29 千草の想い
「お前は、自分の生き死にまで合理的に片付けられるのか。俺と形ばかりの所帯を持つんだぞ。あんな強欲な婆さんや、親族どもの巣窟に、一生首輪を嵌められるんだぞ」
千草はゆっくりとノギスを布の上へ置くと、ようやく振り返った。
薄暗いカンテラの火を映した瞳は、太平洋を渡って命懸けで原種を取って来た時の意気込みのような気迫があった。十七歳の娘らしい揺らぎなどそこには微塵もない。
「形ばかりであろうと、首輪だろうと、何でも構いません」
千草は手を伸ばし、冷え切った細い指先が、英一郎の着物の袖口をかすめ、無骨な手の甲に触れる。
氷のように刺す冷たさに、英一郎の眉がわずかに動いた。
「……大旦那様は、誰の手も借りず、一人で小屋に籠もり、最後は一人で冷たくなって果てました」
千草の声色は、冬の川水のように低く澄んでいた。
「ああ」
「私は、あの人のようにはなれません」
「ババアは親父より優秀だと言ってるぞ」
「……どんなに種や草に詳しくても、どれほど立派な温室を建てても、一人ではボイラーの火も焚けないし、土も持ってこれない。船底で刃物を使う時、手の震えを押さえてくれる人もいない。……そうやって一人で冷え切って腐っていくのは、御免です」
千草の指先が、英一郎の節くれ立った掌を、確かめるように強く握り直した。
河原で低体温に震えながら、男の頸動脈の拍動に額を押し当てていたときと同じ、理屈を越えた生存への執着であった。
「……貴方が私の前で邪魔者を倒して、私に火を焚いてくれるなら。私は西ヶ原千草になって、貴方に添い遂げます」
淡々とした、だが一片の退路も残さぬ小娘の物言いであった。
そこで、少しだけ目を伏せて千草は付け足す。
「……それに」
「まだあるのか」
「……あの女に、芙美子さんには渡しません」
英一郎は短く息を吐いた。
「……可愛げのない奴だ」
英一郎はそう呟くと、千草の凍えきった両手を己の掌で乱暴に包み込み、摩擦の熱で擦り合わせた。擦り切れた皮膚の痛痒とともに、男の熱量が少女のかじかんだ指先へじわりと染み込んでいく。
「身分契約だの流出防止だの、小賢しい理屈を並べるな。手が冷たいなら『温めろ』と素直に言えばいいんだよ」
「……痛いです。もう少し手加減してください」
「注文が多いな、新妻殿は」
悪態をつきながらも、英一郎はその手を離さなかった。
千草は男の掌の熱をじっと受け止めながら、ふっと肩の力を抜いた。無機質な職人の面に、ほんの僅かだけ血色が戻る。
「……英一郎さん」
「何だ」
「滝野川の水温をあと半刻で測りに行きます」
「ああ」
「暗いと足元が危ないので、提灯を持ってついてきてください。……夫なんですから」
「……へいへい。初仕事が夜道照らしとは、いいご身分だ」
英一郎が苦笑して頭を掻くと、千草は温まった手をそっと引き、再び小刀を握ってセネガの鉢へと向き直った。
地下室に響くのは、暗渠を走る冷水の水音と、コークスの残り火が爆ぜる音だけである。
数ヶ月後。
初夏の風が、赤煉瓦の煙突から吐き出される煤煙を東へ流していた。
染井堂の表門には、真鍮の真新しい社名板が掲げられている。
『合資会社 染井堂製薬製剤所』
現場の武力と対官交渉を握る英一郎。
植物の生理と抽出工学を統括する千草。
そして、財務と海外取引を回す芙美子。
宗蔵の遺した工房は、巨大資本に対抗し得る製販統合の企業として再編されていた。
神田や日本橋の問屋から差し向けられた小僧たちが、出荷を待つ木箱の間を行き交っていた。温室は三棟に増築され、高床棚にはセネガの二期目の苗が青い葉を広げている。地下の減圧蒸留塔は昼夜を問わず稼働し、規則正しい排気音を響かせていた。
「英一郎! このバカ垂れが! 領収書の宛名が『品川の銃砲店』になってるたぁどういう了見だい! また勝手に弾薬を買い込みやがって!」
奥座敷から大奥様の怒号が響く。
帳場の机で煙草を燻らせていた英一郎は、鼻を鳴らした。
「陸軍衛生部と演習場へ出向くのに手ぶらで行けるかよ。渉外交際費だ」
「見苦しいですわ、英一郎さん」
向かいの席で、濃紺のウールスーツを着た芙美子が当座帳から目を上げずに言った。
「今月の渉外費はすでに予算枠を超えました。超過分は貴方の報酬から天引きいたしますわ」
「おいおい、山瀬。俺が軍医監の親父どもを酒席で口説き落としたからこそ、満州配備用の追加七万本が決まったんだろうが」
「功績と経費の濫用は別の話です。公私の分別がつかない阿呆は組織を内側から腐らせます」
「……阿呆」
横で乳鉢を動かしていた千草が、すり潰した粉末を薬匙ですくい上げた。
「英一郎さんの浪費は統計的に傾向があるので、最初から損失引当金を積んでおくべきです」
千草は十七歳になり、十数人の年配薬工を従える最高技術責任者となっていた。白衣の袖口には、生薬の脂とアルコールの匂いが染み付いている。
「英一郎、早くこっち来るんだよ!!」
また奥座敷から怒号響く。
「……行ってくるか」
「ああ、英一郎さん。それから千草さん。後で実験室にいらして」
何事も無いように芙美子が告げる。
一瞬、千草手が止まり、無言で頷く。英一郎もまた手で返事をして、重い足取りで奥座敷に向かって行った。




