3 教官殿の萬葉堂
神保町の裏通りに佇む古書店「萬葉堂」の薄暗い奥座敷には、古書の黴臭さと混じり合って、黒々とした液体を煮詰める焦げ臭い芳香が漂っていた。帳机の脇には、英一郎が出掛けに巣鴨庚申塚の福島屋で包ませてきた羊羹が、竹皮のまま置かれている。
「……ここは資生堂でも西洋料理店でもないのだがね」
不機嫌そうに口を歪めながら、ネルの布越しに細く熱湯を落としたのは、店主の滝川であった。無地の木綿着物に前掛けという町人姿だが、無駄のない所作と硝子眼鏡の奥にある油断のない眼光は、陸軍参謀本部で情報を牛耳る将校のそれである。士官学校で英一郎の教官を務め、あの殴打事件で軍法会議に送られかけた英一郎を、使い走りの協力者として拾い上げた人物でもあった。
「恐れ入ります、教官殿」
英一郎は差し出された厚手の洋盃を両手で受け、背筋をわずかに正して口をつけた。この男にだけは決して無駄口を叩かない。実刑を免れ、今こうして五体満足でいられるのは、この元上官の手引きによるものだと弁えているからである。
立ち上る湯気を吸い込み、あまりの苦味に眉をひそめた。
「……相変わらず、胃の腑に染みる苦さです」
「一級の珈琲豆を軍の糧食廠から融通させているのだ。貴様には勿体ない代物だよ」
滝川は自分の盃に口をつけると、硝子眼鏡の奥の目を細め、教え子の顔を見据えた。
「――ところで、貴様が射撃場の裏で鼻柱を叩き折った薩摩の大尉、覚えているか」
「……はい」
「猫を被るな。忘れるはずもあるまい」
「……精神論ばかり喚き散らす、図体ばかりの無能でした」
「そうだ。候補生の一撃で白目を剥いて転がった無様が、上層部の耳に入ってな。『部下一人統率できぬ腰抜けに、兵の教育など任せられん』と判定されて、先月、台湾の辺境警備へ飛ばされたよ。貴様の暴挙のせいで、あの男の出世の道は完全に閉ざされた」
「……ご迷惑をおかけしました」
英一郎が平然と頭を下げる。
「本音を言え」
「――当然の報いです」
吐き捨てられた言葉に、滝川は口元に微かな笑みを刻んだ。
その横で、千草は差し出された黒い液体をスプーンの先でわずかに舐め、顔をしかめた。慌てて羊羹の小片を口に放り込む。
「……昔話はそのくらいで結構です。滝川様、これをご覧いただきたいのです」
千草は男たちの恩讐など一顧だにせず、宗蔵の遺品であったあの植物図譜の写しを机の上へ滑り込ませた。
「大旦那様が小屋で研究していたのは、北米原産の去痰生薬『セネガ』でした。ですが、セネガは冷涼な岩の隙間を好む高山植物です。蒸し暑い真夏となる巣鴨の土では、どう足掻いても根腐れを起こして枯れてしまいます。大旦那様がなぜその栽培に憑りつかれ、この奇妙な図面を遺したのか……それをお教え願いたいのです」
滝川は片眉をわずかに上げると、書棚の奥から分厚い洋書――合衆国最新の『米国薬局方』と、アパラチア植物誌の原書を引き抜いてきた。
黄ばんだ紙面と宗蔵のメモを並べ、数値を照合していく。
「なるほど、宗蔵め……ここまで辿り着いていたか」
「何が書かれているのですか、教官」
英一郎の問いに、滝川は珈琲の湯気の向こうで薄く笑った。
「この等高線と土壌数値はな。アパラチア山脈の特定の断崖にのみ群生するセネガ自生地の条件を数値化したものだ。……そして見ろ、このメモの裏を」
滝川が裏返した紙片には、宗蔵による細かな筆跡で、巣鴨薬園の秘伝の配合が書き殴られていた。
千草の瞳が、僅かに見開かれる。
「……高床式の礫耕栽培に、地下水を通した冷却管。それに、現地の酸性土壌に潜む共生菌の定着……?」
「そうだ」
滝川は頷いた。
「宗蔵は、ただ輸入した種を巣鴨の土に撒こうとしたのではなく、アパラチアの冷涼な岩場そのものを、巣鴨の地下小屋で人工的に構築しようとしたのだ。これが完成すれば、東京の真夏であってもセネガの根を腐らせず、国内で製薬まで完結できる。――宗蔵が遺言で示した『真の黄金草』とは、金塊のことなどではない。この『巣鴨でセネガを芽吹かせる栽培技術』そのものだ」
「……親父の奴め」
英一郎は冷え切った珈琲の残り滓を喉へ流し込んだ。
「どこまでも偏屈な男だ。死に際までそんな大仕掛けを抱え込んで逝くとは」
「ですが、完成には本物の『生きた原種』と、生育用の土壌の目利きが必要です」
千草はメモを胸元へ仕舞い込むと、迷いのない眼差しで英一郎を見据えた。
「品評会で親族たちが持参する植物は、いずれも紛い物でしょう。大旦那様の遺志を理解しているのは、私たちしかいません」
「教官、御礼を申し上げます」
英一郎は立ち上がり、滝川に向かって小さく頭を下げた。
「……千草、巣鴨へ戻るぞ。親父を阿呆と笑った親族どもが、どんなゴミ屑を抱えて集まるか、見届けてやる」




