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13 保線小屋の処理

 刺激臭の残る廊下を早足に進み、芙美子たちは客車中央の車掌室に向かった。室内の車掌は壁の端にしゃがみこんで青ざめている。

「我々は帝国の農務調査団です。残念なことに、武装した強盗に襲われました」

 銃声で耳鳴りを起こしていた車掌は、虚ろな目で問い返す。

「強盗……?」

「非常ブレーキを引きなさい。すぐに停めるのです。さもないと、あなたも共犯として官憲に突き出しますわ」

 そう言いながら、芙美子は机の上に五十ドル紙幣を二枚をそっと置いた。

 車掌は机の上と芙美子を交互に見やり、生唾を呑み込み、赤い鋳鉄レバーへ手を伸ばした。

 レバーが引かれるのを見届けると、芙美子は振り返った。

「最後尾のデッキへ行きましょう。減速したところで飛び降ります」

「敷石に飛び込めば足を折るぞ」

「捕まるよりはましです。骨の一本くらい折っても構いませんわ」

 英一郎は息を吐き、コルトをホルスターへ戻した。

「……頑固なことだ」

 ブレーキ板が車輪を締めつける摩擦音が響いた。

 強い減速がかかり、客車がきしむ。通路に残っていた男たちがバランスを崩して壁へ倒れ込んだ。

 三人は最後尾のデッキへ出た。英一郎が掛け金を外して鉄扉を開けると、暗闇の中を遠ざかる砕石と茂みが見えた。

「千草、なるべく遠くに飛ぶぞ。膝を突っ張るなよ」

 英一郎は千草の背嚢を掴み、抱え込むようにして盛り土の斜面へ飛び出した。茂みを滑り落ちる。

 右肩で衝撃を受け止め、千草を庇いながら勢いを殺した。千草は抱えた木箱を胸に当てたまま、すぐに起き上がった。

「……木箱に傷はありません。私も」

 続いて芙美子が斜面を滑り落ちてきた。

 右のヒールが半分もげている。芙美子は忌々しげにもぎ取り、草むらへ放り捨てる。

「……百ドル払った甲斐はありましたわ」

「右足を引きずっているぞ」

「骨は折れてはいません。歩けます」

 列車の赤い尾灯が闇の奥へ遠ざかっていく。追手が線路を引き返してくるまでの猶予ができた。

「こいつを連れていくぞ」

 英一郎が指差した斜面の下に、男が一人転がっている。

 デッキを出る前、煙を吸って倒れていた男を引っ張って落としておいたのだ。頭を枕木に打ったらしく、血を流して浅い息を繰り返している。

「連れていく? そんな大きな荷物を抱えて歩く余裕などありませんわ」

「ただの追い剥ぎじゃないだろう。それに――」

 英一郎は線路脇の数十間先を顎で指した。

「あそこに保線小屋がある。氷点下の風のなか、その足で移動できるわけがない。一度避難して、こいつの身元を割る」

 英一郎は大男の襟首を掴み、荒地を引きずっていった。

 

 線路脇の保線小屋は、枕木の防腐剤であるタールと古い埃の匂いに満ちていた。

 英一郎は大男を床へ転がし、重い鉄の掛け金を下ろした。

 転がっていた木端をストーブに放り込み、火をつける。橙色の炎が、縛り上げられた大男の姿を照らした。

 ウィルソン探偵社のこの男は、両手首を背中で縛られたまま壁際に横たわっている。枕木で打った側頭部から血が滲み、千草の煙で爛れた目と鼻から粘液が垂れていた。

「……英一郎さん、これ」

 千草はこの男の雑嚢から書類を、更に、上着から電報を探し出した。電報は暗号になっている。そして書類には東洋殖産興農社の割り印が押されていた。

「あら。それは私が解読出来ますわ」

 芙美子が電報を持ってランタンの下でしゃがみ込む。

 英一郎は男の胸骨の上へ靴底を乗せ、体重をかけた。

 骨がきしむ音とともに、男の喉から息が漏れる。

「指示を出したのは誰だ。東洋殖産興農社の割り印がある覚書を、なぜお前が持っている」

 男は血の混じった唾を吐き捨てた。

「……地獄へ落ちろ。俺は正規の保安員だ」

 英一郎は何も言わず、コルトの太いグリップを逆手に握り直すと、男の右手の甲へ振り下ろした。鈍い音が小屋に反響する。

「ぐあああっ!!」

 男が叫び声を上げた喉元へ、英一郎は銃口を押しあてた。悲鳴が唸り声に変わる。

「詰め所まで百マイルはある。ここで野垂れ死にしても、線路の保線員がお前を穴に埋めておしまいだ。次は膝の皿を割る」

 怒鳴りもせず、機械の手入れでもするような平坦な声だった。男は英一郎の感情の無い所作に脂汗を流し、掠れた声を絞り出した。

「……電報の通りだ。デトロイトのパーク・デイビス、東京の東洋殖産興農社、横浜のジャーディン・マセソン商会……三者の間で、生薬協定が結ばれた」

「ジャーディン・マセソン……」

 梁の陰で腕を組んでいた芙美子が呟いた。

 幕末から武器密輸で利益を上げ、維新後も政府の外債に食い込んできた英国系の大資本である。

「そうだ……」

 男は砕かれた手を震わせ、言葉を継いだ。

「日本の生薬の原料は、ロンドンの商社が牛耳ってきた。だが日清戦争の後、陸軍と帝大が生薬の国産化に舵を切った。その中心にいたのが、……西ヶ原宗蔵だ」

 ストーブの火を見つめていた千草が顔を上げた。

「大旦那様が、英米のトラストを相手に立ち回っていたのですか」

「市場を枠組みごと変える気だったんだろうよ」

 男は腫れた喉をひきつらせた。

「宗蔵の名は知られていた。アパラチアからセネガを持ち出し、北海道で根付かせようとしていた。育苗、栽培、減圧抽出、瓶詰め――すべて日本国内で完結させるラインだ。あれが動けば、軍も薬局も、ロンドンやデトロイトから生薬を買う必要がなくなる。極東の市場を丸ごと奪われるところだった」

