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9.ババ抜き

 深夜の玄関ホール。

 蝋燭の微かな灯りとともにやってきたクラリッサは、安堵の息を吐きながら「なんとか上手くいきました……」と私に報告してくれた。


「素晴らしい。やはり私の目に狂いはなかった。あなたは最高の主君です。さあ、その偉大な第一歩の記念として、この私を存分に踏みにじって……」

「でも、お金はどうしましょうか」


 私の至極まっとうな要求を完全に無視し、クラリッサは深刻そうな顔で腕を組んだ。


「セバスチャンを味方に引き入れたのはいいですが、金庫に余裕がないのは事実です。お義母様は来月の夜会に出るための資金を何としてでも用意しろと言っていました。ですが、これ以上領民の税を上げるわけにはいきませんし……」

「……ああ、金策なら義母はもう済ませています。今日の昼に」

「え?」

「故にあなたが悩む必要はありません。まあ、朗報ではまったくありませんがね」


 私の言葉にクラリッサは怪訝そうに目を瞬かせた。


「どういうことですか?」

「いかに経営に無知な義母とはいえ、税を上げたからといって即日現金が手に入るわけではないことくらいは分かっているはずです。来月までにドレスや宝石を新調するとなれば、確実に別の手段で即金を工面しようとするでしょう」

「別の手段って……家の資産を売るということですか?」

「いいえ。もっと手っ取り早く、そして愚かな方法です」


 私は今日の昼下がり、この身に刻み込まれた強烈な快感を反芻しながら語り始めた。


「実は今日のお昼頃、この屋敷にお客様がいらっしゃいまして。それはもう最高の踏まれ心地でしたよ」


「……はぁ」


 クラリッサの目がスッと冷めたが、私は構わず熱弁を振るう。


「仕立ての良い高級な革靴でしたが、洗練された歩き方ではありませんでした。粗暴な体重の乗せ方とあの遠慮のなさ。さらに土足で他人の領域に踏み入ることに慣れきった傲慢な摩擦……ああ、思い出すだけで繊維が疼きます。……そして、靴底に付着していた泥は、明らかにこの辺りの上品な街路のものではありませんでした。おそらく、歓楽街や裏路地の奥深くを根城にしている者……」


「……それって」

「ええ。おそらく、あまりよろしくないお客様の類ですね」


 私が事実を突きつけると、クラリッサはハッと息を呑んだ。


「高利貸し……闇金、ですか。お義母様は、家や土地の権利書か何かを担保にして、裏社会からお金を借りたということ……!?」

「おそらくは。正規の銀行や商人であれば、当主の署名や家令の承認なしに莫大な額を貸し付けたりはしません。ですが裏の人間なら、義母の一時的な権力と強欲さにつけ込んで、喜んで罠を張るはずです」


「そんな……!」

 クラリッサは青ざめた顔で身を乗り出した。


「もし本当に家の権利書が担保にされているなら、伯爵家そのものが裏社会の手に渡ってしまうかもしれないんですよ!? 今すぐセバスチャンに言って、借金を……っ」

「おや、借金をどうするおつもりで? 金庫は空なのでしょう? 」

「でっ、でも……」

「それに……お嬢さん、私も今日まで一つ大きな勘違いをしていましたよ」


「勘違い……?」


「ええ。私はてっきり、義母の目的はこの伯爵家を完全に乗っ取り、自分のものとして維持することだと思い込んでいました。あなたもそう考えていたでしょう?」

「ち……違うのですか?」

「ええ。闇金という想定外のピースが嵌まったことで、盤面がひっくり返りました」


 私は静かに語り始めた。


「おそらく義母の目的は、この家を維持することなどではありません。……伯爵家を骨の髄までしゃぶり尽くして、別の安全な場所へ逃げることです」

「逃げる……? どこへですか?」

「……あなたが奪われたあの元婚約者の実家は、この伯爵家よりもずっと裕福で力のある名門、という評判らしいですね?」

「え、ええ、領地も広いですし、王都での発言力も強い家です」


「義母は借金で得た大金を、義妹の莫大な持参金として向こうの家に差し出すつもりでは? 来月の夜会に向けてドレスや宝石を買い漁るのも、実家が裕福であると見せかけて、向こうの家に破談を言い出させないための虚勢という可能性も」


