20 横浜の税関
明治三十四年二月二十四日、午前六時三十分。
東洋汽船の定期郵便船「亜米利加丸」は、新港埠頭の石積みの突堤へとゆっくりと接岸した。
霜枯れの潮風が吹き抜ける甲板に、英一郎、千草、芙美子の三人が並び立つ。
「……午砲まで、あと五時間半」
芙美子は時計の蓋を指の腹で弾いて閉じた。時針は午前六時四十五分。
「債務弁済の期限は、今日の正午きっかりだ。一分でも遅れれば質権が実行され、染井堂の土地も実験設備もすべて競売にかけられ、東洋殖産興農社のものになる」
「汽車は八時十五分横浜発の新橋行き。新橋から上野、そして巣鴨へは辻馬車を飛ばします。道中何事もなければ、十一時半には到着しますわ」
芙美子は濃紺の洋装の襟元を引き締めながら確認する。左手には、すべての出納と法的証憑を挟み込んだ黒革の書類挟みが握られている。
千草は二人の足元で、無言のまま荷を点検していた。胸元には、外気から体温で保温するための晒し袋が巻き付けられている。春の播種に用いる、一粒の欠損も許されない完熟種子である。
「千草、苗の状態は」
「土中温度は摂氏十度強で、まだ休眠状態を維持しています。ですが、陸に上がれば外気温が上がりますので、根茎の菌が一気に活動を始めます。一刻も早く巣鴨の冷暗な土蔵へ移し、根洗いを済ませなければ腐ってしまいます」
「わかった。行くぞ」
タラップを下り、赤煉瓦の保税倉庫が立ち並ぶ税関検査場へと足を踏み入れたところで、悪意が三人を取り囲んだ。屋根付きの荷改所の出口を塞ぐように、ある一団が陣取っていた。
仕立の粗い紺絣の股引に洋風マントを羽織った男たちが六人。横浜の港湾荷役を牛耳る博徒と、東洋殖産興農社が先回りさせた手配師たちである。
その中央に、金モールの入った濃紺の上着を着た税関吏が立っていた。名札には『横浜税関検査課 小野寺』とある。その両目は充血し、千草の木箱を濁った視線で見据えていた。
「そこの三人。荷をそこの検査台に上げろ」
小野寺が低く命じた。
英一郎は千草を背後へ庇い、わずかに腰を落とした。外套の内側には四十五口径コルトが収まっているが、日本の税関内で発砲すれば公務執行妨害で拘束され、刻限に間に合わない。
「……旅券審査と関税申告なら、船内で手続を済ませてあるはずだが」
英一郎が紙片を差し出す。だが小野寺はそれを受け取ろうともせず、背後の男たちを手招きする。
「本船には阿片および有害動植物の密輸の疑いが出ている。省令に基づき、手荷物をすべて別室にて開帳の上、精密検査を行う」
博徒二人が間合いを詰めてきた。千草の抱える包みを掴み、力づくで引き剥がそうとする。
「触るな」
英一郎の身体が沈み込む。踏み込みと同時に、左手の手刀が先頭の男の手首の腱を鋭く打った。男が息を呑んで体勢を崩した時を狙って、右足の踵で男の弁慶の泣き所を力任せに踏み砕く。
「ぐあっ!」
骨の軋む鈍い音が響き、男が石畳に崩れ落ちた。もう一人が懐から匕首を抜きかけたが、英一郎は相手の肘を巻き込み、肩の関節を逆方向に極めながら検査台の頑丈な樫の天板へと頭部を叩きつけた。激しい衝撃音とともに、男の額から赤黒い血が飛び散る。
「貴様ッ、税関の敷地内で凶行に及ぶか! 公務執行妨害だ、引っ捕らえろ!」
小野寺が叫び、残る四人の男たちが一斉にドスを抜いた。
だが、刃が踏み込むより早く、芙美子の声が倉庫に響き渡った。
「公務執行妨害? どの口がその言葉を吐きますの、小野寺様」
芙美子が一歩前へ進み出ていた。手には数枚の証書が掲げられている。
「明治二十五年勅令第七十号、大蔵省関税局処務規程第十四条。植物検疫における臨検および留置処分は、農商務省令に指定された特定有害動植物病原菌の陽性反応、もしくは顕著な腐敗臭が外部に確認された場合に限られます。この荷物はサンフランシスコ領事館発行の『薬用植物種苗原産地証明書』および『合衆国農務省衛生検査済票』を正規に具備しておりますわ」
小野寺の顔から血の気が引いた。書類には鮮烈な朱色の領事館印と合衆国政府の浮き彫り封緘が刻まれている。
「な……何を素人が。現場の裁量で留置は可能だ!」
「裁量ですって? 笑わせないでいただきたいわ」
芙美子は書類挟みから、もう一枚の薄紙を引き抜いた。
「東洋殖産興農社専務・黒川儀兵衛名義で、先週、貴方の私書箱宛てに振り込まれた横浜正金銀行の為替手形番号、第三八四号。金額は金百五十円。名目は『港湾検査便宜供与謝礼』。この控え、横浜地方裁判所検事局の神谷検事の手元にも、今朝一番の郵便で届く手はずになっておりますけれど?」
「なっ……貴様、なぜそれを……!」
「あの商会に何年いたと思っているのですか。商会の裏帳簿の筆跡の癖、金の流れ、そしてどの役人に幾ら握らせればどの港で荷を止められるか……頭に入っておりますの」
芙美子の視線は小野寺を射抜いていた。男の額から脂汗が吹き出す。
「今ここでこの荷を通せば、貴方の罪状は職権濫用の未遂で済みます。ですが、あと一分でも私たちの足を止めれば――直ちに居留地のアメリカ領事裁判所へ駆け込み、不当差押えとして国際紛争の場へ引きずり出しますわ。条約改正の気運が高まったこの時期に、税関の汚職役人の首で済むとお思い?」
周囲のヤクザたちが顔を見合わせ、後退り始めた。国家と国際法の名前を出されては、日当数円のゴロツキの手の負える領域ではない。
小野寺の膝が微かに震え、握った指先が白く変色した。
「……通せ」
絞り出すような声だった。
「通せッ! 手荷物検査の終了印を押せ、早くしろ!」
乱暴に朱肉の印が押された。千草が無言で荷物を引き寄せ、胸に抱え直す。
「英一郎さん。時間は?」
「七時二十五分だ。汽車まで間があるが、駅で待つのは時間が惜しい」
英一郎は倒れた男の横を通り抜け、税関の出口を開けた。
冷たい朝霧の向こう、ガス灯の消えかけた通りに、二頭立ての大型辻馬車が待機していた。御者台には、神保町の萬葉堂が手配した屈強な車夫が手綱を握り締めて控えている。
「行き先は神奈川停車場だ。線路沿いに北へ走れ。一本前の便を捕まえる!」
三人が馬車の中へと滑り込むと同時に長鞭が唸り、黒塗りの馬車は鉄路の待つ北方へと疾走を開始した。




