4.契約
「クラリッサ。それが私の名前です」
土を払う手を止め、彼女……クラリッサはぽつりぽつりと身の上を語り始めた。
彼女はこの家の正当な長女として生まれたのだという。
しかし幼くして実の母を亡くし、その後、父は後妻を屋敷に迎え入れた。
「あの人は、お父様の……その、囲っていた方でした。妹は、お母様が生きていた頃にはもう、生まれていたそうです」
なるほど。つまり後妻は元愛人であり、その連れ子はクラリッサの異母妹というわけか。
母の死からわずかの後、父はその母子を屋敷に入れた。責任感ゆえか、情ゆえかは、もう本人にしか分からない。
しかし悲劇は続くもので、それから間もなくして当主である父も病死してしまう。
結果として、この家は継母によって完全に実権を握られてしまった。
「お父様が亡くなってから、私の居場所はなくなりました」
「なるほど。そして婚約者は妹のものに、と」
「ええ。幼い頃からずっと一緒に育ってきた方だったんですけど……。妹は明るくて可愛らしい子ですから、あの人もすっかり夢中になってしまって。お義母様がそこに付け込んで縁談をまとめてしまえば、もう誰も止められませんでした」
そこまで一気に語り終えてから、クラリッサはハッと我に返ったように顔を上げた。
「……って、私、ドアマットに何を真剣に愚痴ってるんでしょう。ごめんなさい、今のは忘れてください……」
自己嫌悪に陥ったのか、彼女はみるみるうちに肩を落とし、すっかり沈み込んでしまった。
無理もない。長年虐げられ、精神的にも限界が来ていたのだろう。だからこそ、喋るだけの布切れ相手にすら、堰を切ったように言葉を吐き出してしまったのだ。
だが、私はただ黙って聞き流すような、ただの平たいドアマットではない。
「ふむ……。私はこの世界のルールを詳しく存じませんが、あなたの話はどうにも妙だ」
「え……?」
「おそらく、この家は由緒ある貴族なのでしょう。そして貴族という生き物は、いつの時代、いかなる世界においても基本的に、家がどう続いてきたかという『正統』を非常に重視するはずです」
「それは、そう、ですけれど……」
「ならば、おかしいではありませんか」
私は朝の空気に響かないよう、あえて低く、理知的なトーンで告げた。
「正嫡のあなたが軽んじられ、継母が家長として堂々と家を管理している。……貴族社会の常識に照らし合わせた時、そんな道理がすんなりとまかり通るなど、どう考えても不自然極まりない」
「それは……私が、未成年だから」
クラリッサはぽつりと零した。
「当主の座は空位のまま、今はお義母様が私の後見人としてすべてを管理しています。財産も、使用人の人事も……全部。未成年の私に代わって、という名目で」
「ほう。つまり彼女の権力は、あなたの代理に過ぎないと」
「……はい」
「ならば話は早い。その権力には明確な期限があるではありませんか」
私はごく当然の帰結として告げた。
「あなたが成人すれば後見は終わる。彼女が振るっているものはすべて借り物だ。……で、あなたの成人はいつです?」
「……あと、二か月ほどです。でも」
クラリッサは力なく首を振った。
「きっと成人しても何も変わりません。あの人が素直に全部を返してくれるはずがない。書類も印章も金庫の鍵も、全部あの人が握っているんです。私が返してと言ったところで鞭が飛んでくるだけ。……誰も味方がいないのは、成人しても同じです。婚約者も、ドレスも、部屋も、全部奪われました。私はこのまま、あの人たちに支配されて生きていくしかないんです」
諦観に染まりきった力のない声。
ああ、これは……
「……気に入らないな」
低く吐き捨てた。
クラリッサがびくっと肩を震わせる。
「正嫡という、貴族社会においてこれ以上ない正当な大義名分を持っているにも関わらず……あなたはただ怯え、何もしないままその底辺の地位に甘んじるつもりですか」
「……っ!」
彼女の顔が弾かれたように上がり、その大きな瞳に明確な怒りの炎が灯った。
