12.夜会
とある日の夜。
「さあ、行くわよ。今夜の主役はあなたなのだからね!」
「ええ、お母様!」
義母と異母妹が上機嫌な声とともに屋敷を出て行こうとする。
私は内心で歓喜の叫びを上げた。
二人が履いているのは、間違いなく今日の夜会のために新調された、最高級の新品の靴だ。
異母妹の靴底はまだ一度も削れていない滑らかな真新しい革。そして義母のヒールに至っては、凶器と見紛うほどに細く、鋭く、高い。
そのピンヒールが、上機嫌な彼女たちの弾むような足取りによって、私の繊維の奥深くまで容赦なく突き刺さる。
……あ”ぁ”っ! 素晴らしいっ!
借金で買った新品のヒールによる、この傲慢さと自己顕示欲に満ちた極上の刺突……!
ありがとうございます! ありがとうございます!
私は歓喜に打ち震えながら、親子が馬車へと乗り込んでいくのを見送った。
やがて馬車の車輪の音が遠ざかり、屋敷が完全な静寂に包まれた後も、私は冷たい石床の上でその余韻に浸りきっていた。
「はぁっ……んふぅ……っ」
「……マットさん」
「ひゃうっ!?」
不意に声が降り注ぎ、私はビクッと繊維を跳ねさせた。
見上げると、いつの間にかクラリッサが、私の前に立っていた。
「あ、はぁっ……お、お嬢さん。いらしていたのですね……」
私は先ほどの極上の踏まれ心地による荒い息を整えながら、なんとか声を絞り出した。
だが、クラリッサは何も言わない。
彼女は極めて冷ややかな瞳で私を見下ろしていた。
そして、小さく呟いた。
「……踏まれるなら、誰でもいいんですね」
ぞくり、と。
先ほどのピンヒールとは全く質の違う、精神的な恐怖と歓喜が綯交ぜになった震えが走った。
「ち、違っ! 誤解ですお嬢さん! 今のは単に新品の靴の物珍しさに少しばかり反応してしまっただけで……!」
「ふぅん。ずいぶんと幸せそうな声を漏らしていましたけれど」
「断じて違います! 私は決して誰でもいいわけでは! お嬢さんのあの気高く容赦のない、冷徹な踏み込みこそが私にとって至高であり絶対で……!」
「いいんですよ。マットさん」
クラリッサは私の必死の弁明をピシャリと遮った。
そして、すっと目を細め、夜の闇よりも暗く艶やかな微笑みを浮かべた。
「私の足が一番だと思われるように。……今後もたっぷり教えてあげますから」
「は……はいぃぃ……!!!」
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歓喜に悶える奇妙なドアマットを足元に放置し、クラリッサは静かに玄関の扉の向こうを見据えた。
今夜の夜会で、異母妹とノーマンは大々的な婚約発表を行う。
華やかなシャンデリアの下、大勢の貴族たちからの祝福の声に包まれながら、二人は笑顔で互いに抱き合うのだろう。
自分が持っていたはずのものが何もかも妹の手に渡り、その上で社交界の全員がそれを当然のこととして祝福する。
……その光景を思い描くだけで、以前の彼女なら息ができなくなっていたかもしれない。
ノーマンは、幼い頃からの婚約者だった。
もっとも、そこに愛情があったかと言われれば、正直よく分からない。
両家が決めた縁組で、季節ごとに顔を合わせ、当たり障りのない話をする。そういう関係だった。
父が死に、この家の実権が義母の手に渡った時点で、彼の中の天秤は傾いたのだろう。
今にして思えば、彼の判断は妥当だ。
後ろ盾を失った正嫡の娘。後見人に全てを握られ、使用人以下の扱いを受け、いずれ修道院にでも放り込まれて消えていくのだろうと、誰もがそう見ていたはずだ。
ならば、賭けるべき相手は決まっている。この家を実際に動かしている義母と、その娘だ。
そして義母は、持参金という何よりも分かりやすい餌をちらつかせた。
加えて、異母妹は実際に可愛らしかった。明るく、無邪気で、彼に構われることを心から喜んだ。
……その愛らしさに、持参金がどれだけ色を添えていたのかは、ノーマン自身にも分からないだろうけど。
だから彼は、クラリッサを見なくなった。
憎んだわけでも、罪悪感に苛まれたわけでもなく、ただ価値の無くなった相手に割く関心を持ち合わせていなかっただけ。
そう。彼は正しかったのだ。
クラリッサは彼の見立て通りに終わっていた。
……あの日、玄関ホールで奇妙なドアマットに出会わなければ。
彼のおかげで状況が完全に変わった。
情報を収集し、セバスチャンという強力な味方をつけ、そして何より、あの傲慢な義母が決して絶対的な王ではないという真実を知った。
義母たちは今夜、大勢の貴族の前で婚約を公にする。
一度公にしてしまえばもう後には引けない。破棄すれば約束を反故にした家として信用を失う。
そう、それでいい。
もう、ノーマンのことなどどうでもいい。彼が誰と結ばれようと、今の彼女の心には波風一つ立てない。
それよりも自分は、自分自身を守り、奪われたものを取り戻すために動くのだ。
クラリッサは決意を込めて強く拳を握りしめた。




