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1 父の死

 明治三十三年の晩秋である。

 東京の北の端、巣鴨庚申塚(こうしんづか)のあたりには、大小二十軒ばかりの種子屋が申し合わせたように軒を並べていた。そのなかにあって、黒漆の板に金箔で「染井堂」と彫り抜いた大看板を掲げる店は、同業者たちのあいだでも少々始末に困る奇物として通っていた。

 もとは江戸近郊のしがない種問屋にすぎない。それが幕末のどさくさに、財政難で投げ出された幕府直轄「巣鴨薬園(すがもやくえん)」の薬守(やくもり)一族を丸ごと引き取った。彼らが持っていた外来種の芽を出させる小器用な手先と、近隣の百姓を巻き込んだ原料づくりが時流に乗ったのである。わずか三十年で、薬を仕立てて売り捌くまでを一手に握る大身代へ化けてみせた。成り上がり特有の、鼻持ちならない手腕である。

 ところが、その店を継いだ当主・西ヶ原宗蔵(しゅうぞう)という男の歯車は、ある日を境に調子を狂わせた。

 陸軍へ生薬をねじ込む足がかりにしようと、一人息子の英一郎を士官学校へ押し込んだまではよかったが、あろうことか息子は教官の鼻柱を叩き折って退校処分を食らった。面目を丸つぶしにされた宗蔵は逆上し、息子を棒杭(ぼうぐい)のように叩き出した。

 この挫折の穴埋めだったのか、はたまた老いらくの意地だったのか。宗蔵の植物への執着は、見ている方が気味悪くなるほどの熱を帯びはじめた。

 滝野川のほとりに煉瓦造りの実験小屋をこしらえ、舶来の減圧釜を据え付け、谷川から冷水を引き込んだ。東京の煮えるような酷暑のなかで、北米の高山にしか生えぬ生薬を人工的に仕立てようというのである。

「あいつは気違いだ」

「代が替わると碌なことがない」

「西ヶ原の身代もあの阿呆の代で仕舞いさ」

 日本橋の薬種街あたりでは、誰もがせせら笑った。だが宗蔵は世間の雑音に耳も貸さず、薄暗い煉瓦小屋に引きこもり続けた。

 その男がくたばったのは、昨日のことである。

 女中が着替えを運んで扉を開けると、土と草の青臭い匂いが淀む土間で、男はとうに冷え切っていた。医者の見立ては心臓麻痺である。

 死体のまわりには、煮崩れて黒ずんだ異国の根っこと、殴り書きの図面が散乱していた。傍らには、昨夜ひっかけたらしい備前焼の片口と、無残に砕け散った猪口の破片が転がっている。なんとも締まらない幕引きであった。

「兄さんが冥土へ行った以上、この染井堂の暖簾は、勘定を預かってきた俺が引き継ぐのが道理というものだ」

 大広間に響いたのは、弟の宗三郎(しゅうざぶろう)の濁った声である。背後には、いかにも分け前にあずかろうという卑しい目つきの妻子が控えていた。

「兄さんがあの実験小屋へどれほどの金を注ぎ込んだか、ご存じないわけではありますまい。おかげで私は同業者に頭を下げ通しだった。母上、店の差配は私にお任せ願いたい」

「そうですわ。英一郎さんにでも渡そうものなら、道楽で家が潰れてしまいます」

「そろばんを弾けるのは、やはり宗三郎さんだけです」

「黙っておいで、宗三郎」

 上座から、乾いた一喝が飛んだ。

 宗蔵と宗三郎の母、トヨである。七十を越えてなお眼光の抜けぬこの老婆は、一族にとって頭の上がらぬ重石であった。

「宗蔵の倅は英一郎だよ。騒いでないで待つんだね」

「待つとは何をです」

「宗蔵は遺言状を認(したた)めてあるのさ」

「な……! 兄さんは急死だったはずでは」

「そうさ、急死だよ。親より先に逝くような親不孝者さ。だがね、万一のへまがあった折に一族がどう身を処すべきか、あたしが毎年あいつに書かせておいたのさ」

「な、ならば今すぐ封をお切りください!」

「待てと言ったら待つんだよ。英一郎が来るまで、遺言状には指一本触れさせやしない。文句があるなら、このトヨを叩き出してからお言いを」

「し、しかし母上、あんな軍を追い出された落伍者に……!」

 醜い罵り合いのすき間へ、若い女が音もなく茶を差し出した。

「お祖母様、皆様、どうかお心を鎮めて。お茶が入りましたわ」

 鈴を転がすような声音で座を宥めたのは、山瀬芙美子(ふみこ)であった。

 没落した士族の娘であり、放蕩に沈む英一郎をなんとか一人前に仕立て直そうと、トヨが一年半ほど前にあてがった許嫁である。透き通るような肌に、仕立ての良い矢絣の着物。しとやかに老婆の背をさする佇まいは、欲の皮の突っ張り合った広間において、唯一の清涼な良心に見えた。