「私の何が分かるっていうんですか……! 毎日殴られて、食事もろくにもらえなくて! 逆らえば殺されるかもしれないのに!」
「ええ、分かりません。私はただのドアマットですからね」
激昂する彼女に対し、私はどこまでも怯まず、淡々と言い放つ。
「ですが、権力というものは『力があるから支配できる』のではありません。『支配されている側が、相手を強いと思い込んでいるから』成立するのです。そこを履き違えてはいけない」
「え……?」
「現状として義母は強い。だからあなたは従うしかない。いいえ、違います。あなたが『彼女は強い』と錯覚しひれ伏しているから、彼女に権力が生まれているだけ」
私は冷徹な事実として、言葉を真っ直ぐに突き刺した。
クラリッサの瞳から怒りがスッと消え、代わりに戸惑いが広がり始める。
「真に強い者は、わざわざ弱い者を虐げたりはしません。力で押さえつけるだけの支配は、その基盤がいかに脆いものであるかを自ら証明しているに過ぎない。彼女たちが理不尽な暴力を振るうのは、あなたが牙を剥くことを何よりも恐れているからでは?」
「私を……恐れて……?」
「ええ。あなたはご自身のことを何も持たない被害者だと思っているようですが、それは義母にそう思い込まされているだけの甘えです。……正当な権利を持ちながらそれを行使せず、ただ奪われることに慣れきった敗北者。それが今のあなたです」
「敗北、者……」
彼女は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。これまでの理不尽な日々、奪われた尊厳、そして何より、それに抗おうとすらしなかった自分自身の弱さを突きつけられ、悔しさに全身を小刻みに震わせている。
やがて、彼女は確かな声で口を開いた。
「……どうしたらいいんですか」
「ほう、この底辺の立場にこれ以上甘んじる気はないと?」
クラリッサの目が変わった。
奥底でずっと押し殺されていた矜持が、ふっと熱を帯び始めた。
「なるほど、分かりました」
私は満足して言葉を継いだ。
「ですが、私ができるのはあくまで盤面を読み、それに合わせて助言をすることだけ。ただのドアマットである私は、あなたの代わりに行動してやることはできません。私の策を聞いて動いた結果、生じるすべての責任を負うのはあなたです」
クラリッサは静かに、しかし力強く頷いた。
「構いません」
その瞳に、もう弱々しい光は微塵もなかった。
泥に塗れても決して消えることのなかった、誇り高き当主の血筋。真の貴族としての確かな自覚が宿った、気高くそして美しく冷徹な瞳がそこにあった。
素晴らしい。これこそが主君としてのあるべき姿だ。
「実にいい目つきですね。最高です。……是非ともその高貴な瞳で見下ろしながら、私のことを思い切り踏み躙っていただきたいものです」
「…………は?」
「ああ”っ……! そのゴミでも見るような冷たい視線、堪らないっ……!」
サーッ、と。
せっかく取り戻したばかりのクラリッサの覇気が潮が引くように消え失せ、代わりにドン引きの表情が浮かんだ。
普通ならここで悲鳴を上げるか、気味悪がって逃げ出すところだろう。
だが、覚悟を決めた女は違った。
彼女は私の言葉を完全に無視し、乱暴に端を引っ掴むと、足早に玄関ホールへと戻っていった。
そして定位置にバサリと私を敷き直すなり、すんっ、と感情を消した無表情になり……
ドンッ!!
そのみすぼらしい平底の靴で、私のど真ん中を、怒りと体重を乗せて思い切り踏み抜いた。
「んごァッ!? ぁ、あ”あ”ぁ”あ”ァっ……!!」
私の繊維の奥から、文字にするのも憚られるようなひどく汚らしい喘ぎ声が漏れる。
だがクラリッサは、足裏から響く絶叫など完全にどうでもいい環境音として聞き流し、極めて冷徹な声で私を見下ろした。
「……で? 私は具体的にこれからどう動けばいいんですか」
「オ、お゛ぉっ……! 教えますっ! 全て教えますぅっ!!」
足の裏で蹂躙される至上の喜びに、私は高らかに全面的な協力を誓ったのだった。




