19 波間の切開
「何だそれは。薬で止められないのか」
「薬では無理です。この菌は、植物の細胞壁を溶かして崩していきます。……あと半日もすれば、この缶の中の二株は完全に溶けて腐ってしまいます」
「別の缶に移せばいいだろう」
「駄目です! 胞子とバクテリアが飛んで、無事なもう一基まで全滅します!」
千草の口から、珍しく切迫した怒声が飛んだ。瞳に涙が滲み、荒い呼気が漏れる。
「助ける方法はあるのか」
「……助ける方法は、あります」
千草は腰の小包丁を引き抜いた。だが、その白くひび割れた指先は、小刻みな震えを止められなかった。
「腐食した主根の半分を、健康な組織ごと削ぎ落とします。……でも、セネガの根は極めて繊細です。主根を割れば、断面からサポニンが流出して、そのままショック死する確率が高まリます。……この揺れる船底で、一厘の狂いもなく腐敗層だけを削り取るなんて……」
どんな過酷な山道でも、銃口を向けられても平然としていた千草が、初めて「己の技量の限界」を前にして立ちすくんでいた。
削らなければ確実に全滅。削れば高い確率で枯死。
どちらを選んでも、宗蔵の研究と、染井堂の未来を自らの手で潰すかもしれないという重圧。
「手が……震えて。……大旦那様なら、どうするの……」
「千草さん」
「……はい」
「迷っている一分ごとに、生存確率は一分ずつ下がっていきますわ。七割枯れるとしても、三割の生存率に賭けるのです。全滅を待つのはただの怠惰ですわよ」
「山瀬、口を慎め」
英一郎が制すが、芙美子は引かない。
「事実を言っているのです。ここで貴女が包丁を引かなければ、わたくしたちの百日間の命懸けはすべて水の泡ですわ」
芙美子の容赦のない叱咤に、千草は唇を血が出るほど噛み締めた。
「……削ります。ですが、船が揺れて刃元が狂えば、維管束を断ち切ってしまいます」
「なら、固定すればいい」
英一郎が千草の背後に回り込み、膝立ちになって両腕を千草の脇から通した。千草の手首を両側からガッチリと挟み込む。
「ひ……っ」
「俺の腕を添え木にしろ。お前は刃先の角度だけに集中しろ。船の揺れに合わせて、俺が体ごと相殺してやる」
男の太い前腕の筋肉が、千草の震える手首を万力のように締め上げる。激しい船の揺れのなか、英一郎の体幹で、千草の手元だけを水平に保ち続けた。
「芙美子、真鍮のヘラを七輪の火で殺菌してくれ。傷口を焼いて塞ぐんだ!」
「わかりましたわ!」
芙美子は上等のシルクのハンカチで炭を掴み、真っ赤に熾きた平ヘラを引き抜いた。
「……いきます」
千草の瞳から迷いが消えた。
英一郎の腕の剛力を頼りに、千草の刃先が腐敗した根茎へ向かう。
サクッ、と繊維を断つ音。
どす黒く変色した病巣が、わずかに健全な部位を残して削ぎ落とされ、敷布の上へ転がり落ちた。
「芙美子さん、今!」
芙美子が差し出した灼熱の真鍮ヘラが、切り口へ押し当てられる。
ジュッ――!
