偶然か必然か(伯爵・博貴)
わたしたちは、何かに操られているのではないか――。
そう思うことが度々ある。
自由に生きているようでいて、その実、行動のすべてを何者かによって操作されているのではないか――。
あの日の出来事も、そんな想いをいっそう強くする。
なぜ、あの日、わたしたちはあの場に居合わせたのか。偶然にしてはあまりにも出来過ぎていた。
「神護家の男をひとり攫ってこい。われわれには神護の血が必要だ」
王は、わたしと公爵にそう命じた。
夏のある時期、神護家の男たちは必ず尸皇のいる館を訪れる。その途中を狙えと。
彼らが住む家も、尸皇の館も強力な結界が張られている。狙えるのは家からも館からも離れているときだ。しかも、人目の多い都会からも離れていなくてはならない。我々の存在を不用意に人間に知られることがあってはならない。人間はやっかいだ。かつて火あぶりにされたわたしは、そのことを嫌というほど実感している。
わたしたちは、王と共に日本を訪れると、諏訪湖畔に建つ、我々の眷属となった人間たちが運営するホテルに拠点を構えた。
神護の男たちは、わたしたちが訪れる前日に館に入っていた。だから、狙うのは帰路だ。
彼らが帰宅のために辿るであろうルートと、極力人目に付かぬ場所を調べ、襲撃するポイントを決めようとしていた。
あの日、あの赤いアーチ橋にいたのは、偶然か必然か。
わたしと公爵は外国人旅行者を装って、いかにもそれらしい服装をしていた。夫婦っぽく見えるように手をつなぎ、写真を撮ったりしながら周辺を観察していた。
この橋よりも館に近いと、いくら気配を消しても館の血種たちに気取られるだろう。狙うならこの橋か、市街に下る途中か。
観光客がそれなりにいるが、都会のど真ん中よりはマシだ。奴霊を使って人間の視界をごまかし、さらに記憶操作もすれば問題ないだろう。
そう判断して車に戻ろうとしたとき、公爵が急に険しい顔をして、橋の向こうへ目を向けた。
男がひとり子供を抱えて走ってきた。
公爵の全身の筋肉が臨戦態勢に入ったのを感じた。
いったい何が――?
困惑しているわたしの目の前で、その男は子供を橋の下へ放り投げると、自らも手すりを乗り越え身を投げた。
公爵が、男が飛び降りた方へ走り、橋から飛び降りた。
何が起こったのかわからぬまま、わたしも後を追った。
血の匂いがした。
今まで嗅いだことのないような、甘い香り。
昆虫たちが花の蜜に吸い寄せられるように、わたしの全感覚がその匂いに惹かれる。
「神護の血……」
公爵が小さな声で呟いた。
これが、神護の血……?
あまりにも甘美で、あまりにも蠱惑的で、あまりにも危険な匂い。知らず知らず喉が鳴る。
ザッと音がしたので、魅惑的な血から視線を逸らし、音の方へ目をやった。
小柄な、少年とも大人ともつかない男が、倒れた子供の横に立ち、こちらを睨みつけていた。
全身の毛がチリチリと逆立つ。この男は危険だと、体中の細胞が警告を発している。
いけない――。
公爵がじっとしているはずがない。強い相手を見つけると、戦わずにはいられない公爵が。
こんなところで戦えば、人目を惹かずにはいられない。
ふたりがかりで戦えば、負けることはないだろうが、簡単に倒せる相手とは思えなかった。
しかし、公爵は動かなかった。
相手も、こちらに仕掛けてくることはなく、死んでいると思われる子供を抱き上げると、こちらを警戒しながら橋の上に戻っていった。
「今度出会ったら、殺す」
公爵は牙を剥き出して唸ると、流木の枝に串刺しになって血を流している男を、ひょいと持ち上げ、肩に担いだ。
「王のところへ急ぐぞ」
任務を優先したらしい。常に戦わずにはいられないマッドな男に見えて、なんらかの基準によって自重できるところが不思議だ。長年一緒にいながら、未だにこの男のことはよくわからない。
奴霊を呼び出し、血が滴らないように男をくるむ。
わたしは車の後部座席に乗り、公爵から神護の男を受け取る。膝に頭を乗せると、自分の指に牙を立てて穴を開け、滴る血を男の口に垂らした。傷をふさぎ、王の元に行くまで、この男の命を永らえるためだ。死んでいてもたぶん間に合うだろうが、リスクは冒せない。貴重な神護の血だ。
周囲に血の霧を撒き、人間たちの記憶を消した公爵が運転席に乗り込み、車を発進させた。
わたしの膝の上で、男の顔は青ざめていた。
東洋人の年齢はわからない。まだ十代の子供のようにも見えるが、眉間にしわを寄せた表情には人生の苦悩を知っているようにも見える。
この男に興味を持ったわけではない。しかし、血の匂いに、何とも言えないそそる匂いに、強く惹き付けられる。
「味見をしようなんて思うなよ」
見透かすように公爵が言った。
「気を付けろ。その血は危険だ。その匂いは、俺たち血種を狂わせる。無暗に手をだそうなんて思わないほうがいい」
「かもね……」
わたしは、剥き出しかけていた牙をひっこめて、かわりに手でそっと男の頬を撫でた。
男の頬は涙で濡れていた。
確認したが、意識は戻っていない。
ではこの涙は、意識を失う前のものか。
この男はいったい何を泣いていたのだろうか?
