3.軽蔑
「げ、幻聴……?」
娘は青ざめた顔で自分の耳を押さえた。頬が引き攣っている。
突然足元のマットが喋り出したのだ、至極当然の反応だろう。
「幻聴ではない。こちらだ」
「……?」
「足元だ」
彼女はおそるおそる視線を落とした。そこには当たり前だが、綺麗に土を払われたばかりの長方形のドアマットが敷かれているだけだ。
彼女は、じり……と一歩下がった。それから更にもう一歩。あからさまに逃げようとしている。
まずい。この絶好の機会を逃す手はない。
私は可能な限り穏やかに、紳士的に、顔はないがにこやかに、最大限の誠意を込めて申し出た。
「踏んでいただけませんか」
「……は??」
「先ほど、あなたは私を跨いで避けていかれた。あれは非常に困るのです。私は皆様の足の裏の汚れを受け止め、踏みにじられるためにここに存在している。どうか遠慮なさらず、その靴で体重をかけて、思い切り」
「え、あの、えっ?」
「さあ! どうぞ! お好きなように!」
彼女はまじまじと私を見た。
すると、不意にその目の色が変わった。
それは、喋る物体に対する恐怖でも、ありえない現象への驚愕でもない。
もっと生々しく、もっと率直な感情。
道端で潰れた虫の死骸を見つけた時のような、あるいは腐臭を放つ生ゴミの底を見た時のような、絶対的な生理的忌避。
そう、軽蔑だ。
まごうことなき、純度100%の軽蔑の視線だった。
「き、気持ち悪い……っ」
耐えきれないといった様子で吐き捨てるように言った。
「ありがとうございます! 踏んでください!」
娘は完全に硬直していた。
声にならない悲鳴を飲み込んだまま、目は限界まで見開かれ、唇はわななきながら半開きになっている。
恐らく必死に自分に言い聞かせようとしているのだろう。これは幻聴だ、と。
しかし、彼女の必死の現実逃避は上手くいっていないようだった。
まあ無理もない。ただの薄汚れたドアマットから「踏んでくれ」と歓喜の声で懇願されるなどという事態は、彼女の純粋な脳が処理できる範疇を完全に超えている。
私は、次なる快感を待ちわびていた。
さあ、その蔑みに満ちた瞳で見下ろしながら、私を容赦なく踏みつけてくれ。と、期待に胸をはち切れんばかりに膨らませ、全身の繊維を逆立てて待機していると……。
「こら! いつまでそこでグズグズしているんだい!?」
突如、玄関ホールに鋭い怒号が響き渡った。
気配の先には、糊の効いた立派なメイド服に身を包んだあの年老いた侍女が、眉間に深いシワを寄せて立っていた。
「さっさと厨房の灰掻きをやらないか! この役立たず!」
「ひ、ひぃっ! ただいま参りますっ!」
娘はビクッと弾かれたように我に返ると、もはや喋るマットに構う余裕すらなく、大慌てでホールの奥へと駆けていった。
嵐のような足音が去り、再び静寂が戻った玄関ホール。
踏まれることなく放置された私は、冷たい石床の定位置で、急速に冷静さを取り戻しながら思考を巡らせた。
……ふむ。
あのみすぼらしいつぎはぎの服装。昨日から続く理不尽な叱責。そして今の、異常なまでの怯えよう。
どうやら彼女は、この屋敷において極めて地位が低いらしい。
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翌日の早朝。
近づいてくる足音の気配で彼女が来たと分かった。昨日と違いその足取りは恐る恐るとしていたが。
「おはようございます、お嬢さん」
「ひぃっ!?」
短い悲鳴が上がり、彼女の足がピタリと止まる。
「本日も私のお手入れですか。いやあ、昨日は客人が少なくて、随分と寂しい思いをしたのですよ。さあ、遠慮はいりません。おはようの挨拶代わりに、どうか私を思い切り踏んで……」
「…………っ」
彼女は私の懇願を完全に無視して、バサリと両端を掴み上げた。そのまま顔を背けるようにして、足早に外へと私を連れ出す。
パンッ! バンッ!
朝の冷たい空気の中、リズミカルな破裂音が響く。彼女は昨日と同じように、私の面を容赦なく打ち据え始めた。
うむ。踏まれるのとはまた違うベクトルだが、この均等な打撃も悪くない。
「いや、実にいいスナップだ。……そうそう、昨日は客人が少なかったと言いましたがね。午後にお見えになった若い男性、あの方の踏み方は実によかったですよ」
バンッ!
「若々しく傲慢で荒々しい。靴底からダイレクトに伝わるあの自己主張の激しい踏み込み……。将来有望な若君とお見受けしました。ああ、ただ靴底の感触がどうにも……」
ピタリ、と。
突然、私を打ち据える手が止まった。
「……それ、私の婚約者です」
頭上から降ってきたのは、ひどく冷たく暗い声だった。
「ほう?」
「……元、ですけど。今は妹の婚約者です」
妹、というのはおそらく、一昨日あの豪奢なドレスを着て私を踏みつけていったご令嬢のことだろう。
なるほど。点と点が繋がった。
「やはり。何となくそうではないかと思っていましたよ」
「え……?」
「あなたは、ただの下働きの侍女ではないですね?」
「どうして、それを……」
彼女は戸惑ったように目を瞬かせ、手元の私を見下ろした。
「所作の端々に誤魔化しきれない品が滲み出ている。私を持ち上げる時の指先の揃え方、歩く時の重心のブレのなさ……。少なくとも幼少期には、かなり高度な礼儀作法の教育を受けていたとお見受けしました」
「……マットのくせに」
「ありがとうございます」
彼女はふっと自嘲気味に笑い、それからポツリと、重い口を開いた。
「私……この家の、長女なんです」




