23 陸軍の介入
表門から、複数の重い軍靴の音が板敷きを震わせて近づいてきた。芙美子が不安そうに英一郎の顔を見る。
「……英一郎さん」
しかし、英一郎は腕を組んだまま、目を座っている。
襖が乱暴に開けられやってきたのは、黒川らの想定に反して詰襟の軍服に外套を羽織った男であった。帝国陸軍軍医監の階級章をつけた特務将校――滝川である。その背後には警視庁捜査係の私服刑事が控えている。
「待たせたか」
「いえ、教官殿」
滝川の入室に黒川も執行官も大いに驚く。
「た、滝川大尉……!? 民事の債権執行に、軍が出てくる権限など……」
「黙れ。――民事の執行官風情が、帝国の国防物資に指を触れる気か」
低く冷たい声が大広間の空気を凍りつかせた。
軍刀を下げた滝川大尉が、縁側から土足で大広間へ上がり込む。
「陸軍省軍務局および警視庁の合同捜査令状である。東洋殖産興農社専務・黒川儀兵衛。貴様を、国家戦略物資たる去痰薬原料の不正流通工作、ならびに敵性外資への重要軍需特許の不正売却の容疑で拘引する」
「Absurd! Is this country not governed by the rule of law?! This is an outright breach of due process!(あり得ん! この国は法治国家になったのではないのか。正当な手続きを逸脱している)」
滝川は一顧だにしない。
「貴様らの言う『手続き』などどうでもいい。先ほど開かれた臨時閣議で、『北米原産セネガの人工栽培技術および減圧蒸留設備』は、近未来の露国との開戦に備える国家最優先の指定軍需財産に指定された」
滝川の鋭い眼光が、黒川とマッケンジーを射抜く。
「陸軍が求めているのは、民法典の解釈ではない。兵を肺炎から救う『去痰生薬』、その現物だ。――貴様ら東洋殖産興農社がこの敷地を接収したところで、その設備でセネガを芽吹かせ、薬を精製できるのか?」
「そ、それは……技術者を雇えばいずれ……」
「いずれ、だと?」
滝川が鼻を鳴らす。
「貴様らに渡せば、帝国陸軍の生薬調達ラインは永久に外資へ人質に取られる。敵性外資と結託して軍需物資を麻痺させる行為――これは民事ではない。刑法の『外患援助罪』だ」
脂汗をかきながら、黒川が反論する。
「……しかし、そこの三人なら出来るというのか。放蕩息子、没落士族、小娘ではないか。我らは歴とした商会だ。技術力のある外資との方が余程事を成せるではないか」
滝川は千草に声をかける。
「お嬢さん。ああ侮蔑されているが、君たちでは難しいかな」
千草が真鍮缶を開け、青々と生きたセネガの生株と、安息香の香気を広間に解き放つ。
「セネガの現物はここにあります」
千草の声が静かに響く。
「土壌菌を定着させ、巣鴨の冷水で育て、ギレアド樹脂で有効成分を固定化する。大旦那様の手稿と私の腕がなければ、この根は三日で腐り、蒸留塔はただの鉄屑です。……この薬を軍へ納入できるのは、染井堂だけです」
「……馬鹿な」
「聞いた通りだ」
滝川は令状を執行官の顔前に広げる。
「軍の兵站を背負うのは染井堂だ。貴様らが手前勝手にこの工房を止めることは、帝国軍の喉首を絞めるに等しい。……執行官、それでも差し押さえの手続きを続行するか? 貴様も外患援助の共犯として憲兵隊に連行させるか」
「ヒッ……! め、滅相もございません!」
執行官は震える手で万年筆を取り落とし、決定書を破り捨てて退席しようとする。
マッケンジーも、潮目を見て態度を変えた。
「滝川大尉、当商会は単なる融資元に過ぎない。この国内の謀議には一切関知していない」
そう言うと、静かに手元の金時計をベストのポケットへ滑り込ませた。自社の裏取引が公に晒された以上、これ以上の介入は居留地法廷での責任問題に至る。
「Mr. Kurokawa. Our contract was premised on a legitimate foreclosure. We have no interest in your domestic fraud.(黒川氏、当商会の契約は合法的な担保執行を前提としていた。貴殿の犯罪に関知する気はない)」
「マ、マッケンジー殿!? 待ってください、我が社と貴館は――」
「Good day.」
損切りである。英国商館長は英一郎を一瞥すると、無言で横をすり抜け、大広間を出て行った。
「……マッケンジー! 戻れ! 戻らんか!」
黒川が一人、大広間に取り残された。
「黒川、何か言うことはあるか」
「待て、わ、私は参謀本部の山県閣下にも顔が利くのだぞ!」
喚き散らす黒川を、滝川は見下ろした。
「参謀本部の貴様の紐付きなら、先刻、憲兵隊本部へ出頭命令が届いたところだ。国家を外資へ売り渡そうとした国賊め。一生、網走の冷気で頭を冷やすがいい」
滝川が合図を送ると、刑事が踏み込み、黒川の両腕を背後へねじり上げた。
カチャリ、と硬質な施錠音が響き、鋼鉄の手錠が手首に食い込む。
「離せ! 私は旗本の嫡男だぞ! こんな町の種子屋風情が……芙美子! 貴様、山瀬の家がどうなってもいいのか! 親族の借財は我が社が握っているのだぞ!」
引き立てられる黒川に対し、芙美子は手帳の万年筆の先を真っ直ぐ突きつけた。
「商会の債権台帳は、先ほど警視庁によってすべて証拠物件として押収されたとのことです。詐害行為に基づく債権の無効が確定すれば、商会は成り立たない。……それに。我が家は、わたくし自身の手で立て直します。犯罪者に差配される筋合いはございません」
黒川は白目を剥き、崩れるように引きずられていった。
一人残っていた執行官も、滝川に促され、『差押手続停止決定書』の紙片を走り書きして早々に屋敷を出ていった。




