25 染井堂の咳止液
晩冬の張りつめた空気が、巣鴨の敷地を覆っている。
「千草、水路の泥を掻き出したぞ。取水堰を開ける」
英一郎は手甲を外し、温室の外壁沿いに走る暗渠の鋳鉄蓋を持ち上げた。
制水弁の角ボルトへ大型レンチを噛ませ、右へ三回半、力任せに回す。
ゴボ、ゴボボッと重低音が地底で鳴り、暗渠の陶管を通じて滝野川の冷水が流れ込んできた。床下に張り巡らされた鉛管と多孔質陶管の循環網が熱を奪っていく。
「地温の計測を始めます」
千草は前掛けの紐を締め直し、水銀温度計を温室の培地ベッドへ刺した。
温室内の気温は日差しを受けて摂氏十七度。だが、暗渠配管が通る礫層の直上は、冷水の気化熱と管壁の熱伝導によって見る間に水銀柱を下げ、十一度の目盛りでぴたりと止まった。
「根圏温度が、……摂氏十一度付近で固定されました」
千草は手元に並べた木樽の蓋を次々と開けていく。
日光産の多孔質鹿沼軽石、富士山麓の玄武岩火山礫、そして深山の腐葉土を陰干しして篩にかけた微粉砕土。巣鴨薬園に伝わる用土の配合である。
千草は両腕を木樽の底まで入れ、アパラチアから持ち帰った母土を混ぜ合わせた。
「この土に、アパラチアの石灰岩から採取した外生菌根菌の休眠胞子が含まれています」
団粒構造を潰さぬよう、指の隙間から土を均等に解いていく。
「巣鴨の多孔質礫層にこの胞子を接種し、菌糸網を培地全体へ先に張り巡らせます。土が生きていなければ、北米の原種は根腐れを起こします」
高床棚の底に粗い石灰砕石を三寸敷き詰め、その上へ菌糸を混ぜ込んだ配合土を広げると、滝野川の清水を手竹から微細な霧にして打ち水した。
注がれた水分は礫の間を透過し、余分な湿気は暗渠の排水溝へと抜けていく。常に湿潤な空気の流れだけを求めるセネガ根系の生理に合致した環境である。
千草は真鍮の手鋤で礫層に穴を穿ち、セネガの根塊を据えた。親指の腹で土を軽く押さえ、最後に竹筒から極微量の木酢留分を希釈した冷水を注ぎ込む。
温室の外では、異変を聞きつけた薬種問屋や植木職人たちが遠巻きに群がり嘲笑している。
「宗蔵の倅と小娘が、また気狂い沙汰を始めよったぞ」
「北米の薬草を巣鴨で植え替えるだと? 霜が降りれば一晩で黒変して腐るに決まっとる」
「借金を帳消しにしたところで、土相手に虚勢は通らんよ」
英一郎は煙草を燻らせたまま外の雑音を一瞥もしない。芙美子もまた、手帳に土壌資材の仕入れ値を書き留めながら視線を落としたままだ。千草に至っては、声など聞こえぬかのように、表面に敷くミズゴケの厚みを真鍮のノギスで測り続けていた。
それから三日が過ぎた。
四日目の朝、関東平野に初霜が降り、巣鴨の雑木林は白銀の霜柱に覆われた。
問屋の連中が「それ見ろ、全滅だ」とせせら笑いながら集まってきた時、千草は静かに温室の引き戸を開け放った。
「皆様おはようございます。――検分されますか」
朝の斜光が硝子屋根を透過して差し込む。
高床の栽培棚の上。
白霜の降る外界とは隔絶された礫層の表面から、鮮烈な翠緑の葉が角礫を押し退けて力強く立ち上がっていた。植え付けられた四株の原種、そして播種された種子のうち数十の小粒な緑の芽が、湿潤な礫の間から天空へ向けてピンと双葉を広げている。
アパラチアの断崖で風雪を耐え抜いた原種そのものの、太く節くれ立った軸。
