15.真の当主
ある日の早朝。
澄み切った朝の冷気が漂う中、玄関の扉が開かれ、私はひょいと持ち上げられて外へと運び出された。
パンッ! バンッ!
小気味よい音と共に、私の面が強く打ち据えられ、溜まっていた数日分の泥や埃が朝の光の中に舞い散っていく。
「……しばらくお掃除できなくて、ごめんなさい」
私を叩きながら、クラリッサが小さく謝罪の言葉を口にした。
Xデーの喧騒が去って、しばらく。
あの日以来、屋敷は後見終了の手続きや後始末で慌ただしく、私のもとへ来る余裕がなかったのだろう。
見上げれば、彼女が着ているのはあの痛ましいつぎはぎだらけの使用人服ではなかった。
装飾こそ控えめでシンプルだが、一目で仕立てが良いと分かる上質な生地のドレス。当主としての威厳と、彼女本来の気高い美しさが映えていた。
「お気になさらず。汚れが繊維の奥までねっとりと絡み続ける感覚も、あれはあれでなかなか乙なものでしたから」
「……相変わらずですね」
私の言葉に、クラリッサは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ。
当主として実権を取り戻し、屋敷の者たちを顎で使える身分になっても、彼女はこうして私を外へ運び出し、自らの手で埃を払ってくれている。
この時間だけが、誰にも邪魔されずに私と会話できる唯一のひとときだからだ。
「改めまして。当主就任おめでとうございます、お嬢さん」
「ありがとうございます。……でも、ボロボロですけどね」
私の祝福に、クラリッサは苦笑いを浮かべて手を止めた。
「闇金による莫大な借金こそ回避できましたが……お義母様が領民から無茶な搾取をしていたせいで領地は疲弊しきっています。順風満帆とはとても言えない状況です」
嘆息する彼女の言う通りだった。
法廷や王家に訴え出て、義母の行為を背任として断罪し、全て取り返すことも不可能ではなかったかもしれない。だが、裏社会の闇金が絡んでしまった以上、下手に法的手段に出て彼らを刺激するよりも、すべてを手切れ金として放棄し、完全に縁を切る道を選ぶしかなかったのだ。
結果、伯爵家に残されたのは、痩せ細った領地とほとんど空になった金庫、そして疲弊しきった領民たちだけ。
辛うじて救いだったのは、闇金が回収しきれなかったわずかな現金と、家令が領地運営用として別に管理していた資金が存在していたこと。
とはいえそれも命綱にすぎない。領地を立て直すには到底足りなかった。
「……でしたら、王家や公的機関から融資を受けるのも一つの手ですよ」
私は、ある一つの選択肢を提示した。
「融資……また、借金をするということですか?」
クラリッサの声がわずかに強張った。無理もない。彼女はつい先日、借金というものがどれほど人を食い潰すかを、その身で味わったばかりなのだから。
「お気持ちは分かります。ですがお嬢さん、一つ覚えておいてください。借金は二種類あるのです」
「二種類……?」
「ええ。良い借金と悪い借金です。そして義母がしたのは悪い借金。ドレスも宝石も確かに物としての価値はありますが、そこから新しい富が生まれることはありません。投じた金が次の金を生まない。返す当てもないのに、ただ財を減らしていくだけです」
私は一拍置いて続けた。
「ですが、あなたがこれからするのは良い借金です。借りた金でまず搾取を止め、領民に種と農具を返し、逃げた者を呼び戻す。今は損に見えるでしょう。ですが数年で土地が息を吹き返せば、領民を追い詰めることなく、以前より安定した税収を得られるようになる」
私の言葉に、クラリッサはハッとしたように目を瞬かせた。
「持たざる者が最速で這い上がるには、他人の資本を使うのが最も合理的です。とはいえ、王家や公的機関も慈善事業ではありませんから、確固たる数値と論理に基づいた計画書を作りなさい。正統な当主であるあなたが明確なビジョンを提示すれば、彼らから融資を引き出せる可能性は十分にあります。」
