8.ご用立て
私はいつも通り、玄関ホールの定位置で午後の静寂に身を委ねていた。
……さて、彼女は今頃、上手くやっているだろうか。
あの家令が計算のできる男なら膝をつくはずだが、長年の恐怖で錆びついた判断力というものは、時に計算より頑固なことも……
と、思考を巡らせていた矢先だった。
重々しい音を立てて、樫の両開き扉が開かれた。
「ようこそお越しくださいました。奥様がお待ちでございます」
応対に出たのは、あの糊の効いたメイド服の老侍女だった。普段クラリッサに浴びせる罵声からは想像もつかない、丁寧な猫撫で声である。
なるほど、客人か。
そして客人は、当然のように私の上へと足を下ろした。
おお……。
仕立ての良い高級な革靴。踵から伝わる堂々たる体重の乗せ方。
ありがとうござ……
……ん?
何かが妙だ。
確かに靴は一級品だ。だが歩き方に違和感。
幼少から躾けられた重心の運び方ではない。粗暴な体重の乗せ方に、他人の敷居を土足で跨ぐことに慣れきった、遠慮という概念が欠落した傲慢な摩擦。
そして何より、この泥。
靴底の織り目に擦り込まれてくる土の質が、普段この屋敷を訪れる客人たちのものとはまるで違う。
上品な石畳の乾いた砂ではない。じめついていて、腐ったような、どこか甘ったるく淀んだような……例えるなら歓楽街や裏路地のような、日の当たらない場所の泥。
「いやあ、ご立派なお屋敷だ。お噂はかねがね」
頭上から降ってきたのは、ひどく人当たりの良い、艶のある男の声だった。
奥から義母の華やいだ声がそれに応える。
「まあ、遠いところからようこそ。……ささ、こちらへ。込み入ったお話は奥で」
「ええ、ええ。承知しております」
男は如才なく笑い、そして、声をわずかに落として続けた。
「……ご心配には及びませんよ、奥様。私どもはどんなご事情のお客様にも、必ずご用立ていたしますので」
……ほう。
ご用立て、と来たか。
仕立ての良い靴に裏路地の泥。
人当たりの良い口ぶりに、他人の敷居を土足で跨ぐことに慣れきった足取り。
ご用立て。どんな事情のお客様にも。
……なるほど。
この男は金貸しだ。それも、正規の商会ではあり得ない筋の。
金に詰まった義母が、ついに裏の金に手を出したということか。
客人は義母自ら奥の応接室へと案内され、扉の閉まる音が響いた。密談の中身はもう私には届かない。
私は敷かれたまま、先ほどの足裏の感触を反芻し……
……担保は何だ?
裏の人間が大金をただで貸すはずがない。相応の担保を取るはずだ。
しかし義母個人の財産などたかが知れている。ドレスも宝石も、この家の金で買ったものだ。
となると……担保として考えられるのはこの伯爵家そのもの。屋敷か、領地か。いずれにせよ、彼女の物ではないものだ。
だが、自分がこれからも住み続けるつもりの家の土台を、裏社会の抵当に入れる馬鹿がどこにいる?
義母の狙いはこの伯爵家の乗っ取りだと考えていた。
当主の座に君臨し、この豪奢な屋敷で贅を尽くし続けること。私はそう読んでいた。
もし返済に躓けば領地ごと持っていかれるのだ。乗っ取る気ならこれは絶対にやらない手。
つまり義母は、この家を維持する気がない。
ぞわり、と繊維の根が粟立った。
……今。
もうすぐ、成人……
ふと、ずっと喉の奥に刺さっていた小骨のような疑問が、音を立てて繋がった。
なぜ義母は、クラリッサを排除しなかった?
義母にとってクラリッサは、正統な血を引く目障りな先妻の娘。
憎いなら修道院にでも放り込めばいい。あるいは病死に見せかける手だってあっただろう。あの女の悪辣さなら躊躇う理由がない。
それに、そうしていれば。
正嫡が消えれば次に血を引くのは庶子の娘だ。異母妹を当主に据え、義母は晴れてその後見人としてこの家を完全に我が物にできたはず。
だが現実には、あの娘は今もこの屋敷にいる。
ボロを着せられ、痩せ細り、床を磨きながら。
そのために、義母は周囲に面倒な嘘を吐き続けてきたはずだ。
長女は体が弱く、人前に出ることもままならない。といったように。
そこまでして隠し通すくらいなら、いっそ本当に消してしまえばいい。
なのに義母は面倒な道を選んだ。
殺さず、追い出さず、手元に置いて。壊さない程度に痛めつけ、飼い慣らしながら。
まるで、いつか使う日のために、生かしておくかのように……。
あのぼろ布を着せられた娘の、すべてを諦めきった横顔が脳裏をよぎる。
……そういうことか。
夜が来たら、彼女に伝えなければならないことができた。
それも、とびきり反吐が出るほど醜悪な報せを。




