十セント』。
「参りましょう。ここからは実力行使ですわ」
タラップが鈍い音を立てて桟橋へ下ろされた。




