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18 船底の約束

 東洋汽船の定期郵便船「亜米利加丸」は、冬の北太平洋の荒海を超えて西へ西へと進んでいた。

 往路を上回る大時化に見舞われ、黒くうねる三角波がリベット留めの外板を激しく揺さぶり軋ませる。

 水線下の三等船室、悪臭が滞留する船底の一画で、千草は湿った敷布の上に座り込んでいた。その膝の間には二基の真鍮缶を抱え込んでいる。

「……湿度が二分上がっています」

 洋上輸送で、生きた植物の保全は弾薬の運搬よりも過酷である。

 海風に含まれる微細な塩分は、セネガの根系を包む外生菌根菌を数時間で死滅させる。かといって通気を絞れば、船底の生温かい環境下でペニシリウム系青カビの胞子が増殖する。

 千草は小型の七輪で熱した平匙を取り出し、砕いた硬質木炭の粉末を炙って乾燥させると、二重底の隙間へ差し入れた。

 余分な湿気を炭へ吸着させつつ、酒精に溶かしたギレアド樹脂の抽出液を、竹筒の先から微細な霧にして根元へ均一に噴霧してカビの侵食を抑え込んでいく。立ち込める清冽な安息香(あんそくこう)の香気が周囲に漂う。

「千草、少し横になれ。サンフランシスコを出てからまともに寝ていないだろう」

 英一郎が油染みのついた毛布と、船尾の炊事場から調達した熱い麦飯の塊を抱えて戻ってきた。

「……私が眠れば菌糸が死んでしまいます。……菌糸が死ねば、大旦那様の研究も、巣鴨の土地も、すべてが無駄になってしまいます」

 千草は顔を上げることもなく、突き出された握り飯を口へ放り込んだ。

「地温を摂氏十二度から十五度の範囲に固定し続けなければなりません。保冷庫から削り出した氷塊を、三時間ごとに削って入れていく必要もあるんです」

 十六歳の指先は、乾燥と海水の飛沫によって角質がひび割れ、赤い血が滲んでいた。それでも、手元の所作に乱れはない。頑迷な職人の意地であった。

 英一郎は何も言わず、千草の真横に腰を落とした。外套の内ポケットから、港湾街で仕入れた鯨油の小缶を取り出す。

「手を貸せ」

「作業の支障になります」

「一分で終わらせる。いいから出せ」

 英一郎は千草の細い手首を無造作に掴み、引き寄せた。擦り切れた皮膚の亀裂へ、親指の腹で獣脂を擦り込んでいく。

「痛みます」

「痛むうちが華だ。神経が麻痺したらその指は動かなくなるぞ」

 英一郎は千草の指の付け根まで油を塗り広げると、懐から取り出した晒し布を引き裂き、布片を手際よく巻きつけて結び目を引いた。手荒な処置だったが、男の掌が千草の冷え切った指先へじわりと沈み込んでいく。

 千草は布を巻かれた自らの手をカンテラの光にかざし、淡々と言った。

「……滑ります。器具を使うときに精度が落ちます」

「滑っても落とすな。お前ならできる」

 英一郎は残った鯨油の缶を千草の膝へ置き、木箱に背を預けて煙草を咥えた。

「お前が潰れたら、俺がどれだけ敵を撃ったところで、親父の研究は全部無くなってしまう」

「……潰れません」

 千草は布の巻かれた指で真鍮缶の縁をしっかりと握り直し、静かに返した。

「貴方が前で引き金を引いてくれる限り、私はこの根を絶対に腐らせません。……約束です」

 千草は布を巻かれた自らの手を掲げ、カンテラの光を透かした。じんわりと、鯨油の脂と英一郎の手のぬくもりが、痛むひび割れの奥へ染み込んでいく。

「……大旦那様は、ご自分の手しか信じない人でした」

ふと、千草の口から独り言のような呟きが落ちた。

「ん?」

「大旦那様は誰の手も借りず、一人で小屋に籠もり、一人で冷水を引いて、一人で倒れて冷たくなりました。……あの人は、誰の体温も信じなかったから、あそこで終わったのだと思います」

千草は真鍮缶の縁を、布を巻いた両手で抱え直した。

「私は、あんな風に一人で冷え切って死ぬのは御免です。……英一郎さん」

「なんだ」

「巣鴨へ帰っても、私に火を焚いて、手を温めてくれますか」

少女の瞳の奥にわずかな熱が宿っていた。

英一郎は煙草の煙を吐き出し、口の端をわずかに持ち上げた。

「お前がこの根を生かして持ち帰るならな。いくらでも火を焚いてやるよ」

「……約束ですからね」


船体が軋み、大波が外板を叩く轟音の中、千草の手が止まった。

二基ある真鍮缶のうち、右側の換気メッシュに鼻を近づけ、千草の顔から血の気が引いた。

安息香の清冽な香りの奥から、微かに漂う生臭い腐敗臭――キャベツが腐ったような、特有の酸味を帯びた臭気を捉えた。

「……嘘」

千草の指先が、小刻みに震え始めた。

蜜蝋を小刀で削ぎ落とし、蓋を開ける。

最も太く、巣鴨での初期抽出の柱となるはずだった第一号株の主根だ。その基部、石灰礫と接する茎の付け根が、茶褐色に水浸しになって崩れかけていた。

「千草、どうした」

握り飯を運んできた英一郎が、千草のただならぬ気配に気づいて屈み込む。

「……海水です。時化の飛沫が換気孔から吸い込まれていました。塩分で共生菌が死に、土壌の細菌(エルウィニア菌)が増殖しています……『軟腐病(なんぷびょう)』です」


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