11.懺悔
義母たちが新しいドレスの仮縫いで王都へと出かけている間、屋敷は久しぶりの静寂に包まれていた。
人目を避けるように家令の執務室を訪れたクラリッサに、セバスチャンは数枚の紙を重々しい手つきで広げた。
「……信じ難いことですが、お嬢様の懸念されていた通りでございました」
セバスチャンの声は、怒りと恐れで微かに震えていた。
「原本はすでに相手方へ渡っているようですが、その控えが残されていました。まず、こちらが借用の証文です。そして、ここに記されている数字が借り受けた額でございます」
指し示された異様な桁数を見て、クラリッサは息を呑んだ。
領地から得られる一年分の収入をすべて積み上げても、到底届かない莫大な額だった。
「そして、こちらが利息の取り決めでございます」
「……これは」
「正規の商会であれば、まずあり得ぬ暴利です」
書類には法外な利息が記された借用書と、伯爵家の領地を担保とする旨がはっきりと記されていた。
先日屋敷を訪れたという、あの下品な客人。
その正体が闇の高利貸しであったことは、もはや疑いようがなかった。
「領地経営を任されているあなたが、これほどの借り入れを知らなかったのですか?」
「まったく存じませんでした」
セバスチャンは苦々しく首を振った。
「本来、伯爵家の名で借り入れを行う際には、帳簿への記載や家令の副署が必要です。少額の運転資金ならば、後見人である奥様の判断のみで動かせる場合もございますが、領地そのものを担保とするほどの契約となれば、話は別です」
「別……?」
「後見人に許されているのは、未成年の当主に代わって家と財産を守ることです。税の徴収、使用人への俸給、領地の修繕、凶作時の食糧確保。そうした家を維持するための行為であれば、一定の裁量が認められています」
セバスチャンは一枚の紙を抜き出し、机の中央へ置いた。
「しかし、領地の売却や譲渡、あるいは領地そのものを失いかねない担保契約は、後見人一人の権限では成立いたしません。王家の管理院による認可か、成人した正統当主による追認が必要です」
クラリッサは目を見開いた。
「では、この契約は……まだ成立していない?」
「借金そのものは成立しています。奥様が金を受け取った以上、奥様個人には返済義務がございます」
セバスチャンは慎重に言葉を選んだ。
「ですが、伯爵家の領地に対する担保権は、現時点では不完全です。奥様が領地証書を勝手に持ち出し、公印を押したとしても、それだけで領地を処分することはできません」
「それなら、どうして高利貸しはこんな大金を……」
「……これを」
セバスチャンが示したのは、借用証文の末尾に小さな文字で書かれた一節だった。
「正統なる当主が成人の後、本契約および後見期間中に執行された一切の財務行為を追認した時点をもって……担保権は確定する……」
その一説を読むクラリッサの声が掠れた。
「はい」
セバスチャンは重々しく頷いた。
「相手方も承知しているのです。奥様の署名と公印だけでは伯爵領を確実に奪えないことを。故に、成人したお嬢様ご自身の署名を得て、この不完全な契約を完成させるつもりなのでしょう」
「私が署名すれば……どうなりますか」
「奥様が権限を逸脱して行った行為を、正式な当主であるお嬢様が後から認めたことになります」
セバスチャンの指が、借用証文の上をゆっくりとなぞった。
「奥様個人による無断の借り入れは、伯爵家のために行われた正当な借り入れへと変わる。無効であった領地担保は有効となり、債務は伯爵家へ引き継がれます」
玄関ホールに敷かれた、あのドアマットの声が脳裏に蘇った。
『成人した新当主が、後見中の一切を正当なものと認めると、自らの手で署名した場合。……その瞬間、あの借金は義母個人の罪ではなく、伯爵家の正式な債務に化ける』
彼の推測は、恐ろしいほどにすべて的中していたのだ。
「……返済期日は?」
クラリッサが尋ねると、セバスチャンは別の箇所を示した。
そこに記されていたのは、クラリッサが成人を迎える日から十日後の日付だった。
「成人の日にお嬢様の追認を得て、それから十日以内に返済せよということでしょう」
「この金額を十日で返すなんて……」
「不可能です」
セバスチャンは断言した。
「現在の伯爵家には、利息どころか元金の一部すら返す余力がございません。相手方も、おそらくそれを承知のうえで貸しています」
返済させるための融資ではない。
返済不能に陥らせ、領地を奪うための融資なのだ。
クラリッサの背筋を冷たいものが伝った。
「では、私が署名した十日後には……」
「高利貸しは、正式に確定した担保権を根拠として、領地と財産の引き渡しを要求してくるでしょう」
