28 三人の距離感
深夜二時。
巣鴨の敷地を抜ける夜風が、温室の硝子をかすかに軋ませていた。
店の帳場では、芙美子が更紗の袖をまくり、手帳に万年筆を走らせていた。机の上には貸借証文と納入台帳が積み上がっている。
「まだ寝ないのか、山瀬」
湯呑みを手に、英一郎が素足に下駄を引っかけて入ってきた。
「今は、寝る間などありませんわ。大奥様から引き継いだ台帳の記載漏れが三十二箇所。明朝までに滝川大尉へ届ける承諾書に一分の狂いも許されませんもの」
芙美子は顔も上げずにペンを滑らせる。英一郎は机の端に湯呑みを置き、番茶を注いだ。
「適当に端数を丸めときゃいい。陸軍の主計官なんざ、帳尻が合ってりゃ文句は言わん」
「貴方のその大雑把さが、組織の毛細血管を詰まらせるのです」
芙美子は冷めかけた茶を一口啜った。
「染井堂がこれから躍進するには、これの積み重ねが必要になってくるのです」
英一郎は机の角に腰を預け、煙草に火をつけた。
「……よくやる。元はお前の親父の負債を埋めるための政略結婚の相手だった男だぞ、俺は。今さら屋台骨を一人で背負う筋合いもなかろうに」
「買い被らないでいただきたいわ。わたくしが守っているのは、貴方でも西ヶ原の家名でもありません。自らの才覚で再興する山瀬家の矜持です。……貴方とわたくしの許婚の約定など、太平洋の藻屑になりましたわ」
互いの急所と利害を理解し合った者だけの距離感。
「わたくしたちがまた肌を重ねたり情に流されたりすれば、この染井堂の組織はたちまち濁ります。情実や曖昧さで繕った帳簿の商会など、外資に狙い撃ちされますわ」
「違いない」
英一郎は嗤った。
「抱き合って数字を誤魔化すくらいなら、背中合わせで銃を構えてる方が性に合ってる」
「ええ。ですから貴方はせいぜい次に外で働く時の為に、貴方の暴力を磨いておいでなさい。数字と契約と金庫の鍵は、わたくしがしっかりと管理して差し上げます」
深夜の帳場に、ペン先が紙を削る規則正しい音だけが響く、二人の盟友関係であった。
「さあ。私はまだ仕事が残っています。こんなところで油を売ってないで、千草さんのところに行ってらして。でないと、私が疑われてしまいます」
「いや、疑われてもな。それに千草は」
「黙りなさい。貴方の大事な役目です」
帳場を追い出された英一郎は、夜気の淀む渡り廊下へ出ると、素足に引っ掛けた下駄を引きずって歩いた。
母屋の奥は寝静まり、耳を澄ませば遠く板橋方面へ向かう夜汽車の汽笛がかすかに響くだけだ。
だが、敷地の裏手、滝野川の冷水を引き込んだ半地下の実験室からは、板戸の隙間を縫って橙色のカンテラの光が漏れていた。青臭い生薬の澱みと、湿った石灰礫の匂いが夜風に乗って漂ってくる。
「……懲りん奴だ」
英一郎は引き戸を横へ滑らせた。
ひやりとした冷気とともに、地下水が管を抜ける水音が迎える。
土間の中央、薄暗いカンテラの真下で、千草は板敷きの上に胡坐をかき、昼間植え付けたばかりのセネガの根鉢を覗き込んでいた。手には真鍮のノギスと小刀。脇には、日中の地温と水温の推移をびっしりと書き殴った帳面が転がっている。
トヨから祝言を言い渡され、跡取りの妻に据えられた当夜だというのに、この小娘の頭にあるのは昼と変わらぬ土と根の記録であった。
「……夜業か、新妻殿」
英一郎が声をかけると、千草は視線すら上げず、ノギスの刃先を根元へ当てたまま返した。
「足音を忍ばせてください。土粒が踊ります」
「下駄は脱いできた。文句を言うな」
英一郎は作業台の縁へ腰を下ろし、外套から煙草を取り出しかけたが、千草が無言のまま向けた冷ややかな横目に気づき、舌打ちして懐へ戻した。
「……根はついたのか」
「まだです。アパラチアの採取土と巣鴨の軽石が馴染むか、ここ何日かが峠です。二時間おきに制水弁の流量を改め、地温を摂氏十一度に維持しているところです」
「寝ずの番か。相変わらず、己の無茶には鈍いな」
「必要な手順です」
千草は小刀の刃先で、礫の隙間に埋もれた細根の先端をそっと確かめた。
その白くひび割れた指先には、船底で擦り込んだ鯨油の獣脂と、先刻まで扱っていた酒精の匂いが染み付いている。
英一郎は、縁側で耳朶を打ったあの声を思い出していた。
――『私を一生、温めて、守ってくださいね』。
まるで道具の手入れでも求めるような声音だったが、妙に耳の奥へ引っかかって消えなかった。
「千草」
「何です。話しかけられると、水銀柱の目盛りが頭から抜けます」
「……婆さんの言う通りにする気か」
千草の手が、わずかに止まった。
だが振り返りもせず、背中を向けたまま平然と答える。
「大奥様の仰る通りです。私はただの薬守の娘です。もし外資や他所の薬種問屋が、染井堂の倍の設備と潤沢な資金を積んでくれば、職人として心が動かないと言えません。……それを防ぐために『西ヶ原』の苗字を頂く。極めて合理的な防衛策です」
「合理的、ね」
英一郎は鼻を鳴らし、作業台から降りて千草の背後へ間合いを詰めた。




