26 千草の報告
その日の夕刻、黄金のシロップを詰めた十本の遮光瓶が、帳場の黒漆の座卓に並べられた。
先日三人へ嘲笑を浴びせていた薬種問屋の主たちが、滝川の手配によって大広間へと呼び集められていた。
「これは……」
問屋の長老格が、恐る恐る匙に落とされた黄金の液を舌先に乗せ、目を見開いた。
「苦味が……喉を通った瞬間に清涼感に変わる……! それに、この粘度と透明度は何だ。煎じ薬でも、舶来のチンキでもあり得ん。水で割っても一切濁らんぞ……!」
「米国のパーク・デイビス社が軍に納入しているチンキより、純度も芳香も上じゃないか!」
ざわめく商人たちの前へ、芙美子が新しい契約書の束を持って進み出た。
「帝国陸軍衛生部から、本製剤の初期生産ロット千打の一括納入内示書が交付されましたわ」
広間が静まり返る。
「民間向けの卸売枠は、山瀬家が統括する代理店を通じてのみ配分いたします。前受金を本日中に納入される問屋に限り、優先割り当てを検討いたしましょう。……一口、五百円。手形ではなく、正金を」
直後、われ先にと懐から現金の束を取り出す商人たち、それでは足りないと小僧を店に走らせる商人も。大広間は大混乱となった。
夜の帳が降りる頃。
金庫には、前受金として積み上げられた現金の山と、陸軍省の発注証書が収められていた。
芙美子は手帳に最終的な収支額を書き込み、万年筆のキャップを閉じる。
「……一日で、初年度の利益計画を四割上回りましたわ」
「……凄まじいな」
千草がその数字を認めた書状を懐に収め、提灯を手に出かける支度を整えていた。
「では、行ってまいります」
小石川にある東京市養育院。その一番奥、石炭酸の臭いが漂う病室の前へ、千草は向かった。
養育院の最奥に位置する四畳半の特病室。
板壁のカルテには『脳動脈硬化症ニ基ヅク昏睡、予後不良』と陸軍軍医の毛筆で記され、万年床の煎餅布団の上には、百日余りにわたり寝たきりとなっていた老女――染井堂の大奥様、西ヶ原トヨが横たわっていた。
頬の肉が削げて骨の輪郭が浮き、浅い呼気だけが枯れ枝のような喉仏をかすかに震わせている。
板戸を静かに開け、千草が入室した。
手元には英一郎と芙美子の連名による収支報告書、そして『染井咳止液』を詰めた遮光硝子瓶がある。
千草は枕元に正座し、布団の端に手を置いた。
「大奥様。千草です。……報告を差し上げます」
返答はない。枕元の水呑み器の水面がわずかに揺れるのみである。
千草は帳面を開き、感情の起伏を排した声で事実と数字を並べ始めた。
「東洋殖産興農社からの請求二十万円ですが、詐害行為と特別背任が立証されて、全額無効となりました。差押えの公示票はすべて破棄され、黒川専務は警察に拘引されました」
老女の瞼が、かすかに動く。
「米国アパラチア山中より持ち帰った野生セネガ原株四株は、巣鴨の温室で萌芽を確認しました。さらに、ギレアド樹脂を用いたサポニン配糖体の完全抱合に成功。分離沈殿しない去痰生薬製剤『染井咳止液』の第一ロットが完成いたしました」
千草は遮光瓶のコルク栓を抜き、枕元へ近づけた。
蜂蜜と樹脂、そして生薬の苦味が混ざり合った清冽な香気が、病室の空気を洗い流す。
「本日正午までに、陸軍衛生部より初期発注千ダースを受注。さらに神田・日本橋の薬種問屋十四軒より、優先卸枠の前受金として正金五千円をお預かりしました。……染井堂の当期純利益は、本日だけで前年同期比四割増の黒字へ転換いたしました。以上です」
千草が報告書を畳み、一礼して立ち上がろうとした瞬間だった。
「…………つまり。勝ったのかい!?」
掠れた、だが異様な張りのある声が病室に響いた。
百日余り昏睡していたはずの老女の両眼が見開かれ、枯れ枝のようだった上半身がゆっくりと起き上がる。千草慌てて支える。
「大奥様……?」
「五千円の前受金!? 陸軍の千ダース!? ……千草、あんた、なぜそれを先に言わない。こっちは布団の中でやきもきしてたんだよ」
「昨日までは確定数値ではありませんでした」
「堅物めが。……着物を持ってきな、巣鴨へ戻るよ。どいつもこいつも、あたしが寝ている間に店を荒らし放題にして!」
騒ぎを聞きつけた看護卒や当直医が駆け込んできた時には、すでにトヨは着物帯をしっかりと締め、千草の手から薬瓶を引ったくり、琥珀色のシロップを一気に喉へ流し込んでいた。
「……フン、宗蔵め。最後に銭になる薬を拵えたね」
老女は喉を鳴らして笑い飛ばした。
「さあ行くよ! 親族どもに、誰が染井堂を担うのか、刻みつけてやろうじゃないか」




