6 手違いの毒殺
空になった平盃を盆へ音を立てて置くと、宗三郎の顔に隠しようのない勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「……さて。トヨ母上、芙美子さん、そして英一郎。どうして盃に手をつけないのですかな」
宗三郎のねっとりとした声が大広間に響く。上座のトヨは宗三郎を睨み据えたまま動かず、芙美子は両手を膝の上で固く握りしめ、青ざめた顔で叔父を見つめている。英一郎に至っては、柱の陰で気怠そうに煙草を吹かすばかりだ。
「せっかくの一族の手打ちだ。飲めぬとは言わせませんぞ。……おい、手伝って差し上げろ」
宗三郎が手を叩くと、水屋の襖が荒々しく開いた。種子屋の雇い人とは到底思えぬ、凶相の男たちが控えていた。手には短刀や棍棒を握り締め、素早く大広間の出入り口を塞ぎ、襖をピシャリと閉め切る。
居並ぶ親族たちの間から悲鳴が上がった。
「宗三郎! 仏前で何たる狼藉かい!」
トヨが一喝するが、宗三郎は嗤うばかりで怯みもしない。
「狼藉とは心外な。染井堂を背負う覚悟を問うているのです。兄さんの遺言など知ったことではない。この盃を干して私に従うか、それともここで無理やりにでも喉奥へ流し込まれるか……どちらかを選んでいただこう」
「お、叔父様……そんな……」
芙美子は震える声で呟き、トヨの衣の袖を握りしめた。
男の二人が刃物をちらつかせ、トヨと芙美子の前へとじりじりと間合いを詰める。
「……ずいぶんと安っぽい茶番だな、叔父さん」
英一郎が柱から背を離し、二人の前に割り込んだ。男の一人が威嚇するようにドスを構えるが、英一郎は怯むどころか、指先に挟んだ煙草の火を男の鼻先へ突きつけた。
「近づくな。火傷じゃ済まないぞ」
「てめえ、小僧……ッ」
「手荒な真似をする前に、よく考えろ」
英一郎の据わった眼光に、男の足がピタリと止まる。宗三郎は苛立たしげに舌打ちし、吠えた。
「ええい、何を怯んでいる! この手打ちを呑まぬなら、力ずくで――」
言葉を続けようとした宗三郎が、ふと喉元を押さえた。
「……あ、れ……?」
宗三郎の指先が、自身の唇に触れる。
じわりと、痺れが広がっていた。酒の辛みではない。舌の先から喉の奥にかけて、細い針で無数に刺されるような激しい痺れと熱感がせり上がってくる。
「おい、叔父さん……? どうしたんだ、急に」
英一郎の怪訝な声が耳の奥で遠く反響した。
「な、何でも……ぐっ、う……!」
宗三郎の額に、異様な量の脂汗が流れ出ている。
胃の底を冷たい鉤爪で掻き毟られるような激痛。続いて、心臓が不規則な乱打を打ち始める。
背後でドサリと重い音が響いた。
「がっ……! ひ、息が……っ!」
「げほっ、う、うわあああっ!」
盃を干していた分家の男三名が、ふいに喉を掻きむしり、緋毛氈の上へ倒れた。口元から泡を噴きこぼして、手足を痙攣させて畳を叩く。
「な、何だ!?」「どうしたんだお前たち!」
大広間が騒然となる。荒くれ者たちも、宗三郎の背後に控えていた側近の番頭も、予想だにしなかった光景に立ちすくんだ。
「ば……馬鹿な……なぜ……」
宗三郎の視界が急速に明るさを失っていく。
膝から崩れ落ち、畳に手をついた。吐瀉物が口元からどす黒く溢れ出す。全身が細かく震えていた。
「わ、私は……絵柄の、反対側を……回した……はず……」
血の気の失せた唇から漏れた言葉を拾い上げた千草が、静かに前へ進み出た。
「大旦那様をよくも」
千草は床に伏す宗三郎の平盃を見下ろし、情の欠片もない声で告げた。
「宗三郎様。盃を回す向きが、逆でしたよ」
「――なっ……!?」
「ご自分で、毒の塗られた縁を唇へ引き寄せたのですよ」
宗三郎の瞳が見開かれた。自らの愚かな過誤を悟ったその間隙に、心臓が不整脈へと陥り、宗三郎の身体は大きく弓なりに跳ね上がって、そのまま力なく緋毛氈の上へ崩れ折れた。