「……持参金さえ渡して結婚してしまえば、義妹は向こうの家の人間。実家がどうなろうと関係ない、と?」


「ええ。もし義母が、借金で持参金を用意し、妹を婚約者の家へ送り込んだ直後にこの家を捨てるつもりなら、ドレスも宝石も急な金策も、辻褄が合います」


「でも……それでは、残された借金はどうなるんですか?」


「そこです、お嬢さん。そして一つ妙だとは思いませんか。……なぜ義母はよりにもよって今、この借金をしたのでしょう」


「今……?」


「彼女は、あなたが当主になる直前という、この時期をわざわざ選んだ」

クラリッサは戸惑ったように眉を寄せた。

「それは……どうして、ですか」


「この借金、金の使い道はドレスに宝石に、おそらく庶子の娘の持参金。完全に義母個人の都合の借金です」

「……はい」

「彼女は後見人という、期限付きの当主の代理人に過ぎない女です。どの世界でも、代理人が己の私欲のために勝手にこしらえた借金の責めを主が負わされる道理はないはず」


「な……なら、借金は義母のもので、家は……」

「ええ、本来ならば。……そして、それは義母自身も分かっているはずです。金を貸した闇金どもも同様に」

「……え?」

「義母個人にしか請求できない借金を、なぜ闇金は喜んで貸したのか。彼らには、確実に回収できる算段があるからです」

「……っ」


「成人した新当主が、後見中の一切を()()()()()()()()()と、自らの手で署名した場合。……その瞬間、あの借金は義母個人の罪ではなく、伯爵家の正式な債務に化ける」


「わ、私、が……? そんな、署名なんてするはずが……」


「いいえ、していましたよ」

 私は断言した。


「……お嬢さん、過去にあなたは言いましたね。『成人したからって、何も変わりません。あの人が素直に全部を返してくれるはずがない』と」


 図星を突かれたクラリッサの肩が、ビクリと跳ねた。


「そう、その諦念です。絶対にあり得ないと絶望し、完全に諦めきっていたどん底の朝に……突然、あの義母が憑き物が落ちたような顔であなたの前に跪くのです。『今日からあなたが当主です。私は後見の役目を終えました』と。……さあ、どうなりますか?」


「あ……」


「ボロを着せられ、床を磨かされ、名前すら呼ばれなかったあなたが、一夜にしてこの屋敷の主人になる。永遠に続くと思っていた地獄に、突然一筋の希望が差し込むのです。……縋り付いてしまいませんか? 奪われたものが全部戻ってくるという、その夢のような瞬間に」


 クラリッサは青ざめた唇をわななかせ、何も言い返せなかった。

 図星だったからだ。もしずっと孤独なまま、あの絶望の中でそんな希望を提示されていたら、間違いなく泣いて喜んでしまっていただろう。


「恭しく差し出された継承の書類の束。……あなたは中身を確かめますか? 一枚一枚疑ってかかれましたか?」


「…………っ」

 クラリッサの顔から、みるみる血の気が引いていった。


「読まずに書いていたでしょうね。歓喜に涙を浮かべて、震える手で、感謝すらしながら。……そして書き終えた頃には、義母たちは荷物をまとめている。あなたの手元に残るのは、爵位と、荒れ果てた領地と、あなた自身が正式に認めてしまった莫大な借金」


「あ……ああ……」


「お分かりですか、お嬢さん。この計画の最も邪悪な点はそこです。義母が長い年月をかけてあなたを踏みつけ、奪い、怯えさせてきたのは、単なる嗜虐ではない。この日のために仕込んでいたのではないでしょうか」


 クラリッサの身体が、恐怖と絶望、そして理不尽な悪意への怒りで小刻みに震え始めた。


「実に悪辣なババ抜きですよ。しかも最後の札は、あなたが自分の手で引くように細工されている。あなたが成人するそのXデーこそが、義母たちの脱出記念日であり、あなたの地獄への門出となる。……その後あなたは、身売りをしてでも返せと裏社会の男たちに地の果てまで追われることになるでしょうね」


「そんな……じゃあ、私はどうすれば……署名を、拒めば……?」


「ええ、それがすべての急所です。……いいですか、お嬢さん。恐れる必要はありません。むしろ喜ぶべきだ」

「よ、喜ぶ……?」


「この計画は、あなたが何も知らず、喜んでサインすることだけを前提に組まれている。逆に言えば、あなたが知ってしまった今この瞬間、義母の計画は根元から腐り始めた。……本当に最悪だったのは、私たちが何も知らないまま、あのXデーの朝を迎えることでした。ですがその未来はたった今消えたのです」


 私はあえて穏やかに、主君の心を奮い立たせるように囁いた。

「まずは明日、家令に命じて、義母が独断で結んだ担保契約の写しと金の流れが分かる帳簿、決裁の記録をすべて確保してください。契約の条件、担保の中身、そして私の読みが本当に正しいかを確認しなければ」


「……明日、すぐにセバスチャンに伝えます」


「ええ、期待していますよ。さあ、そうと決まれば明日に備えてしっかりとお休みください。あ、その前にどうか、あなたのその尊い決意を込めた一歩で、この私を力強く……!」


 ドンッ!!


「んぐふぉッ!?」


 言葉の途中で、みすぼらしい平底の靴が私の顔面を容赦なく踏み抜いた。

 体重が乗り、繊維が軋み、石床との間で私の全存在が圧殺される。


「おやすみなさい、マットさん」


 一切の感情を排した冷ややかな声とともに、彼女は私の表面でグリッと靴底を捻り、暗い廊下の奥へと足音もなく消えていった。


「あ”ぁ”っ……! しゅ、しゅごいィ……!」


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― 新着の感想 ―
『至極まっとうな要求』 (((((゜゜;) ブレないマットさん…笑
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