 その跡目争いも、許嫁の愛想笑いも、遺体の第一発見者である十六歳の女中・千草(ちぐさ)にとっては、路傍の犬の遠吠えほどの手応えもなかった。

 土間と奥を行き来しながら、千草は手元の天秤に視線を落とし、手際よく種子を選り分けていく。

「……昨日届いた黄連(オウレン)、根の乾きが甘いわね。カビるから廃棄棚へ」

 幕府薬園の血を引く彼女にとって、人間の喚き声などよりも、土の湿り気や種子の艶(つや)のほうが、よほど正直で信を置くに足る事実であった。

 千草の視線が、宗蔵の遺品である紙片に向く。

(……妙ね。大旦那様が最後に弄くっていた配合、いつもの寒冷地の草じゃない)

 等高線と土壌の数値。門外漢には狂人の落書きに見えるが、千草の眼には、どこか険しい山脈の断面図に見えた。

 その時である。

 軋んだ音を立てて表の格子戸が開いた。

 晩秋の隙間風とともに、一人の男が何の気兼ねもなく敷居を跨いできた。

 仕立ての崩れた洋服に、薄汚れの目立つ外套。浅黒い顔には睡眠不足の濃い隈が落ち、無精髭の生えた頬には、かつてのエリート候補生としての面影など欠片もない。安酒場に頭まで浸っていた男――英一郎であった。その足取りには、世間の一切を投げやりにながめる倦怠がまとわりついている。

「……叔父さん、少し声を落とせよ。表まで丸聞こえだ」

 低く、抑揚のない声であった。

 広間の視線が一斉に入り口へ吸い寄せられる。

「英一郎……! 貴様、実の父親が果てたというのに、どこで油を売っていた!」

 宗三郎が顔を真っ赤にして立ち上がった。

「士官学校を叩き出されただけでも家の恥辱だというのに、親の死に目にも間に合わん大馬鹿者が!」

 英一郎は叔父の怒声に視線すら合わせず、湿った革靴を脱ぎ捨てて土間へ上がった。

 帳付の隅で淡々と手を動かす千草の木箱へ目を落とす。乾ききっていない黄連の根を一瞥した。

「……その黄連、芯に湿気が残っているだろ。積めば明日には白カビだ。……親父は何か残してたか」

「いま廃棄しようとしていたところです。触らないでください。酒臭いですよ、英一郎さん」

 千草は英一郎の顔も見ずに木箱を引き寄せ、素気なく答えた。

「こりゃ失敬」

「大旦那様が最後に残した紙はそちらです」

「そんなもの、苦しみ紛れの悪あがきだ!」

 広間から宗三郎が吐き捨てる。

「……そうか。親父、最後に下らん悪戯を仕掛けて逝ったのか。まったく偏屈な人だ」

 英一郎は乾いた息を漏らすと、大広間へと向かった。

 淑やかに佇む芙美子と視線が交錯する。芙美子は微かに憂いを含んだ眼差しを向けてみせたが、英一郎は何の感慨も抱かぬまま、その視線を素通りさせた。

 仏間に上がり、父親の亡骸の前に座ると、形ばかり手を合わせる。漂う線香の煙をただぼんやりと見つめながら、背後の一族へ振り返りもせずに言った。

「ばあさん。親父の遺言状があるんだろ。……退屈凌ぎに、開けてみたらどうだ」

 英一郎の瞳には、家督への執着も、親族への敵意もなかった。ただ、自分を士官学校に送り込み、しくじれば叩き出し、自身は薄暗い小屋に籠もり続けたあの偏屈な男が、死に際にどのような謎を遺したのか――それを暴いてみたいという、気まぐれな好奇心が微かに宿っていた。

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