分家の男たちもまた、鉛色に変色した唇を震わせ、白目を剥いて次々と事切れ、広間は息を呑むような静寂に沈んだ。
「お、おい……旦那が死んじまったぞ……!」
「脅すだけだって、それが毒……こんなヤバいヤマ、聞いてねえぞ!」
雇い主の変死を目の当たりにした男たちは顔を引き攣らせ、得物を放り出して我先にと逃げ散っていった。
「あ、あなた――ッ!?」
「誰か、誰か医者を呼んでくれ!」
残された親族たちが半狂乱となって叫び、盃を放り出して戸口へ殺到する。広間は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
トヨは目を見開いて息を呑んでいた。凄惨な死の光景に顔から血の気は失せていたが、それでも取り乱して喚き立てる親族たちとは違い、染井堂を見守ってきた矜持が彼女の正気を繋ぎ止めていた。
やがて、逃げ出した親族の通報によって駆けつけた巣鴨署の巡査と刑事が、抜身のサーベルを鳴らして大広間へ踏み込んできた。
「誰も動くな! ……通報によれば、跡目を巡る毒殺事件とのことだな。下手人はどちらだ!」
息を切らした警部補が広間を見回した。
その時、逃げ遅れて部屋の隅で震えていた宗三郎の腹心の番頭が、自らの保身のために立ち上がり、英一郎を指差した。
「だ、旦那を殺したのはあいつです! あの放蕩者の英一郎が、先代の遺産欲しさに酒へ毒を盛り、宗三郎旦那方を皆殺しにしたのです!」
突拍子もない擦り付けに、生き残った親族たちは呆気にとられて口をつぐんだが、警部補の鋭い視線が英一郎へと向かう。
英一郎は弁明する気力すらない様子で、ただ煙草の煙を吐き捨て、億劫そうに目を細めていた。
その時、千草の乾いた声が響いた。
「刑事さん。見立て違いです」
千草は転がる死体には目もくれず、盆の上に置かれた平盃の前に膝をついた。
「これは英一郎さんの仕業ではありません。この男が、ここにいる全員を毒殺しようとして、自ら仕掛けた罠で死んだのです」
「な、何だと……!? 小娘、滅多な口を利くな!」
「証拠をお目にかけます」
千草は前掛けの奥から竹の茶筅と、小屋から持参していた試薬の入った小瓶を取り出した。
親族たちの足元に転がった盃の縁を、酸性の溶媒を含ませた小布で手際よく拭い取り、白磁の小皿へ浸して試薬を垂らす。
小皿の中の透明な液体が、濁った白色の沈殿を生じさせて淀んだ。
「……烏頭の根から採れる猛毒、アコニチンです。試薬と反応して特有の沈殿を生じます。床に落ちているすべての盃の縁から、同じ反応が出るはずです」
千草の抑揚の無い声に、生き残った親族一同の顔から血の気が引いた。自分たちが今しがた口にしようとしていたものの正体を知り、総毛立つ。
「ですが、この宗三郎が持っていた盃だけは違います」
千草は宗三郎の盃を手に取り、唇の触れた側と、その反対側の縁をそれぞれ拭って試薬を落とした。
片方は白濁し、もう片方は澄んだままであった。
「この男の盃だけ、絵柄の反対側の縁に毒が塗られていませんでした。本来なら、絵柄を目印に盃を回し、自分だけが助かるはずが、動転して回す向きを間違え、自ら毒の塗られた縁に口をつけてしまった。……大旦那様の小屋の片隅で割れていた片口とお猪口にも、これと同じ細工がされていたはずです」
大広間が、再び静寂に包まれた。
警部補は息を呑み、白濁した小皿と、畳の上で折り重なって硬直した死体を交互に見比べ、二の句が継げなくなった。嘘を吐いていた番頭はへたり込み、青ざめて言葉を失っている。
「……あたしたちまで、皆殺しにする気だったのかい」
トヨが低く絞り出すように呟いた。
その隣で、芙美子もまた、ただ宗三郎の無残な骸を見つめていた。
英一郎は煙草の吸い殻を靴底で踏み消し、転がった宗三郎を一瞥した。
「……つくづく、浅ましい」




