17 寄る辺なき者の夜
三人は、なんとか日没直前に、山道の先に現れた炭鉱町の外れにある無人の保線小屋へ滑り込んだ。
錆びついた薪ストーブに廃材をくべ、煙突から細い煙を上げる。赤黒い炎が爆ぜる熱気に包まれて、ようやく三人の顔色に生気が戻り始めていた。
小屋の隅で千草が缶の通気メッシュを検分しているのを確認している。
芙美子は濡れたマントの隠しポケットから、ゴム引き布で厳重に目止めされた平袋を取り出した。封を解き、中から取り出した数枚の厚手の美濃和紙を、木箱の上に広げる。
「それは何だ」
英一郎が擦り傷だらけの指で紙片を拾い上げ、墨痕に目を走らせた。
「巣鴨の敷地を差し押さえた際、わたくしが商会の金庫から持ち出しました。これが本物の原本ですわ」
東洋殖産興農社が西ヶ原宗蔵を追い込むために偽造した『抵当権設定契約書の原本』、そしてパーク・デイビス社へ裏で売却される密約の記された『減圧蒸留特許の譲渡委任状』――商会の上層部が宗蔵を債務不履行へ嵌めるために仕組んだ、動かぬ背任の証拠であった。
「……なぜ持ち出した」
「万が一の切り札に。……最近、あの会社の上役の態度に違和感がありましたの。それに、私を一人で訪米させたことも」
芙美子は濡れた唇を硬く引き結び、覚悟を決めて言い放った。
「……英一郎さん。この原本と宗蔵様の手帳を照合させれば、裁判所の仮差押えは『詐害行為に基づく無効』として法的に覆せます。染井堂の競売執行を止めさせ、染井堂を合法的に奪還できますわ」
「……」
「ですが、無償ではお渡しできません。染井堂がセネガの栽培と製造ラインを完成させた暁には――純利益の三割を私に分配して頂きたいのです」
「……とんでもない守銭奴だな、元許婚殿は」
「私も命懸けで後が無いのです。勝ち目があると思っていますが、それに見合った見返りを頂かなければ割に合いません。……これは取引です」
「……そうか、取引か」
「ええ、取引です」
英一郎は肺の底から短く息を吐いた。
栄一郎自身も芙美子もこのままでは浮かび上がらず、あっという間にカルテルに足を掬われる。この女とは損得で繋がっているのが最も健全なのだ。
「いいだろう。取引成立だ」
英一郎が差し出した右手を、芙美子は一瞬の躊躇の後、細い掌で握り返した。
翌日、三人は芙美子が所持していた白紙委任状と電信暗号表を使い、炭鉱町の駅逓所で身分を偽って準備を整えた。
パーク・デイビス社の私設探偵網の隙間を突いて、再び、大陸横断鉄道でサンフランシスコの波止場へと戻ってきた。明日、出航すれば追っ手から逃げおおせる。
波止場を臨む安宿の一室は、潮の匂いと煙草の煙が混ざり、重くこびり付いている。
隣室では、極度の疲労に倒れ込んだ千草が真鍮缶を抱え込んで死んだように眠っている。
薄暗い部屋の片隅、芙美子は粗末な木机に向かい、煤けたカンテラの下でペンを走らせていた。偽造旅券の手配費、明朝出航する「亜米利加丸」の三等船室の相場、横浜税関の抜荷工作に必要な賄賂の試算などを確認している。
だが、暫くすると万年筆が止まり、紙面へ黒い染みを作った。
芙美子の右手は、小刻みに震えていた。あの保線小屋で復号した電報の末尾が、頭に焼き付いて離れなかった。
『同行の山瀬芙美子を含む邦人三名は山岳事故として処理されたし』
幕末の動乱で雪だるまのように増えた山瀬家の負債を一身に背負い、家督を保つために冷徹な女を振る舞い続けてきた。金を稼ぐのに東洋殖産興農社の元で貢献するのが一番と考えていた。だが、その拠って立つべき「家」も「商会」も、最初から自分を使い潰す消耗材と見ていた。
「……手が止まってるぞ、山瀬」
壁に背を預け、コルトのシリンダーから油を拭い取っていた英一郎が声をかけた。男は作業を止めず、視線も向けない。
「……止まってなどいませんわ。明朝の換金手続の順序を整理していたのです」
「黒い染みを作るほどペンを押し付けておいて、平静なわけがないだろう」
英一郎は銃をホルスターへ落とし込むと、机の端へ無造作に腰を掛けた。硝煙と安ウイスキーの匂いが漂う。男は呑み残しの平瓶を取り出し、芙美子の手元へコトリと置いた。
「手が震えている。一口飲んで喉を湿らせろ」
「……震えてなど――」
反論しようと顔を上げた芙美子の頬を、英一郎の節くれ立った掌が横から乱暴に覆う。火薬と油と煙草の匂いがする、擦り傷だらけでヤスリのように硬い指の感触。
「無理に当主の面をしなくていい。ここは帝都ではない。サンフランシスコの安部屋だ」
「それが何だと……」
「何度も死にそうになりながらもここまで生き残って帰ってきた。大したものだ。……だが、お前も生身の人間だ。怖くないはずがないだろう」
その言葉が、芙美子が張っていた心の殻に亀裂を入れた。涙を流すまいと奥歯を噛みしめ、芙美子は英一郎の胸倉を掴み上げた。薄汚れた木綿の下にある、頑丈な筋肉の熱が掌に感じる。
「……怖いに、決まっていますわ」
掠れた、怒りを孕んだ声が漏れた。
「わたくしがここで倒れれば……山瀬の血も、矜持も、すべてあの腐った士族どもの商会に呑まれて終わりですもの。……死んでたまるもんですか」
「なら、その鬱積は外へ吐き出しておけ」
英一郎の腕が後頭部へ回り、乱暴に引き寄せた。
重なり合った唇に、安酒の苦味と乾いた皮膚の擦れ合う痛みが走る。甘さの欠片もない。
芙美子は逃れようとせず、男の首筋に両腕を回し、自らの体重を預けた。
「……英一郎さん。明日の朝、船に乗れば……わたくしは貴方とビジネスの関係に戻りますわ」
「わかってるよ」
英一郎は芙美子の華奢な骨格を軋ませるほどの力で抱き上げた。
「夜が明けたら、お前は有能な調達屋で投資家だ。俺は種子屋の債務者で暴力担当だ。……だが、今はただのはみ出し者だ」
軋む鉄のベッドの上に倒れ込む。
愛の言葉など交わされず、皮膚と皮膚が擦れ合う音と、寄る辺のない、それでもここまで生き残った二人の重い呼気だけが狭い部屋を満たしていった。




