12 サザン・パシフィック線の夜
オークランドの駅裏は、機関車が吐き出す石炭の灰と、湿った熱気で薄汚れていた。
サザン・パシフィック線の特急「オーバーランド・リミテッド」の重たい鉄輪がきしむ合間を縫い、三人は最後尾に近い一等寝台車のタラップを上がった。
芙美子が手配した一等個室は、磨かれたマホガニーの壁にビロード張りの腰掛け、真鍮の読書灯が光る贅沢な造りであった。新大陸の成金どもが長旅の退屈を紛らわせるための部屋である。
だが、内側から扉の掛け金を下ろした三人に、その贅沢を味わうような気楽さはなかった。
「……ひとまず、波止場の追手は撒きましたわね」
芙美子は細い手袋を外し、腰掛けへ深く身を沈めた。
「気を抜くなよ」
英一郎はくたくたの外套を脱ぎ、革のガンベルトを腰に巻いた。太腿の紐を結び、四十五口径弾を穴へ一発ずつ滑り込ませていく。カチリ、カチリと乾いた音が規則正しく続く。
「相手は巨大な製薬会社だ。駅の電信網を使えば、この汽車がどこを通るかなど筒抜けだ。必ず途中の駅で乗り込んでくる」
「……次の仕度を急ぎますね」
千草は毛足の長い絨毯の上に直接胡坐をかき、買い込んできた麻袋を小刀で裂いて、何やら内袋を縫い合わせていた。
「千草さん、絨毯の上に麻の屑を散らかさないでくださる?」
「芙美子さん、その窮屈なコルセットと高い踵の靴を脱ぐべきです。山を登るなら足首を挫きますよ」
「……誰の金でこの個室に乗れていると思っているのですか」
「大旦那様を嵌めて奪い取った、商会の資金です」
「……」
芙美子は言葉を呑み、膝の上の手帳をそっと握り直した。
英一郎はカーテンの端を少しめくり、窓の外を眺めた。
汽車は速度を上げ、内陸の荒野へと疾走している。果樹園の連なりが途切れ、背の低い潅木ばかりの平原へ。夕暮れの空が機関車の煙に黒く塗り潰され、やがて夜の闇が大地を呑み込んだ。
夜の十時を回る頃、千草は座席の隅で仕立てた麻袋を抱え、浅い寝息を立てていた。向かいの座席では芙美子も目を閉じている。
読書灯を消した暗闇のなかで、英一郎だけが起きていた。
ゴトン、ゴトンと規則正しくレールを刻む音のなかに、次第に不規則な音が混じる。
ギシ、ミシ……。
頭上である。時速四十マイルで走る客車の屋根の上を、靴底が踏みしめる音が前から近づいてくる。二人、あるいは三人。風の吹き荒れる屋根を渡って客車へ近づく足取りは、夜盗まがいの襲撃に慣れた手勢の歩みであった。
英一郎は音を立てずに立ち上がり、千草の肩に手を置いて起こし、芙美子の口元へ指をあてた。
「……んっ」
「声を出すな。……屋根の上からだ」
千草は目を開けるなり、腰の短包丁の柄に指をかけた。芙美子も小さく頷き、ハンドバッグから小型の二連発デリンジャーを取り出す。
頭上の軋みが真上で止まり、続いて連結器のデッキへ降り立つ重い音がした。
換気ガラリから、冷たい隙間風とともに、安葉巻と火薬の饐えた匂いが流れ込んでくる。
英一郎は親指でコルトの撃鉄を静かに引き絞り、扉の高さへ銃口を据えた。
通路を踏む靴音が、個室の前で止まった。
針金で鍵穴を探る、かすかな擦れ音。カチリ。そして扉が内側へ開けられた。
分厚いコートを着た大男が、銃身を切り詰めたウィンチェスターを構えて踏み込んでくる。
英一郎は床を蹴った。
狭い部屋のなかで長い銃身を構えるのは、間抜けの所業である。突き出された銃身を左手で上へ払い、コルトの銃口を男の鎖骨へ押しあてた。
引き金を絞る。狭い個室で火薬が破裂し、重い鉛弾が厚いコートを突き抜けた。男は肺の空気を吐き出し、そのまま後ろの通路へ転がり落ちる。
通路の奥から怒号が飛んだ。
「伏せろ! 撃ち返せ!」
散弾銃の音が重なり、個室の薄い木壁を外から撃ち抜いた。砕けた木片と内装の綿が飛び散る。
英一郎は床へ身を伏せ、壊れた引き戸の陰に縮こまった。
「……まだ三人残っているな。通路が狭くて長物を持て余している」
廊下の白煙の向こう、給仕室の角から銃口を出そうとした男の腕を、壁越しに撃った。木屑が裂け、ライフルが床に落ちる。
だが、残る二人が身を隠したまま、交互に散弾を撃ち込んできた。コルトの残弾は三発。頭を出せば蜂の巣である。
「英一郎さん、頭を低くして」
背後から千草の声がした。
座席の陰に片膝をついた千草の手元には、油紙と乳鉢がある。乳鉢の中には、ハバネロの粉末と芥子油、道具洗いの木酢液を練り合わせた黒褐色の泥が入っていた。
千草は手袋越しにそれをすくい、壁の通風口へ塗りつけた。
「何をしている」
「煙は後ろへ流れます。口を布で覆って伏せてください」
千草がマッチを擦り、泥に火をつけた。
油がじくじくと泡立ち、青い煙がダクトへ吸い込まれていく。
言い終える間もなく、通路の排気口から猛烈な刺激臭の煙が噴き出した。
「ゴホッ……! な、何だこれは――ッ!?」
「目が、喉が焼ける!!」
銃声が止んだ。喉と目を掻きむしり、床を転げ回る音が響く。煙を吸い込んだ男たちは激しく咳き込み、床に胃液を吐き散らした。
英一郎は濡らした手巾を噛み、低い姿勢で通路へ出た。
もがき苦しむ男の手首を踏んで拳銃を遠くへ蹴り、頭部を靴底で小突いて動けなくする。
「……こんな手は軍でも使わないぞ」
「天然由来の刺激物です。粘膜が腫れるので、半日は使い物になりません」
千草はさっさと乳鉢を風呂敷に包み直した。
だが、後方の二等客車へ通じる引き戸の向こうから、別の足音が近づいてくる。二人、あるいは三人。
「まだ来るか」
英一郎はロッドで空薬莢を押し出し、実包を込め直した。
壊れた個室から、外套の襟を直した芙美子が出てきた。
「英一郎さん、千草さん。こんな狭いところで撃ち合ってもきりがありませんわ」
芙美子は床に倒れて胃液を吐く男たちを見下ろした。
「――荷物をまとめてください。汽車を止めます」




