27 三人の役割
深夜。染井堂の大広間には、今日の大商いを聞きつけて戻ってきた分家の親族たちが、居心地悪そうに座布団を温めていた。
そこへ、廊下から怒声が轟いた。
「どきな、邪魔だよッ!」
格子戸が乱暴に開かれ、黒縮緬の羽織を肩に引っかけたトヨが、千草を従えて大広間へ踏み込んできた。
親族たちが幽霊でも見たように青ざめる。。
「お、大奥様……!? お身体は……!?」
「お前。あたしがくたばったと思って、宗蔵の機械を鉄屑呼ばわりしてくれたそうじゃないか、ええ!?」
トヨは手にした煙管の雁首を、最前列の親族の鼻先へ突き出す。
「商会が借金を吹っかけてきた時には蜘蛛の子を散らすように逃げ出しておいて、軍が金を落とすと分かった途端に座敷へ上がり込むたぁ、いい度胸だ。英一郎! この屑どもを残らず追い出せ!塩を撒いておくんだよ」
「……元気で何より」
敷居際で腕を組んでいた英一郎が肩をすくめた。
背後から出入りの鳶職人たちが現れ、親族たちの襟首を掴んで土間へ引きずり下ろしていく。喚き声が門外へ放り出され、大広間に静寂が訪れた。
トヨは座卓の正面に腰を据え、煙管に火を吸い付けた。紫煙を吐き出し、三人を順に見据える。
「……さて。外の掃き掃除は済んだんだ。内輪の整理をしようじゃないか」
まず英一郎へ視線を投げる。
「英一郎。お前は士官学校を出て無頼の真似事をしてきたが。今回、図面を読んで、命がけで二人を守って生還した。……お前の役目は『営業と渉外』がいいね。陸軍衛生部、海軍軍医、それに全国の問屋の元締めどもを相手に染井堂の製品を売りつけてこい。軍と官の言葉で商売ができるのは、この家じゃお前一人だ」
「わかった。引き受けよう」
次にトヨは千草を見つめた。
「千草。お前の腕は宗蔵以上だ。……お前を染井堂の『最高技術責任者』に据えるよ。研究と製造に関する全権を握りな。誰一人、お前の指図に口を挟ませやしないよ」
「承知いたしました」
千草も深くと頭を下げた。
そして最後に、トヨは煙管を置き、正面の芙美子を射抜くように見た。
「山瀬の娘さん」
「はい、大奥様」
「あんたの手帳、見せてごらん」
芙美子は躊躇なく黒革の手帳を差し出した。
トヨは親指で素早く頁をめくっていく。資材の調達単価、関税率、陸軍への納入マージン、染井堂の粗利――整然と並ぶ数字の配列を検分し、唇の端を上げた。
「……見事なもんだ。これほど綺麗に把握する奴は、この店には今までいなかったんだよ。あんたを染井堂の『財務・海外貿易責任者』に任命するよ。金庫の鍵と印鑑はすべて預けるよ。国内の帳簿の締めから、将来の海外輸出まで差配してごらん」
「身に余る光栄ですわ」
芙美子は手帳を受け取り、胸元へ収めた。
「染井堂の能力を極限まで引き上げて差し上げます。……ただし、事前に取り決めた純利益の三割、頂戴いたしますわ」
「ふん、持っていきな。稼いだ分だけ毟り取るのが真っ当な商人ってもんだ」
老女の高笑いが広間に響いた。ひとしきり笑った後、トヨはもう一つの話を切り出した。
「……それともう一つだ、英一郎」
紫煙の棚引く座敷の真ん中で、トヨが煙管の雁首をトントンと灰落としに叩く。鈍い竹の音が板の間に響く。
「まだ何かあるのか」
「千草と直ぐに祝言を挙げな。籍を入れちまうんだよ」
広間の空気が、冷水を差されたようにすうと静まった。
千草は小首を傾げただけで眉一つ動かさず、芙美子もまた、膝の上に置いた手帳を静かに押さえたまま身じろぎもしない。
「……おい、婆さん。千草はまだ十七だぞ。冗談にしては質が悪い」
英一郎が眉根を寄せるが、トヨの微動だにせず、英一郎を見据える。
「歳の差なんざ問題じゃない。山瀬の娘さんは『利益』で繋ぎ止めておける。数字で得をする限り、この娘は裏切りやしないよ。……だが千草、あんたをこの店に縛りつけているものは何だい。宗蔵が遺した温室と機械という『環境』だけじゃないか」
老女の声が、千草の華奢な肩を射抜くように突き刺さる。
「他所の巨大資本が倍の設備と潤沢な研究費を用意して誘いをかけてごらん。あんたはあっさり袖を振って出て行くだろうさ。暖簾への義理もないだろう。だからね、西ヶ原の苗字を背負わせ、家の内輪に囲い込むしかないんだよ。……英一郎、あんたがこの娘を一生守り抜く覚悟を決めな。それが跡取りの務めってもんだ」
家督の存続と技術の独占を第一に置く、成り上がりの商家らしい生々しい打算である。
「……千草の気持ちはどうなる」
英一郎の逡巡を他所に、当の千草はまるで他人の処方箋でも吟味するように淡々と受け止めていた。
「……技術の独占と人材流出防止のための身分契約ですね」
「いや、千草。身分契約って」
「染井堂の設備と資金を自由に使って研究する権限が保証されるなら、私に異存はありません。合理的な防衛策です」
「ほら見ろ。千草の方がよっぽど腹が据わってるじゃないか。……芙美子さん、異存はないね?」
トヨが視線を向けると、芙美子は薄く唇の端を持ち上げ、万年筆の尻で手帳の紙面を軽く叩いた。
「ええ、微塵も」
涼やかな声音であった。かつて英一郎にあてがわれた許嫁としての感傷など、初めから持ち合わせていなかったかのような、澄み切った無機質さである。
「婚姻による技術資産の囲い込みは、欧州の同族企業でも常套手段ですわ。これで染井堂の技術流出リスクは防がれました。大奥様の慧眼、恐れ入ります」
血族の鎖で縛る老婆、損得で割り切る元許嫁、そして研究のために身分を差し出す少女。
英一郎は額に手を当て、喉の奥で苦い息を漏らした。この偏屈な薬屋の屋根では、祝言の盃さえも取引の道具にすぎないらしい。
縁側で煙草に火をつける英一郎の横へ、千草が音もなく歩み寄った。吐き出された紫煙の向こうから、耳元へかすかな吐息が触れる。
「私を一生、温めて、守ってくださいね」