完璧に意図を咀嚼した彼女は、力強く、そして深く頷いた。
「ええ、分かりました。セバスチャンと共にすぐに計画書を作成します」
やがて綺麗に土を払われた私は、再び屋敷の中へと運び込まれ、玄関ホールの定位置に丁寧に敷き直された。
ふと視線を上げると、廊下の向こう側で、あの老侍女が床板を必死に磨いている姿が見えた。ひどくバツが悪そうに肩を縮こまらせながら、それでも手を止めることなく慌ただしく働いている。
「……結局、あの侍女は解雇しなかったのですね」
「マットさんのアドバイスのおかげです」
クラリッサは、冷徹な瞳で老侍女の背中を見つめながら静かに答えた。
あの激動のXデーの夜。
事の顛末を私に報告しに来たクラリッサの瞳には、まだ恨みの炎が燻っていた。
『次は、私を直接虐げてきたあの侍女です。明日にでも屋敷から叩き出してやります』
長年の恨みを晴らそうと息巻く彼女を、私は静かに諭した。
『お気持ちは分かりますが、感情だけで盤面を動かすのは三流のやることです。真の王たるもの、時には私情を排し、冷静に損得を量らねばなりません』
『損、得……』
『今の伯爵家には、新しく信頼できる使用人を雇い、一から教育する余裕などありません。あの侍女は人格に問題こそありますが、屋敷の仕事そのものには慣れている』
『ですが、あの人は私を……』
『ええ。だから無罪放免にしろとは言いません』
私は淡々と言葉を続けた。
『他の使用人に命令できる立場を剥ぎ、家令の監督下で掃除や洗濯といった下働きだけをさせればいい』
『……』
『生活は奪わず、権力だけを奪うのです。家族を養うために給金が必要な者であれば、次に職を失うような真似はしないでしょう。少なくとも、無一文で放り出して逆恨みさせるよりは扱いやすい』
私からのアドバイスに、クラリッサは初めこそ戸惑い、激しい葛藤を見せていた。
だが、私の言葉の意図を懸命に咀嚼し、やがて「……考えてみます」と静かに答えたのだった。
そして今、廊下の向こうには、かつての威勢を完全に失い、ただ黙々と働き続ける老侍女の姿がある。
「……マットさんの言う通り、追放して恨みを抱かせ、新しい人を雇い直すより、権限を奪ってセバスチャンの監督下で働かせる方が今の伯爵家には有益だと判断しました。……もちろん、許したわけではありません」
そう語るクラリッサの横顔には、もうかつての怯えきった少女の面影は微塵もなかった。
一時の感情に任せて切り捨てるのではなく、たとえ嫌悪する相手であっても、伯爵家に利益がある限り配置から外さない冷徹さと合理性。
私が授けた知識を、彼女は自分自身の力として完全に使いこなしていた。
「では、私は領地の仕事をしてきます。……ここで、いい子にして待っていてくださいね」
そう告げると同時に、クラリッサの真新しい靴底が、私の面の中央へとゆっくりと下ろされた。
乱暴な一撃ではない。
私の繊維の最も敏感な部分を的確に捉え、じわじわと体重を乗せ、逃げ場のない圧倒的な圧力で深く深く踏みしめてくる。
「あ"ぁッ……! お、お"ぉォ……ッ!?」
私は強烈な快感に打ち震え、布の身体の隅々まで歓喜の声を上げた。
見上げれば、クラリッサはぞくりとするほど妖艶で、どこか嗜虐的な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
逆らえない絶対的な主君の重み。
そして何より、私の構造を完全に把握しきった、寸分の狂いもない完璧な足捌き。
彼女はすでに、私という存在がどこをどう踏まれれば一番悦ぶのかを、恐ろしいほど正確に熟知していたのだ。
「ふふっ。行ってきますね、私の可愛いマットさん」
踵を返し歩み出していく美しき真の当主の背中を、私は極上の余韻と踏みしめられた快感に悶えながら、ただ恍惚と見送ることしかできなかった。




