24 宗蔵の遺産
宗蔵と染井堂を縛ってきた債務は無くなった。
「……終わったな」
英一郎は短く息を吐いた。
だが、襖の陰に押し黙っていた親族や、出入りの薬種問屋たちから嘲笑が漏れ始める。
「……借金が消えたところで、何になるってんだ」
長老格の問屋主が鼻を鳴らした。
「宗蔵の旦那は死んだ。残されたのは赤煉瓦の設備と、荒れ果てた空っぽの薬園、それに道楽者の倅だけだ」
「セネガなんぞという北米の高山植物が、この湿気と熱気の巣鴨で育つはずがない。帝大の教授連中だって三日で根腐れさせたと聞くぞ」
「いくら借金を帳消しにしたところで、原料の生薬がなきゃ薬は作れん。あの蒸留塔もただの鉄屑だ」
商人たちの侮蔑が、座敷のあちこちから投げかけられる。
英一郎は何も言い返さず、芙美子も黙って周りを観察していた。
千草もまた無言のまま、背嚢から真鍮缶を取り出し、蓋の合わせ目へ小刀を差し入れた。
パキリ、と蜜蝋の目止めが割れる。
アパラチアの過酷な断崖の匂い――甘く清冽なギレアド樹脂の安息香と、湿潤な石灰礫土の鋭い匂いが大広間に広がっていく。
千草は缶の中から、青々とした葉を茂らせた野生セネガの生株を両手で引き抜いた。
純白の外生菌根菌をびっしりと纏った飴色の主根が、大広間の灯りの下に生々しい生命力を晒す。
商人たちのせせら笑いが止まった。
「……三日で腐らせるか、鉄屑になるのか。それはすぐに分かります」
千草は淡々と話す。
「英一郎さん、芙美子様。設備を開けてください。巣鴨の地にセネガを植えましょう」
英一郎たちは大広間を出て、まず店の帳場へと向かった。
帳場の奥には、横浜の洋行問屋を通じて据え付けられた英国ミルナー社製の耐火鋼鉄金庫が鎮座している。
緑青の浮いた厚さ三寸の鋳鉄扉に貼られていた、裁判所の赤い封印紙を剥ぎ取って開ける。
「差し押さえの際、商会の者が中身をすべて改めましたわ」
芙美子がカンテラの光を金庫の内部へ向ける。
「権利証書も預金通帳も、目ぼしいものは全て持ち去られた後です。残されているのは空の棚板と、無効になった古い領収の綴りだけですわ」
「あいつらの節穴ぶりは今に始まったことじゃない」
英一郎は床板に片膝をつき、腰の厚刃山刀を引き抜いた。
「親父は、銀行屋も役所もハナから信じちゃいなかった」
山刀の峰を逆手に握り直し、金庫底面の鉄板の隅へ峰の角を打ち当てた。
甲高い金属音が三度。
中央部を叩くと、跳ね返る響きがわずかに濁った。
「……空洞がある。リベットの頭が偽装だ」
英一郎は腰の拳銃から排莢されたていた九ミリ実包を掌へ落として、空になった機関部の角を金庫の継ぎ目へ食い込ませる。
「千草、奥から金槌を持ってきてくれ」
「はい」
千草が持ってきた金槌を受け取り、薬莢の上に垂直に振り下ろした。
ガキンッ、と硬い破砕音が響き、偽装ピンが剪断されて底板が跳ね上がる。隙間へ山刀の切っ先を深く差し入れてこじ開けた。
メキメキと音を立てて剥がれた鉄板の裏から窪みが現れた。そこには、鉛板で目止めされた細長い桐箱が入っていた。
蓋の表には、宗蔵の無骨な墨書がただ一言。
『英一郎へ』
蜜蝋を削ぎ落として蓋を開けると、油紙に包まれた厚手の美濃和紙の手稿、そして青焼の大型製図が現れた。
手稿の表題には『巣鴨薬園式・北米セネガ人工栽培及礫耕土壌管理要綱』。
そして図面の表題には――『低温減圧蒸留プラント・配管系統図』。
「……大旦那様の図面です」
千草が吸い寄せられるように頁を見つめた。