白煙とともに、セネガの甘いサポニンと焦げた植物繊維の匂いが立ち込める。傷口が炭化し、即座に組織が焼き塞がれた。
千草はすかさず、ギレアド樹脂を高濃度に溶かした酒精を霧吹きで吹きかけ、石灰粉末をまぶして傷口を密閉した。
「……終わりました」
包丁を落とし、千草はその場にへたり込んだ。
英一郎の腕の中で、少女の肩が激しく上下している。
削り落とされた主根は、当初の半分ほどの細さになり、弱々しく横たわっていた。
「助かったのか?」
英一郎の問いに、千草は首を微かに振った。
「……わかりません。熱ショックでそのまま枯れるかもしれません。芽吹く力は……半分以下に落ちました。東京に着くまで、生きているかどうかは……運です」
「上等だ。半分残れば御の字だ」
英一郎は荒い息を吐き、千草の手首を解放した。
少女の掌は、汗と植物の灰汁、そして恐怖の脂汗でぐっしょりと濡れていた。
航海が十日を越え、伊豆諸島の東方海域へ差し掛かった深夜。
貨物区画の片隅で、三人は木箱を囲んで膝を詰めていた。
「……返済猶予の終期は、この船が横浜へ接岸する『明日の正午』です。正午きっかりに、東京地方裁判所の執達吏が巣鴨の染井堂へ臨場し、仮差押えが本差押えへと切り替えられます」
芙美子は木箱に置いた手帳に万年筆を走らせ、横浜港に到着してからの行程を整理していく。
「接岸予定は午前八時。横浜税関の積荷検査を通過し、新橋行きの汽車へ滑り込む期限が午前九時。新橋停車場から辻馬車を飛ばし、巣鴨・染井堂の表門へ達するのが十一時半……。許容できる遅延の限界は三十分です」
「まるで猶予が無いな」
英一郎は天井に向かって煙を吐く。
「染井堂には、東洋殖産興農社の株主どもと、ジャーディン・マセソンの横浜番頭、それに買収済みの裁判所の執行官が居座っているはずだ。親父の資産をその日のうちに競売に乗せて接収する算段だろう」
「ええ。ですが、この原本と社内電令の照合記録があれば、民法上の『詐害行為に基づく取消権』をその場で主張できます。競売の強制執行を根底から停止させられますわ」
「山瀬。紙切れと口上だけでは相手は止まらんだろう」
英一郎が木箱を叩いた。
「向こうの背後には陸軍の士族閥がついている。手続きの瑕疵を突いたところで、官憲の権限を盾に実力行使へ持ち込まれる。法論理や損得、それを上回る『国家規模の実利』が無ければねじ伏せられない」
千草が無言のまま、真鍮缶の蓋を半インチだけずらして木箱の上へ据えた。
漏れ出た樹脂の安息香の香りが、船底の悪臭を中和する。隙間からは、石灰礫にしっかりと細根を食い込ませたセネガの青白い葉が覗いていた。
「主根は生き残りました。これと、大旦那様の実験日誌……それに現地で確認した『ギレアド樹脂によるサポニン配糖体の安定化皮膜技術』です」
英一郎が告げる。
「教官殿を通じて、陸軍省医務局と帝国大学医科大学へこの生体標本を提示しよう。欧米トラストの輸入枠から完全に脱却できる証明として『国産去痰製剤の現物』を示せば、軍閥上層部の判断は反転する筈だ。軍需衛生の自給、国防案件として、商会の介入を黙らせられる」
詐害行為の物証、軍医務局を動かす国家実利、そして変質を免れた現物の生体。三つの歯車が噛み合った。
「……隙のない筋立てですわね」
芙美子は手帳を硬い音を立てて閉じ、英一郎を見据えた。
「さて、英一郎さん。布陣が定まったところで、取引条件の最終確認ですわ。染井堂の純利益の三割、異存はありませんこと?」
「ああ。染井堂の帳場と金庫は、すべてお前に預ける。そこから三割持っていけ。……ただし、帳簿を一銭でも改ざんしたら撃ち抜くぞ、共同経営者殿」
「横領などという下劣な手口は使いませんわ。正規の権利として頂くのがわたくしのやり方ですもの」
芙美子は革手袋に包まれた手で、英一郎の節くれ立った掌を固く握る。
ボオォォォ――。
午前四時。濃霧の海面を切り裂き、亜米利加丸の汽笛が船底の鋼板を震わせた。
丸窓の向こう、鉛色の海原の果てに、横浜居留地のガス灯が針の先のように明滅している。
すべてを清算し、奪われたものを力ずくで取り返す期限まで――あと八時間。




