30 次の植物
「……で、本題は何だ、山瀬。ばばあの目を盗んで俺たちを集めたんだ、厄介ごとなんだろ」
「お二人が夫婦になられて数ヶ月。朝から晩まで働きづくめでしたので、少しお二人で羽を伸ばして貰おうかと」
「嘘をつくな」
英一郎が吸い殻を消すと、芙美子は引き出しから蝋引きの封筒を取り出した。
横浜正金銀行と英国ロイド船級協会の検印がある。中から現れたのは、各国の植物調査班が発行した最新の『世界有用植物種子流通目録』の束であった。
「……染井咳止液の成功で、本邦の去痰薬市場での欧米トラストの独占は崩れました。ですが、パーク・デイビス社もジャーディン・マセソンも黙って引き下がるはずがありません」
芙美子は世界地図を机の上に広げた。
「連中はすでに次の手を打っています。東洋市場を再び自分らのものにするため、別種の戦略原料の買い占めと価格操作を仕掛けてきていますの」
「具体的には何だ」
芙美子は目録の特定箇所に指で強く指し示す。
「一つは、大陸。義和団の乱で騒乱の極みにある清国北部――黄河上流の荒野に自生する『麻黄』。気管支拡張の主成分エフェドリンを採るための最重要生薬ですが、現地の軍閥と外国商館が日本への輸出枠を封鎖しにかかっています」
千草が応じる。
「麻黄は乾燥砂漠地帯の強アルカリ土壌に育つ植物です。本邦の多雨酸性土壌ではアルカロイドの蓄積が極端に落ちます。原産地の野生株から、高純度エフェドリンを合成できる優良系統の種子を直に持ち帰る必要があります」
「話が早くて助かりますわ」
芙美子は頷き、鉛筆を北の極地へ滑らせた。
「二つ目は、ロシア帝国が極東進出の拠点としているアムール川流域、シベリアの永久凍土に眠る『エゾウコギ(シベリア人参)』。酷寒を生き抜く強壮物質を含み、ロシア陸軍が軍用強壮薬として囲い込んでいます」
「日露間の開戦が秒読みの今、軍医どもが喉から手を出して欲しがるな」
英一郎が顎を撫でる。
「そして三つ目――」
芙美子は鉛筆を赤道直下の南米アマゾン川流域へ叩きつけた。
「世界中の熱帯地帯で兵員を殺める風土病、マラリアの特効薬『キナ皮』。オランダと英国がジャワ島とボリビアの密林で原木を独占し、国際間でカルテル作り、価格を吊り上げ続けている戦略物資ですわ」
机の上に並べられた三つの標的。いずれも国家の興亡と軍事利権が絡み合う植物たちであった。
机の上の世界地図を見つめ、英一郎は笑みを漏らした。
「どれもこれも、足を踏み入れたら生きて帰れる保証のない場所ばかりだな」
「ええ。ですが、リスクの高さは利回りの大きさに直結いたします」
芙美子は手帳を開き、鉛筆で調達原価と納入予想価格を弾き出した。
「国内の問屋が指をくわえて待っている間に、私たちが現地へ飛び込み、原種と土壌データを直接取得して製販ラインを構築する。これが成立すれば、染井堂の資本規模は一財閥を凌駕する水準に成長出来ます」
「相変わらず、命の値段を算盤で弾くのが好きだな、元許婚殿」
「割に合わない計算はいたしません。……英一郎さんの腕、千草さんの技術、そしてわたくしの算盤。この三点が揃えば、どの戦場であろうと勝てますわ」
英一郎は腰の革帯を締め直した。無頼の血が静かに沸き立つのを感じていた。
染井堂でふんぞり返り、軍の機嫌を伺いながら薬を右から左へ流すだけの商人になる気は毛頭ない。父・宗蔵が挑み続けた「国際カルテルからの自給防衛」という終わりのない戦い。それを世界規模で押し広げることは、この男の望む道であった。
「千草。お前なら、どれから手を付ける」
千草は三つの地名を一瞥し、淡々と答えた。
「どれでも構いません。土と水、局所気候のデータが取れるなら、地球上のどこであろうと私は芽吹かせます。……ただ、清国の麻黄は急ぐべきですね。北京の動乱が拡大すれば、戦火によって最良の野生母樹系統が地上から消失するリスクがあります」
「決まりだな。北清事変のドサクサに紛れて、天津から奥地へ潜り込む。武器と弾薬は品川の密輸業者を通せば二日で揃う」
「旅費と現地工作資金として、横浜正金銀行の英ポンド建て信用状を五千ポンド分用意させますわ」
「芙美子。さっきと打って変わって大盤振る舞いだな」
「必要経費です。大奥様には『大阪の薬種市場へ視察に出向く』と伝言を残しておきましょう。戻る迄に私が事後承諾頂いて帳尻を合わせますわ」
「泥棒猫の手際だな」
「合理的な経営判断と呼んでいただきたいわ」
二人の応酬を背に、千草はすでに背嚢の点検に入っていた。真鍮の手鋤、桐箱の採集筒、試薬瓶、二重底の輸送缶。世界中どこであろうと植物を生かして持ち帰るための道具が揃っていく。
外へ踏み出そうとした三人の背中に向かって、奥座敷から大奥様の怒号が再び飛んできた。
「おい英一郎! 芙美子さん! 夕飯の買い出しに滝野川の八百屋へ寄るのを忘れるんじゃないよ! 葱を二束だよ、値切るんじゃないよ!」
三人は顔を見合わせ、誰からともなく口元をわずかに引き上げた。
「……葱は戻ってからだ」
英一郎が低く呟き、ソフト帽を目深に被り直した。
「英一郎さん。夫婦旅行ですね」
「ああ。命懸けのな」
「ご無事の生還を」
表門の外には、初夏の青空がどこまでも高く広がっている。
温室の屋根を吹き抜けた薫風が、セネガの青葉をかすかに揺らし、遠く上野へ向かう汽車が吐き出した白い蒸気を東の空へとさらっていった。
明治三十四年の初夏である。
東京の北の端、巣鴨庚申塚のあたりには、大小二十軒ばかりの種子屋が申し合わせたように軒を並べていた。そのなかにあって、煤黒い羽目板に鈍く光る真鍮の社名板――「合資会社 染井堂製薬製剤所」を掲げる店は、同業者たちのあいだでも少々始末に困る奇物として通っていた。
先代が急死した折には借金で潰れる寸前と噂された店が、舌の根も乾かぬうちに「染井咳止液」なる新薬を仕立て上げ、製造から売り捌きまでを一手に握る大身代へ化けてみせたのである。
成り上がり特有の、鼻持ちならない手腕であった。
日本橋の老舗どもは、これを山師の幸運とせせら笑った。だが、その内情とは、そろばんの勘定と商いの嗅覚、そして命懸けの博打を積み重ねた努力の結果である。




