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31.プリムローズ、逃げ切る

 せっかくミリアムに逃してもらったのに、二日間も飲まず食わずだったせいで、足がもつれてうまく走れない。というか、このまま走り続けるのは体力的に厳しすぎる。はあ、はあ、と呼吸を乱しながら、気が遠くなりそうな意識をなんとか保つ。途中で休んで息を整えないと、目の前が白く明滅して、倒れそう。

 茂みや木々の間を分け入って、しばらくそのまま進んでいくと、慣れ親しんだ『星導街道』が姿を現した。お父様やお母様に連れられて他領へ行く時によく使ったっけ。よし、と私はドレスについた葉っぱや枝を払って、『星導街道』へ一歩足を踏み出そうとした。

 ヒュン、と矢が私の耳を掠めていった。


「逃さん……!」


 聞き覚えのある声に振り向いた。 『狩人』が追ってきている。しかも複数人、黒い影のような服を纏った間者が。真っ直ぐ、私の方へ狙いを定めて。

 走り出そうとして、かくん、と膝の力が抜ける。思い切り転んで、体のいろんなところが擦りむけた。背中に殺意が迫るのに、『至上の青』は前のように光らない。遠くで馬の嗎が聞こえる。ああ、だめ、もう動けない。

 ごめんなさい、と。誰に向けたのかわからない謝罪が口から漏れた。


「させるものかッ!」


 振り向けば、背後まで迫ってきていた間者が、驚きに目を見開いていた。マティアス様が、間者の短剣を受け止めながらそこにいた。ガキン、と重たい音が響く。


「は……!?」


 『狩人』の手にしていた短剣の刃が、真っ二つに折られている。思わず私も口をあけた。剣って、折れるものなのね。


 襤褸の荷馬車から、目深に布を被った男が現れる。


「マテューはソラール一の剣聖だぞ。闇討ちならまだしも、正面から戦ってそのへんの間者が勝てるものか」


 男はふん、と間者達を睨め付けた。すらりと腰に帯びた剣を抜き去ると、剣呑な気配が漂った。『狩人』が殺気に身構える。空が明るくなっていく。私の援護に来た人たちがいる。影達は目配せをして、速やかにフォレスターの城へと戻っていった。


「待て、逃すか……ッ!」


 激昂し、鈍く光る緑の瞳。ぶわり、と吹いてきた一陣の風でばさりと被り物が外れた。襤褸布から姿を現したのは――やっぱり、セルジュだった。


「セルジュ、追うな」

「けど……!」


「お前が剣を向けたら、青橙戦争のやり直しになるぞ」


 黙って剣を納めたセルジュが、忌々しげに『狩人』の逃げていく背を見つめ――ふう、と息を吐いて、私の方へ視線を向けた。


「プリム……」


 意気消沈、という形容が一番似合っている気がする。とぼとぼと私へ近寄るセルジュがどうしてか愛おしく思えて、私は両手を広げて彼へ飛びついた。


「セルジュ!」


 何も言わずに、セルジュが私の体を抱きしめる。きつく、きつく。決して離さないと言うように。私も思い切り抱きしめ返した。彼の体温が、今は、とても、とても、懐かしい。


「来てくれたのね」

「当たり前だ! ……間に合って、よかった」


 セルジュが私を探してくれた。セルジュが、私を、見つけてくれた。嬉しい。ふと気づけば、目の前が滲んでいた。あれ、私、どうして泣いているのかしら。


「せる、じゅ。セルジュ……わたし、いきてる?」

「ああ。……ああ、確かにここにいるよ」


 セルジュの金色の髪が、深い緑の瞳が、ぼやけていく。輪郭を失った世界は全てがぼやけて見えて、ひどく不確かだった。嗚咽を抑えようとしても、止められない。どうして、辛くもないのに、悲しくもないのに涙が出るのだろう。


「……君はちゃんと、生きてる。よく逃げてきてくれた」


 セルジュが私の頭を撫でてくれる。手のひらが温かい。


「あー、ごほん。セルジュ、それにプリムローズ様、申し訳ない。だが、いつまでもここでベタついてるわけにもいかないと思いますので……ひとまずこちらへ」


 マティアス様が咳払いをなさって、私は顔が熱くなった。い、いけないわ。こんな、周りに人がいるところで、私ったら。


「マテューなんてそこの馬にでも蹴られてしまえばいいのに……」

「おい、聞こえてるぞセルジュ」


 じとり、とセルジュが剣呑な視線をマティアス様に向けていたが、実際マティアス様の言うことは正しい。一刻も早く、この場所から移動したほうがいい。案内されるまま荷馬車に入ると、


「奥様!」

 

 荷の隙間から、ひょっこりとジゼルが顔を出した。


「ジゼル! 来ていたのね!」

「ステラノヴァへの案内ですもの、私から買ってでました。……奥様、本当に無事でよかった」


 ぎゅう、とジゼルにも抱きしめられた。その様子を微笑ましげにセルジュに見つめられ、ちょっとだけ恥ずかしい。ひひん、と馬の嗎が聞こえる。マティアス様が御者台に乗ったのか、揺れとともに荷馬車が動き始める。

 まあまあの速度で走り出した馬車は、まっすぐ『星導街道』を走っていく。このままの速度でアステール領へ向かえるなら、出仕する前の父親に会えるかもしれない。


「しかし、僕らがフォレスター領へ乗り込む前に、君の方から来てくれるなんて驚いた。……自力で出たわけではないだろう?」

「……ミリアムが。助けてくれました」

「ミリアム・フォレスターが?」


 セルジュもジゼルも目を丸くしていた。無理もない、彼女の振る舞いを二人は知っている。屋敷であったことを簡単に話すと、二人は真剣に聞き入っていた。ジェラルド・フォレスターにされたことを伝えたら、ジゼルが顔を真っ青にしていたけれど。


「あいつ、社会的に抹殺しないと僕の気が済まないな……」


 セルジュに至ってはにっこりと微笑んでさえいた。私の夫は怒ると笑うタイプなのかもしれない。


「セルジュ、ダメです。あなたが動いては戦になります」

「……わかってるけど」


 ふい、とそっぽを向いてしまう。再開した後のセルジュは、ソラールにいた時よりも子供っぽい仕草をしていて、愛らしかった。


「そうだ。君が草むらに放り投げていった手記を読んだよ。……プリム。君、アステール王家の裔、だったのか」


 色々と納得がいった、とセルジュが呟いた。


「私も驚きましたけれど……確かに、納得はしているのです。私への教育も、公爵家の後継者に対するものとしてはちょっと過分だったと思っていたのですが、王族への教育だと思えばまあ、そんなものかなと」


 あの辛い日々を思い出す。両親も、祖父母も、きっと無自覚だったのだろうけれど、アステール王家のしきたりや教えを、連綿と受け継いでいたのだろうと、今の私にならわかる。ただ。


「今となっては昔の話です。……私は正当な王位後継者ではありますが、現ノヴァリア王家を蔑ろにするわけにもいきません。簒奪されたのが事実であれ、まずは事情をヘンリー王へお伝えしないと」

「まあ、そうだな。色々とややこしいことになっているし、まずは腰を落ち着けて話し合おう。

「ええ。お父様とお母様にも、ご報告申し上げる必要がありますし」


 襤褸い荷馬車の布が、少しだけ破れている。薄紫色だった空は青く色を変えている。隙間から陽の光が差し込んでいた。――日が昇り始めている。

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