2 宗蔵の遺言
駆けつけた顧問弁護士が革鞄から一通の封書を取り出した時、大広間は通夜よりもなお陰気な沈黙に包まれた。
蝋で厳重に封じられた白い包みの表には、先代当主・西ヶ原宗蔵の角ばった筆跡で、いかにも勿体らしく『遺言書』と墨書されている。
「……ふん、戻ってきたところで何になるというのだ」
畳に両手を突いた宗三郎は、甥の背中を睨みつけていた。胸の底からは、兄が生きているあいだに溜め込んだ、煮え切らぬ澱のような鬱屈がせり上がってくる。
兄の宗蔵が店を継ぎ、その息子である英一郎が生まれた日から、宗三郎はずっと日陰者であった。甥の英一郎は幼少から才気煥発と持て囃され、陸軍士官学校へ進んで一族の誉れと担ぎ上げられた。だが、化けの皮が剥がれるのは早い。教官の鼻柱を殴りつけて叩き出され、酒浸りだ。いまや町内の鼻つまみ者である。
(軍隊の規律すら守れぬような乱暴者に、この大所帯の差配ができる道理がない。兄さんとて、愛想を尽かしていたはずだ。染井堂を回せるのは、長年勘定を預かってきたこの俺しかいないのだ……)
宗三郎の唇の端が、優越感を隠しきれずに微かに歪んだ。
「それでは、故・西ヶ原宗蔵殿の遺言状を開封いたします」
弁護士が象牙のペーパーナイフを滑らせ、恭しく書面を押し広げた。
親族一同が一斉に首を伸ばす。誰もが唾を呑み込み、紙の擦れる乾いた音だけに耳を澄ませていた。
『――我が全財産、ならびに染井堂の一切の事業権は、帝国を咳病の災禍から救う「真の黄金草」を指し示し、その生きた根を巣鴨の土に芽吹かせた者にこれを譲る』
「……は?」
間の抜けた声を漏らしたのは宗三郎であった。
居並ぶ親族たちの顔が、見る見るうちに困惑の色に塗り潰されていく。隠し財産のありかでも、銀行の預金高の山分けでもない。認められていたのは、人を喰ったような、あまりに奇怪な条件であった。
「ちょ、お待ちください! それは一体どういう意味です!」
「黄金草……? そんな植物の名、本草書でも見たことがありませんぞ」
「もしや、どこぞに金塊が埋めてあって、そのありかを示す謎かけなのでは……!」
「……おい、待て。英一郎さんの名前がどこにも無いじゃないか。ということは……」
ざわめきは、あっという間に浅ましい皮算用へと化けた。
嫡男である英一郎の名が単独で指名されなかった――ただそれだけの事実で、親族たちの瞳にぎらついた欲の火が灯る。誰であれその草を持参すれば跡を継げるのだ。ならば、自分にも、我が子にも、等しく分け前にあずかる資格があるはずではないか。
「ええい、騒ぐんじゃないよ!」
トヨの一喝が、沸き立つ頭上へ雷のように落ちた。
老婆は鋭い眼光で広間を圧すると、膝を強く叩いて言い放った。
「宗蔵の言いたいことは明白だよ。偏屈なあの子らしいじゃないか。三日後、この大広間で『品評会』を行うよ。ここにいる者は誰でも、これこそが宗蔵の求めた黄金草だと思う草木を持ち寄るがいい。持ち込まれた草の真贋を定める『目利き』は、当日の席であたしが指名する。小細工は一切利かないとお思い」
親族たちが色めき立ち、我先にと珍奇な植物を探しに散じていく中、芙美子は静かにトヨの肩へ羽織を掛けながら、その浅ましい背中を涼しい顔で眺めていた。
英一郎はといえば、あくびを噛み殺し、騒ぎを尻目にさっさと土間へと降りていく。
「……おい、千草」
英一郎は、土間の隅で種子を選り分けていた千草を呼び止めた。
「実験小屋に行くぞ。親父が最後に弄くってた残骸を見せろ」
「抜け駆けですか。大奥様のお言いつけに背きますよ」
「誰もお前に声をかけないじゃないか。最初から眼中に無いんだよ」