赤煉瓦の実験室に設置された蒸留塔の骨格が精密に引かれている。だが、渡米前に目にした図面とは違いがあった。一次蒸留釜から冷却蛇管へ至る連絡管の途中に、未知の小径バルブと、小型の予備混和槽が赤インクで描き足されていた。
和紙の末尾に、宗蔵の殴り書きが残されていた。
『セネガの根を煮詰めるだけの抽出は素人の仕事だ。サポニンは熱と酸で容易に砕け散る。
商会が狙う特許の図面には、最も重要なバイパス配管を引いていない。奴らを失敗させるための未完成図だ。
我が製法を完成させる鍵は、根の糖分を保護する天然樹脂の被覆、そして低温沸騰を維持する真空度の微小制御にある。
英一郎。貴様が本物の原種を持ち帰り、この配管を繋ぐ時、巣鴨の蒸留塔は初めて価値を得る。
何をしてでも生き残れ。土壌と植物を信じろ。身代ではなく己の度量と技術で戦え』
紙面には、黒ずんだ宗蔵の指紋と、飛沫状に散った墨痕が生々しく焼き付いていた。
「……失敗させる図面。撒き餌、でしたのね」
芙美子が図面の赤いインクを指先でなぞりながら呟いた。
「パーク・デイビス社が血眼になって奪おうとした特許は、この機構を欠いた欠陥品……。宗蔵様は、ご自身が破産させられることすら計算に入れておられた」
「……親父のやりそうなことだ」
英一郎は手稿を巻き直し、桐箱へ戻した。
「千草。この要綱で巣鴨の培地を復元できるか」
「大旦那様は、すでに準備済みです」
千草は迷いなく答える。
「滝野川の水路から引き込んだ暗渠の制水弁を開け、アパラチアの採取土から分離した菌根菌を接種した石灰砕石層を高床棚に敷き詰めるだけです。半日あれば、あの断崖の環境を再現できます」
千草は立ち上がり、真鍮缶の蓋を見せる。
「問題は、初回の抽出です。この生株から回せる原料は初年度はごくわずか。一度の失敗も許されません。ギレアド樹脂の安息香を無水酒精で乳化させ、減圧下でセネガのサポニン配糖体と会合させなければ、変性した沈殿物、失敗作になります」
「配管の細工なら俺がやる。親父の寸法通りに真鍮管を曲げてフランジ継手を作る。半日あれば繋がる」
「では、わたくしは資金と資材の現物調達を行いますわ」
「お前が調達するのか」
「染井堂の預金凍結は解除されます。資金さえ動かせれば、神田の硝子問屋から耐圧アンプル瓶を、横浜の薬品商から無水酒精を、夕刻までに荷車で納品させますわ」
「……頼む」
半地下の実験室へ踏み込むと、数か月にわたり沈黙していた巨大な蒸留塔が巨躯を横たえていた。
基部には、滝野川の冷水を引き込む鋳鉄製取水弁と、ボイラーの火室が口を開けている。
千草が土間へ下り、真鍮缶から取り出した根塊を水盤の清水へ浸した。琥珀色の節くれ立った主根が、水流のなかで微かに揺れる。次いで、ギレアド粗樹脂の抽出瓶を検分台の上へ据えた。
英一郎は作業台の上に宗蔵の図面を鋲で留めると、硬質コークスの塊をスコップで掬い、火室へと放り込んだ。油を引いた木片に燐寸の火を点け、奥深くへと投げ込む。
ボオッ――!
低い重低音とともに、紅蓮の炎がコークスを舐め始めた。閉ざされていた煙道へ熱気が駆け上がり、赤煉瓦の炉壁が軋み声を上げる。
連成計の針が、ゼロの目盛りから微細に震え始めた。
「千草、前処理にかかってくれ」
英一郎は襦袢の袖を捲り上げ、工具棚から大型レンチと曲げ加工用のトーチを掴み取った。
「親父の止まった時間を動かすぞ」
爆ぜる橙色の炎が、室内の鉄と真鍮の輪郭を熱気とともに赤く照らし始めた。




