10.お預け
翌日の午後。
重々しい音を立てて樫の両開き扉が開かれた。
「ハニー! 会いたかったよ!」
現れたのは、仕立ての良い豪奢な乗馬服に身を包んだ、金髪の若い男だった。
甘い端整な顔立ちだが、その瞳にはどこか落ち着きがない。
「まぁ、ノーマン様! お待ちしておりましたわ!」
奥の部屋から、ふわりとした縦ロールを揺らしたクラリッサの異母妹が嬉々として駆け寄ってくる。
ノーマン。……なるほど、クラリッサの元婚約者にして、現在は異母妹の婚約者となった若君。
二人は玄関ホールで手を取り合い、華やかに笑い合った。
そのすぐ脇で、クラリッサは汚れたモップを手に、ペコペコと何度も頭を下げて通り過ぎるのを待つ、みすぼらしい使用人を演じていた。
ノーマンは一瞥すらしない。かつて将来を誓い合った婚約者だった少女が、すぐ目の前で埃に塗れて這いつくばっているというのに、彼の視界には完全に透明な存在としてしか映っていなかった。
そして。
ノーマンは当然の権利として、私の上へと足を下ろした。
ドスン。
ガシ、ガシッ。
ぐっ……靴の汚れを落とすための乱暴な擦りつけ。
仕立ての良い高級な革靴。上質な甲革、優雅な光沢……。
若々しく傲慢な、自己主張の激しいこの踏み込み。
ありがとうございます。
が。
先日にも感じた違和感。
彼が履いているのは、貴族の特注品であるはずの革靴だ。
上等な革底というものは、履き主の歩き癖に合わせて少しずつ摩耗し、中底もまた足裏の形に馴染んでいく。
まめに手入れをし、底が減れば腕のいい職人に張り替えてもらい、また履き込んで育てる。
丹念に育てられた革底は、角の立たない柔らかな当たりで、私へ静かに荷重を伝えてくるはずだった。
だが、この靴底から伝わる感触は驚くほど硬く、歪だ。
接地の圧が明らかに外側へ偏っている。踵の外縁だけが極端に磨り減り、その傾きを修正しないまま履き続けた故の荷重。
加えて、底の一部に妙な段差がある。擦り減った箇所だけを安物の革で継ぎ足し、圧着も縫いも甘いまま誤魔化した跡だ。
さらに、この足取りの焦燥感。
重心のブレが激しい。何かに追われ虚勢を張っているような、無理に踏みしめる力み……。
……ノーマン殿。あなた、かなりお困りのようですね?
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早朝。
冷たい朝靄が立ち込める中、パタパタと軽い足音が玄関ホールに響いた。
いつものつぎはぎだらけの使用人服を着たクラリッサだ。彼女は日課の掃除をこなすため、私の前に立ち止まると、両端を掴んでひょいと持ち上げ、そのまま屋敷の外へと運び出した。
「セバスチャンへの指示は終わりました。明日、お義母様がドレスの仮縫いで外出している間に、書類を探し出す手はずになっています」
パンッ! バンッ!
