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21 正午の午砲

 東海道本線上り、神奈川停車場を発した蒸気機関車は、午前八時四十分、新橋停車場の煤けたドームへと滑り込んだ。

「……三十分稼げましたわ」

「ああ、上出来だ」

 客車の扉が開くや否や、英一郎は千草を庇いながらホームへと飛び降りた。混雑する人波を力任せに押し分ける。

 烏森口を出た広場には、すでに萬葉堂の手配した四人乗りの箱馬車が待機していた。立派な二頭の馬は筋腱の浮き出た軍馬の払下げ品である。

「旦那! 話は聞いております、染井堂ですな!」

「ああ、正午まで三時間だ。銀座通りを突っ切って上野を抜け、本郷通りから白山を越えろ。頼む!」

 英一郎が命じ、三人が車内へ転がり込む。

 バチィン、と御者が振るった長鞭が乾いた炸裂音を響かせ、鉄輪が敷石を擦って火花を散らしながら、馬車は銀座の煉瓦街へと飛び出した。激しい上下動で板バネが軋み、千草は座席の端に両膝を突き立てて荷物を抱き込み、自らの身体を緩衝材にして衝撃を吸収している。

「千草、種子は」

「……箱の内部の温度が上がっていて、休眠が破られかけています。芽吹くには水分と光が足りない。このまま温度だけが上がり続ければ……死んでしまいます」

 千草の額から汗が滴り落ちていた。荒野で銃口を向けられた時ですら動じなかった職人の瞳に、明確な焦燥が宿っている。

「死なせない。俺たちが命がけで持ち帰った命だ」

 馬車は京橋を抜け、日本橋の手前へと差し掛かっていた。だが、交差点の中央で、巨大な角材を積んだ二台の大八車が車軸を絡ませ、横倒しになっていた。周囲を東洋殖産興農社の社章前掛けを締めた屈強な男たちが十数人取り囲んでいる。

「事故じゃないな」

 英一郎の眼光が据わった。

「待ち伏せだ。横浜を抜かれたと電信で受けて、先回りして道を塞いだんだ」

 時計は午前十時十分。迂回すれば最低でも四十分の損失となる。

「……私が退かせましょう」

 芙美子が小型拳銃を抜きかけたが、英一郎が押し留めた。

「やめろ。白昼の東京で引き金を引かせられるか」

 英一郎は外套を脱ぎ捨てると、右腰の四十五口径コルトを抜き、撃鉄を起こさず銃身を掴んで逆手に握り直した。鍛造鋼の塊となったグリップフレームを露出させ、白昼の敷石へと歩み出る。

「おい、材木屋。その車をどかせ。十秒やる」

 大八車の陰から棍棒と鳶口を手にした男たちが嘲笑しながら進み出てきた。

「何を偉そうに抜かすか。通りたきゃあ、その馬車の中の積荷を置いていきな――」

 男の言葉は途中で途絶えた。

 英一郎は何の予備動作もなく踏み込む。鳶口が振り下ろされる軌道の内側へ入り、逆手に握ったコルトのフレームで男の顎下を突く。

 骨を砕く鈍い音が響き、下顎を粉砕された男が泥人形のように倒れ込んだ。

「ヒッ……!」

 怯んだ隣の男の鳩尾へ前蹴りをめり込ませる。重い打撃に胃液を吐き出した男の頭髪を掴み、大八車の車輪へ力任せに叩きつけた。スポークがバキバキと音を立てて折れ、男は血を噴いて動かなくなる。

「あと五秒だ」

 英一郎は返り血を拭いもせず、残る男たちを冷え切った眼で見据えた。幾重もの暴力を踏み越えてきた無頼の殺気に、男たちは鳶口を取り落とし、蜘蛛の子を散らすように路地へと逃げ惑った。

「御者! 大八車を踏み潰せ! 行けッ!」

 馬鞭が乱打され、二頭の馬が角材の山を乗り越えて橋の上を疾走した。


 上野広小路を通過したのが午前十時五十分。

 本郷の台地を駆け上がり、東京帝国大学の赤門前を通過する頃には、日が天中に近づき明るく照らす。

 午前十一時四十五分。

 馬車は白山の大坂を下り、巣鴨町へ入った。染井吉野の親木が立ち並ぶ風景の中、前方に黒漆喰の重厚な長屋門が見えてくる。

『種子問屋 染井堂』。

 門の前には黒塗りの馬車が三台横付けされ、洋装の重役たちと法服を着た公証人、私服警部補たちが時計を手に並んでいた。中央にはフロックコートに身を包んだ東洋殖産興農社専務、黒川儀兵衛が立っている。

「十一時五十分……ふん、染井堂もこれまでだな。残る時間で金が揃うはずもない。公証人、質権設定の確定書面に調印を――」

 黒川が万年筆を抜きかけたその時、街道の角から土煙を巻き上げた馬車が突っ込んできた。

「どけぇッ!!」

 御者の絶叫とともに、二頭の馬が門前の砂利をえぐるようにして急制動をかけた。

 車輪が止まるよりも早く扉が開き、千草が転がり出た。両腕に真鍮缶を抱え込み、擦り剥けた膝の痛みも顧みず玉砂利の上を前転しながら滑り込む。

「……セネガ、確かに持ってまいりました!」

 千草の芯の通った凛たる声が庭園に響き渡った。

 続いて馬車から降り立った芙美子が、乱れた前髪を払うこともなく、黒革の書類挟みを黒川の胸元へ突きつけた。

「黒川専務、お久しぶりですわね。債務不履行を宣言される前に、お尋ねしたいことがあり伺いましたの。融資条件の違法変更、税関への贈賄工作、そして生薬供給の不当な統制について――ほんの偶然から原本を手に入れましたので」

 黒川の顔が驚愕で土色に変色した。

 芙美子が高らかに宣言する。

「公証人! 本質権設定に重大な詐害行為が確認されました。調印の即時停止と証拠書類の見分を申請いたしますわ!」

「ば、馬鹿な……アパラチアで死んだはずの貴様らが……なぜ生きて……」

 その狼狽を断ち切るように、馬車の陰から、硝煙と泥の匂いを纏った英一郎がゆっくりと歩み出た。泥に汚れた革靴で、黒川の足元へ一歩踏み込む。

「生きてて悪かったな、専務さんよ。……手前らの差し向けた連中は、全員山脈か、海の底に沈んでいる」

 英一郎は低く吐き捨てた。

「You bought the wrong ticket, old crook.(買う切符を間違えたな、生臭坊主)」

 正午を告げる午砲はまだ聞こえない。

 千草の手の中、木箱の隙間からこぼれ出た油紙の端で、冷たい外気に触れたセネガの頑強な黒い根が、東京の冬の光を浴びて静かに息づいていた。

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