「……結構です。どうせ私もあそこの片付けに用事があります」
滝野川のほとりに建つ煉瓦造りの小屋は、薄暗く冷え冷えとしており、鼻を突く青臭い生薬の匂いが澱んでいた。
二人の視線が、土間に転がった備前焼の片口と、無残に砕け散った猪口の破片へと向いた。
「酒を最後に飲んでいたのか」
「変ですね。召し上がる方ではないのですが」
千草は懐紙を取り出し、割れた猪口の縁の破片をそっと拾い上げた。爪で破片の内側を擦り、指先を鼻に近づける。
「……英一郎さん」
「何だ。親父の好きな酒の銘柄でも分かったか」
「大旦那様の死因は、心臓麻痺なんかじゃありません」
千草の声色は、冷水のように冷たい。
「この猪口の縁……見込みの絵柄から手前半分にだけ、烏頭の猛毒――アコニチンが塗られています。反対側の縁には塗られていません。……絵柄を手前に向けたまま口をつければ、中毒症状を起こして絶命します」
英一郎の眼光が、ふっと据わった。
「他殺、だな」
「はい。大旦那様がご自分で仕掛けるはずがありません。手慣れた者が、酒を酌み交わすふりをして大旦那様の前にこの猪口を差し出し、毒のある縁へ唇を誘導したのです」
「……身内だな。親父の実験小屋へ気兼ねなく上がり込めて、酒を持参できる奴だ」
英一郎は乾いた息を吐く。
「親父を殺し、遺産を横取りしようとしている奴が、身内にいるわけだ。……千草、この猪口の細工、覚えておこう」
「ええ。……許せません」
千草は一度、深く息を吸って吐いた。そして、床に散らばった植物の残骸の前にしゃがみ込むと、千草の顔から雑念が消えた。十六歳の娘の眼配りは、先祖代々の血を引く職人のそれであった。
千草は煤けた煉瓦の隙間に落ちた黒ずんだ根を指先で拾い上げ、爪で裂いて繊維を確かめた。さらに床の土を一握りすくい、掌で揉み崩して鼻先へ寄せ、深く匂いを嗅ぐ。
「……酸性が強いですね。このあたりの土じゃありません。水はけを極端に良くして、それでいて養分が抜けないよう腐植質壌土と砂壌土をわざわざ調合してあります」
「西瓜の苗床じゃあるまいし、ご苦労なことだな」
「大旦那様は、地温を無理やり下げるために川の冷水を循環させていました。夏の西瓜にそんな大仕掛けは要りません」
「そこから何がわかる」
「大旦那様が育てようとしていたのは、ただの高山植物じゃないわ。北米、それもアパラチア山脈の奥地にしか自生しない高山性の薬草……『セネガ』の原種です」
千草は土を払いながら言葉を続けた。
「セネガの根に含まれるサポニン配糖体は、気道粘膜を刺激して激しい咳を鎮める効果があります。いま日本中の医者が喉から手が出るほど欲しがっている去痰剤の王様。だけど……」
千草は立ち上がり、黒ずんだ搾り滓を見下ろした。
「セネガは夏の高温多湿に極端に弱い。真夏が蒸し暑いこの東京の土で育てるなんて、植物を知る人間なら誰もが『阿呆の狂い咲き』と笑います」
「だが親父は、その阿呆を本気でやろうとして図面を遺した」
英一郎は外套のポケットから、宗蔵の遺品であったあの植物図譜の写しを取り出した。
「……いつの間に持ち出したんです」
「手癖だ」
紙面には、等高線と土壌配合の数値がびっしりと書き込まれている。
「この落書きの解読と、親父が仕込んでいたカラクリを解きに行く。千草、羽織を着ろ。出かけるぞ」
「どこへ行くんですか。片付けの仕事が残っています」
「神保町だ。軍の横流し品と舶来の裏情報に通じた、古本屋の顔を拝みに行く。……ついでに、美味い珈琲を飲ませてやる」
「……甘味もお願いします」
千草は手早く前掛けを外し、煤けた小屋の閂を下ろした。