朝の冷気の中、手にした布団叩きのようなもので私の面が容赦なく打ち据えられる。昨日、屋敷の住人たちが擦り込んでいった泥や埃が宙に舞う。
「素晴らしい。やはり私の見込んだ主君だ。……あ、そういえば」
私は打撃の快感に浸りながら、ふと思い出したように口を開いた。
「昨日の午後、あのノーマン殿がいらっしゃいましたね。改めてじっくりと味わわせていただき、確信に変わりましたよ。お嬢さん、あなたの元婚約者の家は、おそらく火の車です」
私を打ち据える手が止まり、クラリッサが怪訝そうに眉をひそめた。
「……え? で、でも、あの家は領地も広くて、王都でも力のある名門で……」
「ええ、あなたは先日そう言いましたね。ですがお嬢さん、それは所詮評判です。……そして評判とは着飾ることができます。あの靴のように」
「靴……?」
「彼の靴です。足裏から伝わる靴底の感触があまりにもお粗末でした。真に裕福な者は、決してあんな足元はしていません。表面だけを磨き上げ、人の目に触れない裏側はボロボロ。見栄を張るためだけに騙し騙し履き続けているとしか思えません。貴族が困窮を隠すとき、真っ先に削るのは他人から見えない場所の金ですよ」
「つまり、ノーマン様の実家が困窮している……?」
「あくまで私の推論に過ぎませんがね。ですが、表向きこそ名門を気取っていても、裏では投資に失敗したか、あるいは放蕩がすぎたかして、現金の底が突きかけているとしたら……この縁組の意味も、少し変わってくるとは思いませんか?」
「意味……?」
「持参金です。花嫁の実家が婚家に渡す金。……もし向こうの懐が寒いのであれば、あの縁組を急いでいるのは、義母の側だけとは限らないということですよ」
私は低く笑い声を上げた。
「滑稽でしょう? もし私の推測が正しければ、義母は金持ちの婚約者に寄生先になってもらうため、闇金から借金をしてまで持参金を用意している。しかし婚約者側は、自分たちの借金の穴を埋めるために、その持参金を心待ちにしている」
クラリッサは絶句し、朝の光の中でしばらく立ち尽くした。
やがて、彼女の端整な唇の端が、すっと冷ややかに持ち上がる。
「彼らはお互い騙し合っている……。私から全てを奪っていった人たちは、実は勝手に自滅へと向かっているのですね」
「ええ。本来の筋書きであれば……何も知らないあなたが署名をさせられ、借金があなたに回り、あなたが裏社会に消えた後で、彼らはようやく気づくのです。持参金は婚家の借金の穴に呑まれて跡形もなく消え、義母が転がり込んだ寄生先は、張りぼての貧乏貴族だったという、地獄のような現実に」
「……そのシナリオ、少し書き換えます」
クラリッサの瞳に、悪魔的なまでの冷徹な輝きが宿った。
「私が成人するXデー。彼らが私に押し付けるはずだった地獄をそのままお返しして差し上げます」
「素晴らしい! あなたは沈む船から降りるだけ。あとは彼らが勝手に沈む。これ以上ないほど美しい幕引きです!」
やがて綺麗に土を払われた私は、室内に戻され、再び玄関の定位置へと丁寧に敷き直された。
「さあ、その輝かしい未来への祝福として、綺麗になったばかりの新鮮な私の全身に、あなたのその高貴な怒りを刻み込んで……!」
私は全身の剛毛を逆立て、来るべき極上の衝撃に備えて歓喜の身構えをした。
クラリッサの足が持ち上がり、私の中央へと振り下ろされ……
サワッ……。
「……え?」
予想に反して、私の表面に触れたのは羽のような感触だった。
クラリッサの平底の靴が、私の繊維の上にただ乗っているだけ。
「あの、お嬢さん? 踏み込みが甘いと言いますか、これではただ触れているだけで……」
「ええ、知っています」
見上げると、クラリッサはぞくりとするほど酷薄で、どこか艶やかな笑みを浮かべていた。
彼女は体重をかけないまま、靴底の先端で私の表面の繊維を、撫でるように、じらすように、ゆっくりと這わせた。
「あ、ひゃっ……!? ちょ、そこ、変に擦られると……っ!」
ふと、彼女の靴底がピタリと止まり、そのまますっと私の表面から離れていった。
「えっ」
「今日の朝のお手入れはここまでです、マットさん」
「……はい?」
「ご褒美は……セバスチャンが書類を手に入れてからのお楽しみということで」
踵を返し、冷ややかな横顔で微笑む私の主君。
それは紛れもなく、完全に主導権を握った支配者の顔だった。
「お、お預け!? 嘘でしょう、こんなに限界まで繊維を逆立てて待機していたのに!? 待って、せめてもう一歩、爪先だけでも……っ!」
「それでは、厨房の仕事に行ってきます。……いい子で待っていてくださいね」
私の悲痛な懇願を心地よさそうに聞き流し、クラリッサは振り返ることなく奥の廊下へと消えていった。
「あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”っ……!! 生殺しっ……!! っ、堪らないぃっ!!」




