13.Xデー
そして、ついに運命のXデー。
クラリッサの成人の日がやってきた。
その日も、クラリッサはいつも通り玄関ホールの床を磨いていた。すると、廊下の奥から絹の擦れる音が近づいてきた。
「クラリッサ。手を止めてこちらにいらっしゃい」
顔を上げると、そこには信じられないほど優しげに、にっこりと微笑む義母の姿があった。
促されるままに応接室へと足を踏み入れると、そこにはすでに二人の人物が待機していた。
一人は、重々しい面持ちで控える家令のセバスチャン。
もう一人は上等な服を着ているが、どこか暴力的な空気を纏った少々怖い顔の男だった。
クラリッサは勧められるまま、ソファーに腰を下ろした。
心臓が早鐘を打つ。だが彼女の脳裏にはマットが授けてくれた言葉がはっきりと刻み込まれていた。
『サインの日、席にはきっと闇金の代理人が同席しています。あなたが借金を被るサインをするのをしっかり見届けるためにね』
『ですがお嬢さん。闇金は敵ではありません。彼らはただ、確実に取り立てる相手を見極めているだけです』
『家令は下手に手出しできません。味方ではありますが所詮は使用人。当事者ではありません。……お嬢さん、あなたがすべてを見極めるのです』
クラリッサの目の前のテーブルに、分厚い書類の束が置かれた。
「今日からあなたが、この伯爵家の当主よ」
義母はご機嫌な声で、まるで最高のプレゼントを与えるかのようにそう言った。
馬鹿馬鹿しい。
クラリッサは内心で冷たく吐き捨てた。
今まで散々ボロ布のように扱って虐げておいて、一体何様だというのか。
……だが、悲しいかな。もしあのドアマットに出会っていなければ、自分は間違いなくこの嘘に満ちた言葉を疑うことなく涙を流し、大喜びしてしまっていただろう。
何故今まで当主となる予定の私を虐げていたのか、なんて疑問も出ることなく。
クラリッサは瞬きを一つして、目にわずかな光を浮かべてみせた。
「私が……当主に……?」
声を少しだけ震わせる。
「ええ、そうよ。私はあくまで、あなたが成人するまでの後見人に過ぎないのだから」
義母は柔らかく微笑み、そっとクラリッサの手を取った。
「これからは、あなたの好きに生きていいの。この家も、領地も、あなたのものなのだから」
クラリッサは俯き、感極まったように唇を震わせた。
「……はい、お義母様」
義母の口元が満足げに緩む。
効いている。
それからクラリッサは、怯えたように視線を男の方へ向けた。
「あ、あのお方は……?」
「ああ、気にしなくていいわ。正式な手続きのためのただの証人みたいなものよ」
男は答えず、ただクラリッサを見ていた。
……見られている、と彼女は思う。品定めをされている。
この娘は本当に何も知らないのか、本当に大人しく署名するのか。彼はそれを見極めるためにここに座っている。
クラリッサは男の視線から逃げるように目を伏せた。
怯えた小動物のように肩をすくめて。
男の口の端が、わずかに動いた気がした。
……聞いていた通りの小娘だ、とでも思ったのだろう。
「さあ、クラリッサ。成人したあなたを正式に当主にするために、この書類にサインをしてちょうだい」
義母にペンを渡され、クラリッサは書類の束に手を伸ばした。
一番上は、伯爵家の当主となるための継承のサイン。
じっくり読み、クラリッサはペンを走らせる。
二枚目は、領地経営に関するサイン。
これも問題ない。サインをする。
セバスチャンから事前に教わった形式と照合し、内容を一行ずつ確かめてから、クラリッサは署名した。
サインをする度、義母の顔に隠しきれない歓喜と嘲笑の色が浮かび上がりかけた、その時だった。
クラリッサの瞳が、とある一枚の紙の、とある一行に留まった。
『後見中における一切の措置を、正当なるものとして承認し……』
クラリッサはその紙を束からスッと抜き出すと、ペンを置いた。
「……これには、サインしません」
「な、何を言っているの……?」
義母の顔が引きつり、声が応接室に響いた。
「そ、それは当主の引き継ぎに必要な、大切なお金に関する書類よ! 領地を回すためには、どうしても必要な……」
「ご自身とあの子のドレス代や、婚約者へ渡す持参金のための借金が、どうして伯爵家のために必要なのですか?」
「ッ……!?」
図星を突かれた義母の顔から、さっと血の気が引いた。彼女は焦ったように立ち上がり、クラリッサの手から書類を奪い取ろうとする。
