全力疾走(寅三・博貴)
ヒロ君、私とキミで、実に大人げ無いかけっこをしたことを覚えているかい?
キミの兄貴とユミちゃんの結婚式で、一族全員が館に集ったときのことだよ。
何か深い悩みを抱えていることはわかっていたのだよ。キミは自分じゃポーカーフェイスを貫いているつもりだったろうがね。年寄り連中の目にはそんな化けの皮はとうにはがれていた。キミの両親や叔父叔母は気付いていなかっただろうがね、祖父母あたりはみなキミの異変に気付いていた。当然私もだよ。
キミを本気で走らせた。
ほら、何かを乗り越えるときは、無心の必死さが必要だろう? そんなことはキミだって知っているだろうけれど。何かに本気で挑んだ先にしか、本当に大事な物は手に入らない。
キミが心の奥に秘めたものを明かしてくれれば、私はキミの助けになれると思っていた。
キミと血のつながる一族の最年長者として、やがて尸族となる定めであるキミの先輩として、キミの闇になんらかの光を灯してあげることができるのではないかと。私は、そう思った。キミにとって私は、頼りにならない傲慢なクソジジイでしかなかったのかもしれないがね。
ふたりっきりで三回全力疾走した後に、機会を与え、水を向けても、キミは胸中の闇をひとりで抱えることを選んだ。とんだ頑固っぷりだ。そういうところ、いったい誰に似たんだろうねぇ、本当に。
かけっこで、キミは本気の私には絶対に勝てない。
かなりのハンデを与えてさえ、キミは私に勝てなかった。
だから、私は油断してしまったんだろうかねぇ。
あの日、キミがシン君とユウ君を斬りつけて、マー君を抱えて逃げた日も、私はキミに余裕で追いつくことができると思ってた。思いあがっていた。
血種の身体能力で走る私を、キミは見事に振り切った。振り切ってしまった。
私が、あの赤いアーチ橋にたどり着いたときには、キミはすでにマー君を放り投げて、欄干を乗り越えるところだった。
私は間に合わなかった。
私の全力疾走が、間に合わなかった。
すべての思考が停止したまま、私はキミを追って橋から飛び降りた。
降り立った河原で見つけたのは、首を折って死んでいるマー君と、流木に体を貫かれて死にかけているキミ。そして、あいつらだ。
金髪の男と銀髪の女。ふたりが圧倒的な力を持つ忌族であることはすぐに見て取れた。
私と互角か、それ以上。
たとえ勝ったとしても、かなりの時間を要するだろうよ。それはダメだ。時間をかけることで多くの人間に目撃されることも、マー君が手遅れになることも避けたかった。だから――。
だから、私はキミを見捨てた。
あの時の私の気持ちはキミにはわかるまい。
数か月前、私は老師に従って国外に出た。
マー君から、シン君とユミちゃんがキミに殺されたと連絡が入ったとき、私はすぐにでも日本に戻りたかった。しかし、老師がそれを許してくれなかった。
私はジリジリした心を抱えながら、それでも老師に従い、各国に散らばる尸族の先輩たちの元を巡っていた。
やっと館に戻ってきた日、マー君からユウ君がこちらへ向かったとの連絡を受けた。
私は、老師に確認を取ることもなく館を飛び出し、ユウ君が乗っている列車に急いだ。
館に入る前――それがキミがユウ君を狙える最後のチャンスだったからだ。
列車にたどり着き、使霊を使って扉を開くと、疾走する車両に飛び乗った。
車内には、マー君の気配がなかった。
まず思ったのは、キミに倒されて車外に放り出されたのかもしれないということだ。
次に、やられたのだとすると、傷の具合はどうなのか。助けが必要なほどの深手なのかどうかが気になった。
そこで思考を止めた。今最も大事なのは、ユウ君の身の安全だ。マー君のことは後で確認すればいい。血種は死なない。たとえ、地獄の責め苦のような痛みと苦しみを味わっていたとしても。
車内に意識を集中し、キミとユウ君の気配を見つける。
そちらへ向かって車両をいくつか走り抜け、そして、今まさに彼を殺そうとしているキミを見つけた。
ユウ君の心臓を握りつぶそうとしているキミを見たときも、私の心の中にあったのは、キミへの詫びと、忌族にされてしまったキミへの憐れみの情だったのだよ。
それでも、〈手遅れ〉の痛みを二度と味わいたくなかったゆえに、間髪をおかず、躊躇いもなく、キミの腹に穴を開けた。
キミの目に、私への恨みが見えた。忌族への憤怒が見えた。老師への憤りが見えた。そしてキミ自身に対する否定と絶望が見えた。
その闇の深さに、私の心は一瞬怖れと哀しみに満たされ、動けなくなった。
キミを捕まえられなかった。
キミを留めることができなかった。
また、キミをこの手が届かないところへ行かせてしまった。
このあと、もし、再びキミと会う機会があるとしたら、おそらくそれは、互いに互いを傷つけ合うことになるだろうが、私はキミに負けないよ。
私はキミを切り刻んだあと、キミに言うだろう。
キミを助けられなくて済まなかった――と。
キミは、そんな私の言葉に唾を吐くだろうか?
それとも、笑うだろうか?
そんな機会があるといいのだがと思う反面、二度と会うときが来ないことも願っている。私はキミを切り刻みたくはない。
キミがそうやって頑なにひとりで惑い、ひとりで迷う道を選んでしまうのは、いったい誰に似たんだろうかと不思議だったけれど、なんとなくわかったよ。
私だ――。




