5 手打ちの献杯
大広間は重苦しい沈黙に包まれていた。
千草の容赦のない鑑定によって、宗三郎の持ち込んだセネガの苗は「数日で腐る紛い物」と断じられた。
親族一同の小馬鹿にするような視線が宗三郎の背中に集中する。長年、染井堂の実務を牛耳ってきた男の面目は、十六歳の少女の舌先によって引き裂かれた。
青ざめた顔に脂汗を浮かべながら、宗三郎はわざとらしく咳払いを一つ落とすと、上座のトヨと大広間の親族一同へ向かって深く頭を下げた。
「……なるほど、千草の言う通り、私の目利きに些かの落ち度があったようだ。私の不徳の致すところである」
殊勝な口調を取り繕いながら、宗三郎は背後の水屋へ片手を挙げた。
「しかし母上、親族一同、こうして集まったのも何かの縁です。兄さんの急死以来、家の中は刺々しい諍いばかりが続いてまいりました。跡目の決着は追ってつけるにせよ、ここはひとつ、先代の供養と親族の和解を期して『盃』を交わして手打ちとし、一族の結束を固め直そうではありませんか」
品評の席に酒を持ち込むという唐突な申し出に、親族の間からざわめきが起きた。上座のトヨも眉間に深い皺を刻み、息子を見据える。
「宗三郎。仏を前にして、白昼から酒盛りを始める気かい」
「滅相もございません。ただの一献、親族の禍根を水に流し、皆で染井堂を盛り立てていくための儀礼でございます」
宗三郎は低姿勢を崩さず、従者たちに命じて大広間の全員分――十数個の染付の平盃が並んだ大盆を運ばせた。給仕に立つ従者たちは、いずれも種子屋の雇い人にしてはやけに肩幅が広く、足取りが重い。
その平盃が畳へ配られた瞬間、柱の陰にいた英一郎と、トヨの斜め前に座る千草の視線が微かに交錯した。
盃の見込みには、藍色の染付で「松」の絵が描かれている。
千草は手元の盃を一瞥しただけで、唇の当たる縁に微かに塗布された無色の被膜を見抜いた。千草の目は、宗三郎自身の手元に残された盃だけが、松の絵柄を境に「手前半分」にしか毒が塗られていないことを見逃さなかった。
親族の手元へ、次々と酒の注がれた盃が配られていく。
誰も気づいてはいなかった。その盃の縁には、実験小屋から持ち出されたトリカブトの猛毒が、ぐるりと全周にわたって塗り乾かされていたのである。
飲めば染井堂の一員、飲まねば排斥――そう思い込ませて分け前を貪ろうとする親族一同を、この場で一網打尽に始末する。もしトヨや芙美子、あるいは英一郎のように警戒して口をつけぬ者がいれば、水屋に潜ませた子飼いの男たちに襖を締め切らせ、刃物で脅して無理やりにでも喉へ流し込ませる手筈であった。
兄の遺言などどうでもよい。唯一生き残った自分が、錯乱した遺族を弔って染井堂の全権を握る――それが宗三郎が品評会の裏で描いた筋書きであった。
そして、宗三郎自身の手元に残した盃だけは、見込みに描かれた藍色の「松」の絵柄を境に、手前側の半周にしか毒が塗られていない。絵柄を目印に盃を半回転させ、「毒のない反対側の縁」に唇をつければ、自分だけが無傷で生き残れる。
手打ちの酒と聞いて、まだ利権にありつけると考えた分家の男たちが我先にと盃を持ち上げる。
一方、上座のトヨは盃に指一本触れようともせず、芙美子もまた膝の上で静かに指を組んでいる。英一郎は柱に背を預けたまま、煙草を燻らせている。
宗三郎はそれらの「飲まぬ者たち」を一瞥し、自らの盃を両手で高く掲げた。
「――叔父さん」
英一郎の低い声が広間に響く。
不意に立ち上がり、無造作に畳を踏み鳴ながら宗三郎の前へと間合いを詰める。
「え、英一郎……何だ、手打ちの邪魔をするな!」
「親父の冥福を祈るんだろ。なら、息子の俺の盃と、そいつを交換して酌み交わそうぜ」
英一郎は自分の盃を差し出し、宗三郎の盃を上から強引に押さえつけた。
「な、何を無礼な! これは私が先代に捧げる盃だ、触るなッ!」
宗三郎は血相を変えて英一郎の手を払いのけ、自らの盃を死守するように懐へ抱え込んだ。殺意と焦燥で、宗三郎の視野は一気に針の穴ほどに狭窄する。
その一瞬の揉み合いの隙間を、千草は見逃さなかった。
「英一郎さん、席へお戻りください。皆様お困りですよ」
千草は冷ややかな声で窘めるように割り込み、英一郎の肩を引いた。
そして、座敷へ戻る千草の袖口が――宗三郎の膝元の卓上を一瞬だけ、羽毛のようにかすめた。その裾の返しで、卓上の平盃が音もなく半回転――きっかり百八十度、向きを変えていた。
宗三郎が胸元から卓上へ戻した視線。焦りの中で確認する。「松」の青い絵柄がある。よし、狂いはない。
だが、視野の狭まった宗三郎には見えていなかった。自分が置いた絶対の向きは、千草の手によってすでに百八十度、真逆に反転させられていたことに。
「これじゃあ、俺は飲めないな」
「ふ、ふん……礼儀知らずが!」
そう言って柱を背に座り込む英一郎を、宗三郎は睨みつけ、呼吸を整えた。
早くこの場を終わらせねばならない。水屋の男たちに合図を出し、飲まぬ者を皆殺しにするのだ。
「さあ、まずは言い出した私から一献。先代・宗蔵兄さんの冥福と、染井堂の未来のために!」
上座から注がれるトヨの射抜くような眼光、千草に恥をかかされた激しい動転、飲まぬ者たちを力ずくで始末させる決心、そして憎悪の対象である英一郎の気だるげな所作――極度の緊張下での幾重もの雑念が、宗三郎の指先を震わせて狂いを生んだ。
宗三郎は「松」の絵柄を見据えながら、毒のない側を口元へ持ってくるべく盃を回した。
「――染井堂に繁栄を!」
宗三郎は豪快に盃を煽った。
追従するように、欲深い分家の男たち三名も一気に盃を干した。




