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14 局地気候の原種

 それから三週間後。

 ネバダの砂漠を夜汽車で抜け、シカゴを経由してロチェスターへ辿り着いた三人は、駅裏の馬喰から老いた駄載ラバ二頭と輜重鞍を買い切り、アパラチア山脈の裾野へと分け入った。

 樹齢数百年に達するホワイトオークとヒッコリーの巨木が頭上を覆い薄暗い。直射日光の届かぬ林床には、何代にもわたって堆積した湿った腐葉土が敷き詰められていた。一歩踏み込むごとに、泥が靴底へまとわりつく。

「山瀬、足首を垂直に引き上げろ。横へ払えば泥に靴を取られる」

 先頭の英一郎は、雑貨屋で調達した山刀でサルトリイバラの棘を切り払っていた。

 その後ろを、鹿革のモカシンを麻紐で脛に巻きつけた芙美子が追う。外套は泥水を吸って重く垂れ下がり、跳ね返った小枝で頬に擦り傷ができていたが、足元を見つめる視線はぶれていなかった。

「休むか」

「休む場所などありませんわ。それより、枝を払う間隔を広げてください」

「息が上がっている。手綱を千草へ渡せ」

「……断ります。積荷もラバもわたくしが買ったものです。任せられません」

 最後尾を行く千草は、二人の言い合いなど耳に入らぬ様子で、地表の傾斜と樹木の根元に生えた地衣類ばかりを見ていた。

「……英一郎さん、止まって」

「敵か」

 英一郎は足を止め、右手を腰へ落としながら幹の隙間を見張った。

「違います。……土が変わりました」

 千草は露出した木の根元に片膝をついた。

 手鋤を腐葉土に刺し、土塊を掘り起こす。掌の上で団子状の黒土を擦り潰し、細砂の噛み合いを確かめた。次いで鼻先を土へ近づけて匂いを嗅ぎ、小匙ほどの湿った泥を舌の上へ乗せる。

「……千草さん、泥を口に入れるなど正気ですの」

「粒度と有機酸、硝酸塩の有無は舌でわかります」

 千草は懐紙へ土を吐き捨て、平然と続けた。

「表層の腐葉土の下に、雲母と風化した石灰岩の砕石が混じっています。泥炭の酸味が消えて、収斂味が出ている。……ここは広葉樹林ですが、下の基盤は高い純度の石灰岩層です。大旦那様が記録された『標高四千尺の岩場』に入りましたよ」

 シャクナゲの絡み合う急斜面を登りきると、鬱蒼とした木々の天蓋が切れて視界が晴れた。

 垂直に切り立った灰白色の石灰岩は、行く手を塞ぐ巨大な衝立のようである。

 霧が岩肌の亀裂を舐めるように這い上がり、冷気が三人の肌を撫でた。


 岩の亀裂を抜けてくる風は、刃のように冷たかった。

 下の森に澱んでいた腐植の重苦しい臭いとは異なり、この岩壁のあたりだけ、氷室の扉を開けたような冷気が漂っている。

「……冷えるな。二月(ふたつき)ほど季節が先に進んだようだ」

 英一郎は外套の前を掻き合わせた。

「帝大の農学者が『本邦での露地栽培は不可能』と匙を投げたのも無理はありませんわ」

 芙美子が手帳を開き、万年筆を走らせながら言う。

「北米固有種のセネガは、この冷涼な環境に特化した植物。東京の盛夏――三十度を超える高温多湿の地に植えても、根が腐ってしまう。だからこそパーク・デイビス社は、原料の出元さえ押さえれば市場を独占し続けられると踏んでいたのです」

「……その見立ては、植物の生育環境を理解していません」

 千草は呟き、岩の割れ目へ身を滑り込ませた。素手を奥へ差し入れ、岩肌を伝う湧水に触れる。

「氷のように冷たい……。尾根の雪解け水が、多孔質の石灰岩洞を抜ける間に熱を奪われて伏流しているんです」

 千草は手鋤で、岩の隙間に詰まった堆積土を掻き出した。角張った石灰砕石の隙間に細かな土が挟まった、水はけの良い礫層である。

 小瓶から試薬を一滴落とし、土塊を爪で割いて検分し始める。千草の目が細くなった。黒い土粒の隙間を、クモの糸よりも細い灰白色の菌糸が、網目状にびっしりと覆っている。

「……ありました。外生菌根菌(マイクロライザ)です」

 セネガの細根は、単独では土から養分を吸う力が弱い。通気性の高い石灰礫層に潜む菌根菌と結びつき、菌糸網から水分とリン酸を受け取る代わりに養分を渡している。そして、地下を抜ける冷水が、根の周りの温度だけを十二度以下に保ち続けている。

