6.先っちょだけ
その夜。
屋敷の人間が皆寝静まり、完全な静寂が降りた頃。
クラリッサは、小さな蝋燭の火だけを頼りに、音を立てないよう慎重な足取りで玄関ホールへと向かっていた。
冷たい床を歩き、重厚な樫の扉の前に敷かれた長方形のシルエットを見下ろす。
「ま、マットさん……」
暗闇の中、囁くような声で呼びかけると、足元から歓喜に満ちたねっとりとした声が返ってきた。
「こんばんは、お嬢さん。とてもいい夜ですね。こんな夜更けに私を踏みに来てくださるとは、恐悦至極」
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「ふむ……なるほど」
蝋燭の頼りない灯りが揺れる中、私はクラリッサの報告を静かに反芻した。
曰く、この家は領地からの税収で生計を立てている。法的な決裁権は義母が握っているが、実務の大部分を担っているのは家令らしい、と。
「お父様が亡くなってから、屋敷の侍女や使用人はほとんど入れ替わってしまいました。でも……家令のセバスチャンだけは、ずっと残っているんです」
「当然でしょうね。彼を追い出してしまえば、無能な義母には領地経営などできないでしょう」
私は思考を加速させる。
「素晴らしい成果です、お嬢さん。たった一日でこの屋敷の急所を見つけ出した」
「急所……?」
「ええ。我々の第一目標が決まりました。まずは、その家令を味方に引き込みます」
クラリッサは目を丸くした。
「セバスチャンを? でも、彼もお義母様には逆らえません。それに、今の私の言葉なんて信じてもらえるはずが……」
「いいですか、お嬢さん」
私は彼女の不安を遮り、説き始めた。
「人は情だけでは動きません。『利益』と『恐怖』、そして『ビジョン』が必要です。間違っても昔馴染みの家令に、助けてと泣きつくような愚かな真似はしないでください。そんなことをすれば、たとえ同情はしても、勝ち目がないと判断すれば表立って義母に逆らうことはできないでしょう」
「では、どうすれば……?」
「彼に、あなたが救済者たる真の主君であることを証明するのです。家令の最大の目的は何でしょう。己の保身だけなら、とうにこの家を見限っているはずです。代々仕えてきた領地と家を守りたいからこそ、彼は今も残っているのではありませんか? 彼は今、無知で強欲な義母によって領地が破滅へと向かっていくのを、血を吐くような思いで見ているのではないでしょうか」
私は蝋燭の火越しに見えるクラリッサの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「だからこそ、あなたは当主の顔をして彼に接触するのです。義母の無謀な増税がいかに領地を食いつぶす愚策であるかを論理的に指摘しなさい。そして、あなたならこの家を正しく導けるという知性を見せつけるのです。義母の乗る船は泥舟であり、まもなく沈む。領地を守りたければ、正当な血を引く私に賭けろ、と」
「…………」
「選択を迫るのです。義母と共に領地を潰すか、真の主君に寝返って領地を救うか。……実務を取り仕切る有能な家令であれば、少なくともどちらに未来があるかは計算できるはずです」
クラリッサは蝋燭の火を見つめながら、私の言葉を、策を、必死に自分の血肉へと変えようとしている。
灯りに照らされた彼女の指先はひび割れており、手の甲には真新しい擦り傷が滲んでいた。
それでも。
その横顔にはもう下働きの面影はない。そこにあるのは冷たく研ぎ澄まされた、若き女帝の顔だった。
「……分かりました。やってみます」
決意を込めたその声に、私はたまらず身をよじった。
「ああっ、素晴らしい……! その決断力、その冷たさ! 最高ですお嬢さん! さあ、この策の報酬として、どうか私をその靴で! あ、いっそ裸足でも構いません、どうぞ思い切り踏みにじって……」
「おやすみなさい、マットさん」
クラリッサは私を完全に無視して踵を返し、暗闇の中を足音もなく立ち去ってしまった。
「あ、ちょ、待っ……少しでいいんで! 先っちょ! 先っちょだけ、つま先だけでもぉ……!」
私の悲痛な懇願は、虚しく深夜の玄関ホールに吸い込まれていった。