「い、いいから早くサインをしなさい! あなたは何も分かっていないのよ! これを書かないと……!」
クラリッサは狂乱し始めた義母を完全に無視し、目の前に座る闇金の代理人を真っ直ぐに見据えた。
「私は、これにサインしません」
静かな宣告だった。
代理人の男の目がスッと細められる。
「……困るな。それじゃ話が違う」
ドスを効かせた低い声。
普通の令嬢なら震え上がって泣き出すところだが、クラリッサは瞬き一つしなかった。
「義母の行いは、後見人としての権限を完全に逸脱した背任です。確かに義母には後見人として、日常の財産を管理する権限はありました。ですが、領地を失いかねない担保契約を独断で成立させる権限はありません」
「…………」
「だからこそ、あなた方は私の成人を待った。正式な当主となった私に後見中の一切を認めさせ、この不完全な担保契約を完成させるために。違いますか?」
男は沈黙した。
小娘の言う通りだった。
この手の契約が成立するのは、次期当主が何も知らぬまま署名し、自ら債務を引き受けてくれるから。
署名さえ得られれば後から騒がれても、正式な当主が自ら認めた契約だと押し通せる。
だが、追認を拒まれた今、事情はまるで違う。
領地を強引に取り立てれば不当に奪おうとした者として目をつけられる。利益よりも危険の方が大きい。
……厄介なことになった。
この娘はこちらが何を待っていたのかを正確に理解している。
「サ、サインしなさい! クラリッサ! サインしろと言っているでしょう!!」
義母が顔を真っ赤にして叫んだ。
「私が命じているのよ! 今まで誰のおかげでこの家で生きてこられたと思っているの!」
顔を真っ赤にして喚き散らす義母を尻目に、クラリッサは代理人相手に交渉の最後の一手を打った。
「取引をしましょう」
クラリッサは、静かにそう切り出した。
「……言ってみろ」
「この件を私はどこにも訴え出ません。王家にも、法廷にも。その代わり、伯爵家に対する一切の請求を放棄し、領地証書を返還してください」
「それだけじゃ話にならんな。貸した金はどうする」
「この屋敷には義母が買い漁ったドレスと宝石があります。そして義母の部屋の金庫には、妹の婚約者の家へ渡るはずだった持参金が、まだそのまま残っている可能性が高い」
クラリッサは冷酷な笑みを浮かべた。
「どうぞ持っていってください。私は一切止めません。それでも足りない残りの分は……義母個人の債務として請求してください」
「クラリッサ!? おま、ふざけるな、何を……ッ!」
その瞬間、代理人の男の目が完全に変わった。
目の前に座る豪胆な令嬢を脅して、無効になるリスクのある領地を無理やり奪うよりも。
今ここで現金の詰まった金庫や高価な宝石を回収し、この愚かな後見人から残りを取り立てた方が、はるかに手っ取り早く、そして確実に回収できる。
しかも当の当主が一切止めないと言っている。
狙うべきはクラリッサではない。この喚き散らす無能な女だ。
「……交渉成立だ、若き当主様。あんた、大したタマだな」
男がニヤリと笑い、指を鳴らした。
バタンッ! と応接室の扉が開き、廊下に待機していた数人の屈強な男たちが雪崩れ込んでくる。
「方針変更だ。伯爵家への取り立ては中止。……借りたのはそこの女だ」
「え……?」
義母がポカンと口を開けた。
「まずはこいつの部屋にある金目のものと、金庫の現金を根こそぎ回収しろ」
「は……!? ちょ、ちょっと待って、やめなさい、私に触るな! 私は伯爵の……!」
「今のあんたはただの債務者だろうが!!」
代理人の怒声と共に、男たちが一斉に二階へと向かっていった。数人は義母の腕を乱暴に掴み、床に引きずり倒す。
「いやあああっ! 離して! クラリッサ、助けて! サインして、お願いだからぁっ!!」
「……」
クラリッサは、無様に床を這いつくばり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした義母を、まるで道端の石ころでも見るかのような冷たい目で見下ろしていた。
やがて、上階から「きゃあああっ!?」という異母妹の悲鳴と、荒々しい音が響き渡る。
それは、長年クラリッサからすべてを奪い続けてきた者たちが、自ら招いた結末を迎える音だった。




