22 証拠の限界
大広間には、黒川儀兵衛、法服を着た執行官、ジャーディン・マセソン商会のマッケンジーと英一郎、芙美子、千草が黒漆の座卓を挟んで向き合って座った。その周りを、親族や、出入りの薬種問屋たちが囲むように様子を見ている。
黒漆の座卓の上に、油紙の包みから解かれた三通の文書が広げられている。東洋殖産興農社の鮮烈な社印が捺された契約書類である。
黒川専務は手挟んでいた扇子を取り落とし、卓上の表題を凝視したまま血の気を引かせていった。
『機密・特別融資引受覚書』
『横浜税関留置手続申請控(珪藻土及耐圧硝子管)』
『原料生薬供給統制合意書』
合意書には、黒川自らの花押とジャーディン・マセソン商会横浜支館長の署名が並んでいる。
「な、何だこれは……貴様、なぜこれを持っている……!」
黒川の声が上ずり、肩が激しく上下する。
「執行官。疑義の根拠は三点ありますわ」
芙美子は細い指先で、一番上の覚書を卓の中央へ滑らせた。
「第一に、東洋殖産興農社が西ヶ原宗蔵へ貸し付けたと主張する元利金合計二十万円。その元本の実態はわずか二万五千円に過ぎず、ジャーディン・マセソン商会が裏で拠出した資金を貴社が迂回転貸した違法な高利貸付です。年利七割五分の金利条項は明白な法令違反ですわ」
「それは宗蔵自身が合意して印を捺した正当な契約だ! 契約自由の原則だ」
「明治十年の太政官布告、利息制限法をご存じないはずがございませんわ。元本千円以上の年利上限は一割二分。それを超える超過利息は初めから無効です」
「……」
芙美子は二枚目の文書を指差す。
「続いて。民法第九十六条に基づく詐欺取消。こちらをご覧ください。宗蔵の実験プラントに必要な輸入珪藻土と耐圧硝子管を、横浜港の保税倉庫で六か月にわたり留め置かせた税関への指図。差出人は貴社、名義は黒川専務、貴方ご自身です」
芙美子の淡々とした声が広間に広がる。
「資金を貸し付けた直後、返済原資を生み出す生産設備を意図的に麻痺させ、期日通りの返済を不能にする――最初から債務不履行に追い込む計画であった動かぬ証拠ですわ。そして三点目」
芙美子はネバダの保線小屋で奪い取った電報の復号紙を、黒川の前に出す。
「アパラチア山中でセネガ回収後、山瀬芙美子を含む同行邦人三名を現地で事故死として処理せよとの電令。……民事上の詐害行為にとどまらず、詐欺、背任、そして明確な殺人教唆です」
黒川は呼吸を詰まらせ、口を半開きにして後退った。
「ば、馬鹿な……それは、パーク・デイビスとの間だけの……」
横で成り行きを冷ややかに見つめていたマッケンジーが、静かに黒川に向かって告げる。
「Calm yourself, Kurokawa. This is a nation governed by the rule of law, is it not?(落ち着け、黒川。この国は法治国家――法の支配が通る国のはずだろう?)」
マッケンジーは口元だけに冷たい笑みを浮かべ、法服の執行官へと視線を向けた。
「いかに怪しげな紙片を振りかざそうと、民事の確定手続を止める効力などない。法形式と手続に則る限り、狼狽える必要など何ひとつありはしないのだよ」
「……分かっている」
そう言うと黒川は腕を組んで三人を睨みつける。
「山瀬の小娘、知恵をつけたつもりか。だが、法律の運用というものを何も分かっておらん」
黒川は法服を着た東京地方裁判所の執行官と顔を見合わせ、せせら笑った。
「民法第九十六条の詐欺取消だと? 民事訴訟法に基づく『強制執行の停止』には、裁判所への正式な執行停止の申立と、それに伴う担保金の供託が必要だ。貴様らが、その証拠とやらをいくら振りかざそうと、それは訴訟で数年かけて争うべき事柄だ。……貴様ら訴訟する体力があればだが」
執行官もまた、無表情に懐中時計を見やる。
「黒川専務の仰る通りです。本日正午の期限までに、債務額二十万円が全額弁済されない限り、公正証書に基づき担保権の実行(競売手続き)を進める為に私はここにいる。私文書の真偽をこの場で判断する権限は私にはない。……午後十二時五分前です。執行妨害とみなし、退去を命じます」
さらに、英国商館長のマッケンジーも葉巻をくゆらせ、居留地特権を盾にして発言する。
「Miss Yamase. 当商会が関与していると主張するその『覚書』は、領事裁判所を通さぬ限り本邦の裁判所に証拠能力はありません。国際条約をお忘れか?」
ゴオォォォン――。
上野の山から正午を告げる午砲の巨響が、遠く空を震わせて響き渡った。
黒川が勝ち誇り、万年筆を走らせて確定書面に押印しようとする。
「午砲も聞こえた。染井堂の土地も煉瓦小屋も、すべて我が社のものだ。誰か、この難癖者どもを叩き出せ!」