 英一郎は男を見下ろしながら、巣鴨の赤煉瓦小屋を思い出していた。

 薄暗い部屋に閉じこもり、同業者から「道楽者の狂人」と嘲笑われながら、黒板に数値を殴り書き続けていた父。

 ――身代をドブに捨てる阿呆、か。

 道楽でも妄執でもない。借用書を積み上げて父が作ろうとしていたものは、軍の衛生環境を欧米の独占から守るための、実体のある兵站線であった。

「……なぜ破綻した。設備は動く寸前だったはずだ」

 男はひきつった口角を上げた。

「破綻させたんだよ。……完成間際でジャーディン・マセソンとパーク・デイビスが手を組んだ。東洋殖産興農社を窓口にして、低利の借入を借換時に短期高利へ切り替えさせた。併せて、横浜税関で珪藻土と硝子管の通関を止めさせた。物資を止め、返済を不可能にして、競売へ持ち込んで設備を丸ごと差し押さえる――そういう筋書きだ」

「大旦那様が倒れたのも、手順のひとつですか」

 千草が声の温度を変えずに問う。

「……宗蔵は借金で縛る予定だった。頭脳は使い道があったからな。だが宗三郎が欲をかいて余計な真似をした。……狙いは『薬園の土壌配合と育苗記録』、そして宗蔵の『低温減圧抽出法』だ。特許を取得してデトロイトの工場へ組み込む。そうすれば日本軍は、原料から薬まで永久に資金を払わねばならなくなる」

「……見事な手際ですこと」

 土間の隅から硬い呟きが落ちた。

 芙美子は膝の上に手帳を広げ、電報を暗号表と照合していた。

 鉛筆が紙を擦る、一定の音。

 だが、最後の『追伸』に続く文字列を解読したところで、芯が折れた。

 芙美子の顔から血の気が引いていく。

「芙美子さん」

 千草が手を止めた。

 芙美子は答えず、折れた芯を紙に押し当てたまま、浮かび上がった文面を見つめていた。

『――セネガ原株の回収後、現地部隊が単独で接収せよ。任務完了後、同行の山瀬芙美子を含む邦人三名は山岳事故として処理されたし。帰還は認めず』

 羽目板の隙間から冷たい風が吹き込み、灰を巻き上げた。

 芙美子の手から鉛筆がこぼれ、土間に転がる。

 男子の途絶えた家名を継ぎ、親族の負債を背負ってきた。その彼女が「家名再興の足がかり」と信じて忠誠を尽くしてきた商会は、最初から自分を使い捨ての小間使いとしか見ていなかった。

「……処理」

 芙美子の喉から掠れた息が漏れた。

「わたくしも……使い捨てだった」

 拳を握りしめ、呼吸が荒くなる。

 英一郎は燃えさしの木端を踏み消し、立ち上がった。

「山瀬、感傷に浸る時間はないぞ。列車から追手が戻ってくる」

 千草も男の雑嚢から缶詰を回収し、背嚢へ詰めた。

「英一郎さんの言う通りです。立ち止まっていても、大旦那様の研究は戻りませんし、セネガの根も掘り出せません」

 芙美子は大きく息を吸い込んだ。冷気が肺を満たす。

 顔を上げた時、その瞳から動揺は消えていた。

「……ええ。その通りですわ」

 乱れた髪を撫で付け、土間に落ちた鉛筆を拾い上げると、手帳を閉じた。

「わたくしを踏み台にした連中には……元金に遅延損害金を乗せて取り立ててやります。――行きますわよ、アパラチアへ。原株を掘り起こして、連中の息の根を止めて差し上げます」


 ストーブの火が爆ぜる脇で、千草は芙美子の足元にしゃがみ込んだ。

「……何ですの、千草さん」

「足首を見せてください。腫れ上がっています」

芙美子が拒む間もなく、千草は冷えた手で芙美子の細い足首を掴んだ。骨の軋みを確認し、手持ちの油紙に湿らせた湿布薬を当てる。

「いたっ……手荒ですわね」

「良かったですね、骨は大丈夫そうです。ですが、手当てをしなければ明日は一歩も歩けません。歩けなければ、山中で置き去りです」

「……なら、置いていけばよろしいでしょう。わたくしは貴方たちの家を潰そうとした敵ですのよ」

芙美子が自嘲気味に呟くと、千草は帯から端切れを取り出し、慣れた手つきで足首を固定した。

「大旦那様を騙したことは許していません。ですが、貴方の調達力と情報がなければ、私たちはサンフランシスコの税関から一歩も出られずに拘束されていました。……私は、生き残るために必要な計算ができる人を、置き去りにしたくはありません」

「……生意気な小娘」

芙美子は顔を背けたが、千草の巻いた包帯を解こうとはしなかった。

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