地下の冷水配管が根を冷やし、共生菌がミネラルを供給し、温室の暖気が光合成を促す。宗蔵の構想を千草が形にした人工的な「局所気候」が、東京の土地の上で結実していた。
「……な、芽が……出ている……?」
最前列の薬種問屋の番頭が、煙管を取り落として膝をついた。
「嘘だろ……セネガが、本邦の土で……しかもこの厳冬に新芽を吹いただと……!?」
「帝大の薬園が何千円も注ぎ込んで全滅させた代物だぞ……!」
「それを、こんな小娘が……二、三日で活着させただと……!?」
千草は言葉を失う大人たちを一瞥もせず、ピンセットで新芽の脇の微細な夾雑物を一筋抜き取った。
「驚くようなことではありません。土の組成と地温を整え、必要な共生関係を用意する。条件が揃えば、植物は成長します」
午後、赤煉瓦の半地下室にはボイラーの熱気が渦巻き、蒸留塔の配管が熱膨張による鈍い軋み音を立てていた。
「蒸気圧が規定値の上限に来ているわ。英一郎さん、バイパスの仕切り弁を開いてよろしくて?」
「待て。一次釜の熱分布がまだ均一じゃない」
英一郎は湿らせた油拭き布で真鍮管の継手を抑え、宗蔵の手稿と目の前の配管を照合していた。宗蔵が隠蔽していた「低温減圧抽出バイパス」である。
釜の底には、千草が粗挽きにして無水酒精に浸したセネガ乾燥根の懸濁液が沈んでいる。
「千草、樹脂の乳化状態は」
「相分離の兆候はありません」
千草は作業台の脇で、フラスコの中の琥珀色の液体を硝子棒で静かに攪拌していた。
バルサムポプラの粗樹脂を無水酒精に溶かし、微量の植物性脂肪酸を介在させて水性・油性の双方へ親和させた特殊な界面活性コロイドである。
「よし。バイパス弁を開放する」
英一郎がスパナで角型バルブのスピンドルをゆっくりと捻った。
シューッ、と甲高い蒸気音が管壁を抜けていく。減圧された密閉釜の中で、アルコール抽出液が摂氏五十度前後で激しい突沸を始めた。有効成分サポニンの熱分解を抑え込みつつ、酒精分だけを気化させて抜き取る極低温蒸留工程。
「千草、混和槽へ樹脂を入れろ」
「滴下します」
千草は微量注入器のコックを開き、減圧管の合流部へギレアド樹脂の溶液を霧状に吸い込ませた。
気化しかけたサポニン配糖体の分子へ、微細霧化された安息香の油滴が吸着していく。水溶液中で容易に加水分解を起こして失活するセネガの弱点を、古代の樹脂酸が被覆し、固定化していく。
冷却蛇管を通過した生成物が、蒸留塔最下部にある受液器の硝子窓の向こうへ滴り落ち始めた。
芙美子がコックを開き、試験管の縁へその滴を受け止める。
地下室の煤煙を押し退け、清涼な芳香が立ち込めた。
蜂蜜の甘さと、針葉樹の樹脂が放つ鋭い揮発臭、そして生薬特有の収斂味を内包した清冽な香り。試験管の中に透き通った黄金色のシロップが溜まっていく。従来の生薬エキスと違い、底に澱が沈殿せず、琥珀の結晶のように澄み切っていた。
「……相分離がありません」
千草が試験管を斜光にかざす。
「これなら常温で三年置いても沈殿しません。――完成です」
芙美子は試験管を掲げ、細く息を吐いた。
「『染井咳止液』……第一号ですわね」
その唇に笑みが浮かぶ。
「本邦の風土と技術だけで完結させた、最初の生薬製剤です……。居留地の外国商館が提示していた輸入薬の半値以下で供給できますわ」
英一郎は煤で汚れた額を腕で拭い、大型レンチを床へ置いた。ガウン、と重い金属音が反響する。
「親父の道楽が、ようやく形になったな」