子供を殺した罪に対してだろうか?
死に損なった自分自身に対してだろうか?
それとも、その両方か。
わたしが、この男の血の匂い以外に興味を持ったのは、たぶんそれが最初だった。
一緒に死ぬつもりが、自分だけが生かされてしまった恨みと、償えぬ罪と向き合い続ける苦しみを、この男もやがて抱くようになるのだろうか――?
***
男の世話をやらせて欲しいというわたしの願いを、王はあっさりと承知した。
それは、たまたま王がそういう気分になっていた偶然なのか、それとも、王ですら何か大きなものに操られていることによる必然だったのか。
王の血を与えられて血種に変化し、繭から出てきた男に、わたしは遠慮なく牙を突き立てた。
これは儀式だ。牙を突きつける側ではなく、突きつけられる側であることを知らしめるための。
我々ヴァンパイアの中で〈生まれたて〉は、ヒエラルキーの最下層として常に吸われる側であることを体と魂に叩き込むための儀式だ。
わたしに血を吸われながらも、神護の男は乱れなかった。
なるほど。
これは、王からのプレゼントに違いない。吸血される際の官能に溺れて、貴重な神護の血を大盤振る舞いすることがないように。
わたしは、わたしに吸血されながら吐息のひとつも漏らさぬ男に少し腹を立て、なんの防御も学んでいない無防備な心に分け入り、記憶を啜った。
啜ってから、後悔した。
何なんだ。この男の孤独と愛と苦しみに満ちた過去は。
わたしは、うかつにも男の記憶に溺れた。やってはいけないことだった。避けるべきことだった。
自分の過去と、男の記憶が溶け合い、共鳴し合う。
この男は、どれだけ深くその女を愛していたのだろう。
まるで、二百年前に、わたしがわたしの男に抱いていたような、子供っぽい、でも、それゆえに、純粋で穢れのない、嫌になるほど真っ直ぐな想い。
男の記憶を、自分の記憶から分離できなくなった。
これは、悪い兆候だ。
それでも、わたしは、この男の記憶を抱き締めた。大切に、抱き締め続けることを選んでしまった。
神護博貴――。
その名を、自分の魂に刻んでしまった。
***
最期のとき。
男爵に毒のナイフで刺されて倒れた博貴に、わたしは自分の血を飲ませた。少しでも回復させて楽にしてあげたいという気持ちもあったが、今まで伝えたことがなかったわたしの気持ちを、最期だけは伝えたくなったのだ。気付かぬまま逝かせるなんて、許せなかった。
「伯爵……お前、まさか、本気で俺に惚れていたのか?」
博貴は、目を見開いて笑った。
寂しさと、悲しさと、そして優しさに満ちた目が、その瞬間、わたしだけを見ていた。
そう、このまなざし。このまなざしを、わたしだけに向け続けて欲しかった。でも、それは望めない夢だと知っていた。彼の目はいつだって、彼の大事な人だけを見ている。悔しいけれど、そんな彼だからこそ、わたしの心は持っていかれた。
「バカ……」
小さく呟き、わたしは博貴の唇に自分の唇を押し当てた。
博貴は拒まなかった。受け入れてくれたのではないことはわかる。彼の優しさを、わたしにもほんの少しわけてくれただけ。
「バカはお互いさまだろ?」
博貴は笑って目を閉じた。
そして、わたしは、わたしの宿命に従って、好きになった男を殺す。またしても、この手で殺す。
これは単なる偶然か。それとも、何者かに導かれた必然だったのだろうか。
わたしたちを見下ろす大いなる存在を感じる。
わたしたちを駒として使う、大いなる存在。
逃れられない運命に導く何者か。
そいつに言いたい、最初の男に会わせてくれてありがとう。博貴に会わせてくれてありがとう。
そして、クソくらえ!