クラリッサは書類へ視線を戻した。
借り入れた金の使途について、契約書には「伯爵家の運営および領地維持のため」と記されている。
だが、書面上の名目とは異なり、実際の金の使途はすべて義母たちの私的な浪費だった。
「金の行方は追えますか?」
「一部はすでに宝石商と仕立屋へ支払われています。残りは金庫に移されたようです。また、ノーマン様の家へ送金する旨を記した書状もございました」
「やはり持参金にも……」
義母は、この家を守るつもりなど毛頭なかった。
伯爵家のための借り入れを装って金を得て、それを娘の持参金へ変える。
クラリッサが成人した日、後見終了の書類へ追認条項を紛れ込ませるつもりなのだろう。
そして署名を得た後は、異母妹とともにノーマンの家へ移るつもりなのかもしれない。
あとに残されるのは、荒れた領地と、空の金庫と、十日後に返済期限を迎える莫大な借金。
それらすべてを負担するのは……
「……すべて、最初からそのために」
クラリッサの手が震えた。
長年、自分を無知なまま閉じ込め、読み書きや領地経営から遠ざけ、差し出されたものに逆らえない人間へ作り変えようとしてきた。
それは単なる嗜虐ではなかった。
成人の日、書類の中身も確かめず、涙を流して署名する娘を作り上げるための準備だったのだ。
「……セバスチャン。この書類の読み方を私に教えてちょうだい」
クラリッサは青ざめながらも、決して目を逸らさなかった。
「何を認め、何を拒み、どの契約が有効で、どの契約が権限を逸脱しているのか。何と引き換えに何を要求できるのか。それを自分の頭で判断できなければ、私は何も守れません」
義母の計画は、何も知らない小娘が、差し出された紙に読みもせず署名することを前提に組まれていた。
クラリッサの無知こそが、あの者たちにとって最大の担保だったのだ。
ならば。
一枚残らず読み、一行残らず理解したうえで、あの席に着いてやる。
それこそが、クラリッサを無知なまま飼い殺そうとした義母への、何よりの返答になるはずだ。
「まず、後見人が行える契約と、行えない契約の違いを教えてください。その次に、追認によって何が変わるのかを。それから、公印と署名の効力についても」
セバスチャンは一瞬、驚いたようにクラリッサを見つめた。
やがて、その老いた瞳に、静かな喜びが浮かんだ。
「かしこまりました」
彼女は義母たちが帰宅するまでの数時間、執務室の机に齧りつき、セバスチャンから領地経営と法務の基礎を貪るように学び続けた。
時折、廊下の外から「あのグズはどこへ行ったんだい!」と、クラリッサを探す年老いた侍女のヒステリックな声が響いてきた。
その度にセバスチャンは執務室を出て、「彼女なら、私の言いつけで地下の書庫の整理をさせている。手が離せない」と嘘をつき、クラリッサを完璧に庇い通した。
侍女の怒鳴り声と足音が遠ざかった後、執務室に戻ってきたセバスチャンは、ふと、扉の前で歩みを止めた。
「……昔から、こうしてお庇いできていれば良かったのですが」
絞り出すような低い声だった。
「いいのです、セバスチャン」
クラリッサは書類から顔を上げ、静かに首を振った。
「あなたが私を守ろうとしてくださっていたのは、知っていましたから」
「……お嬢様」
「私の食事が減らされた時、厨房にこっそり掛け合ってくれたでしょう。冬に毛布を運ばせてくれたことも。……それから、一度、お義母様に直接諫言してくれたことも」
「ですが、あれは……私が余計なことをしたばかりに、あなた様は……」
セバスチャンは唇を震わせ、その先を言えなかった。
クラリッサはふっと微笑んだ。
「ええ。バレて、二日ほどご飯を抜かれてしまいましたね」
なんでもないことのように彼女は言った。
「あの人はそういう人です。逆らった本人ではなく私を罰する。そうすれば、誰も私を庇わなくなると分かっていたから」
セバスチャンは、深く、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません。私はいつからか……あなた様を助けることを諦めてしまって……」
それは、老家令が長年胸の内に押し込めていた懺悔だった。
「顔を上げてください、セバスチャン」
クラリッサは、かつての怯えた少女ではなく、気高く慈愛に満ちた次期当主の微笑みを浮かべていた。
「あなたまで潰されていたら、この家はとうに終わっていました。あなたが耐えて、残ってくれていたから、今、私はここで戦う準備ができている。……さあ、続きを。私たちがこの家を取り戻すのでしょう?」
その凛とした声に、セバスチャンは目頭を熱くしながら深く頷き、再び真の主君のための講義を再開したのだった。