「まさか……気温ではなく、地温の冷却と、共生菌」

 芙美子の万年筆が止まった。

「そうです。大旦那様が小屋で設計していた構造……あの配管図の意味はこれです」

 千草は手鋤で空間を指した。

「夏の東京の気温を丸ごと下げる必要などないのです。気温が三十度を超えようと、根の周りの温度さえ低く固定できれば、セネガは夏を越せます。川の水を引いた暗渠で培地を冷やし、高床の棚で水はけを良くして、そして、この共生菌を定着させる。大旦那様の図面は、このアパラチアの石灰岩の断崖で出来た根の周り環境を、巣鴨の敷地にそのまま写し取るための仕様書だったのです」

「……あの偏屈親父め。そこまで計算していたのか」

 同業者から狂人と笑われながら、薄暗い部屋で図面を引いていた父。

 遺された幾何学模様は、老人の妄執などではなかった。欧米の独占を、水路の引き込みと伝統の棚栽培で突破する設計図であった。

「巣鴨で育ちますよ。……再現できます」

 千草は感情を交えずに告げ、手鋤を腰へ戻した。

 その時、吹き上げた風が霧を割った。

 断崖の奥、岩の崩落跡にできた棚状の平地に、一本の巨木が聳え立っていた。白銀色の樹皮から、樹脂と安息香酸の混じった重い芳香が漂ってくる。バルサムポプラの木――北米先住民が薬として用いてきた原木である。

 そして――その根元、冷たい水が岩肌を濡らす割れ目一面に、青白く尖った小花をつけた草むらが、群落を成して張り付いていた。

 風雪に晒され、石の隙間に強靭な木質根を喰い込ませた、野生の原種。

「……あったな」

 父が身代を削って追い求めた草が、目の前の岩肌に息づいていた。


 霧が晴れた岩棚は、屏風のようにそびえ立つ石灰岩が寒風を遮る、外界から切り離された窪地であった。砕けた石灰岩と微細な砂、腐葉土が混ざり合った薄い礫層を破り、セネガの群落が青白い葉を広げている。

「……温室育ちの苗とは、生命力が違います」

 千草は群落の前にしゃがみ込み、背嚢から手鋤と採集筒を取り出した。

「千草、急げよ。追手がいつ嗅ぎつけるか分からん」

 英一郎は尾根の稜線を見張りながら言った。

「急かさないでください。無理に根を引き抜いて傷つければ、そこから腐ります」

 千草は手順を崩さず、草の根元から三寸外側の岩肌へ小刀を差し入れた。刃先から手に伝わる感触で地下の根を探り、土塊ごと慎重に持ち上げる。

 千草は両の手のひらで、その根鉢を受け止めた。

 親指ほどの節くれ立った主根と、その周囲を緊密に覆う灰白色の菌糸の網。

「……共生網の剥離はありません。巣鴨の高床棚でもきっと根付きます」

 余分な小石を落とし、黒く熟した種子の房を、油紙の袋へ素早く収めた。

 その傍らで、芙美子が背後の巨木へ歩み寄っていた。

 樹皮の縦の裂け目から、琥珀色の樹液が滲み出ている。安息香酸の香気が強く立ち上っていた。

「……これが、手帳にあった『ギレアドの薬木』」

 芙美子が素手で固化しかけた樹脂へ触れようとする。

「触れてはいけません。手の脂で酸化します」

 千草が小刀を拭いながら声をかけた。

 真鍮の薬匙を取り出し、樹皮の裂け目から滴る飴色の樹脂を空気に触れさせぬよう掬い取ると、無水酒精を満たした遮光瓶へ滑り込ませる。

 樹脂は酒精のなかで溶け、澄んだ琥珀色の溶液となって底へ沈んでいった。

「……大旦那様の考えた通りです」

 千草は瓶を掲げた。

「セネガのサポニン配糖体は、水溶液のなかで放置すれば分解して薬効を失います。米国の化学者が防げなかった失活を、この樹脂の成分が微粒子となって油滴で包み込めば、水分子との直接接触を遮断できる。古い樹脂製剤が、近代薬学の穴を埋めるのです」

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