30.伯爵令嬢、血迷う
夜明けが近い。
泣き疲れた私は横たわったまま、虚ろに世界を見つめて、力なく体を投げ出していた。遠くで、かつん、かつん、と階段を降りてくる音が聞こえる。また、フォレスター伯爵が『至上の青』を要求しにきたのだろうか。
もう、これを渡してしまえば、楽になれるんじゃないかしら。
私だけがこんなに頑張らなくたって。
そうよ。
世界は簡単に変わらない。
そんな諦観が首をもたげている。
確かに。全てを諦めて生きてきた女には、相応しい末路かも。目を閉じて意識を手放してしまおうと思った、そのとき。
暗い牢屋だというのに、何かが煌めいたような気がした。眩しい、と目を細めると、星明かりに照らされて、きらきらと輝く人影がそこにあった。
「ざまあないわね! プリムローズ」
フォレスター伯爵ではない。久々に聴いた声――ミリアムだ。ここがフォレスター領なら、当然彼女もいる。すっかり忘れていた。
ミリアムは扇子で口元を覆いながら、優雅に私のもとへと近づいてくる。部屋で着るためのゆったりとしたドレスにも金糸銀糸で刺繍がされていて、それが煌めいていたのだとわかる。
くすくす、と笑う声が牢屋の石壁に反響した。私をバカにしにきたのだろうか。
「み、りあむ……」
「あーあ、やだやだ。なにそのダミ声、信じられない!」
仕方ないじゃない、さっきまで大泣きしてたんだもの。そんなことを言う元気もなくミリアムをぼんやり見つめていると、パチン、と扇子が閉じられた。ミリアムの口元はぎゅ、と結ばれている。何かに怒っているように。
「ほんと、あんたを見てるとイライラするわ」
ちゃり、と音が鳴った。ミリアムの手に、鍵束が握られている。「これじゃないの……こっち? これかしら……」なんて言いながら、がちゃがちゃと音がする。しばらくして、ようやく牢の鍵が開かれた。なぜ、ミリアムが牢の錠前を外したのか。何かの、罠なのだろうか。
唖然としている間に、ミリアムが牢へ入ってくる。彼女が懐から短剣を取り出したとき、私は恐怖に慄いた。
――殺される!
ぎゅ、っと目を閉じて痛みを覚悟する。ああ、ごめんなさい、セルジュ。あなたに、愛してるって伝えたかった。
「ちょっと! 何勝手に死のうとしてるのよ」
「……え?」
ミリアムはそう言いながら、私の手足を縛る縄を短剣で切り落とす。そうして、懐から飴玉を取り出して、私の口に含ませた。少ししょっぱい。
「むぐ……」
「しっかり食べなさい」
毒でも入れられていたらひとたまりもないが、今のところはただあまじょっぱいだけの塊だった。こくり、と唾液を嚥下すると、多少、のどの渇きが潤う。ミリアムはその様子を眺めてから、水差しを口元に運ぶ。横たわった私の体を抱き起こして、視線だけで飲め、と促されているのがわかった。こくり、こくり、とゆっくり飲み込むと、少しだけ体が楽になった気がする。
「どう、して……?」
フォレスター伯爵家の彼女が、私を介抱する理由などないはずだ。彼女にとってはアラン様を取り合った間柄でもある。私が餓死するのを喜ぶ立場である彼女が、なぜ。
「ついてきなさい」
ぶっきらぼうに、ミリアムがそう言った。いつものミリアムらしくない。わずかに力が入るようになった足で、ゆっくりと牢屋を出る。転びそうになるのを、ミリアムが支えてくれる。
「見張りは……?」
「差し入れの水に眠り薬を混ぜてきたわ。しばらく起きないはずよ」
長い石造りの廊下を、二人で歩いていく。ミリアムは力の入らない私を肩にもたれさせながら、けれど確実に先へ進んでいく。追っ手が来る気配はない。言葉通り、本当に眠らせてきたのだろう。
まっすぐ歩いて、階段を登り。また歩いていく。突き当たりに、大きな鉄製の扉があった。分厚い扉の前で、ミリアムは大きな金の鍵を取り出し、錠前を外した。
「この扉から出れば『星導街道』への道に繋がってるわ。大きな道に出て、それからずっとまっすぐ行ったら、あんたの実家よ」
「ミリアム……どうして? あなた、私のこと、嫌いでしょう……?」
「本当にムカつくわね。ええ、あんたなんか大嫌いよ! 大嫌いだけど……あんたに死なれたら、私はどうやってあんたに勝ったって証明したらいいの」
途方に暮れたように、ミリアムがそう言った。ああ、彼女もフォレスター伯爵に利用されていたのかもしれない。そう思ったら、急に目の前の彼女を抱きしめたい気持ちに駆られた。
「ミリアム」
ぎゅう、と抱きしめる。抵抗はされなかった。少しだけ、彼女を抱擁して、それから離れる。ミリアムは吃驚していたけれど、不快だ、とは言わなかった。
「……なんだ、人間らしい顔、できるんじゃない」
は、と吐息だけで笑って、ミリアムは扉を指差す。
「ほら。ぼさっとしてないで、早く行ったら」
「でも、私を逃せば、ミリアムは……」
薄紫色の目にじろりと睨まれた。父親よりも明るくて、澄んだ色。綺麗、と思った。
「なんであんたって、こんな時まで他人の心配してんのよ! 自分の命を優先しなさいこのすっとこどっこい!」
ミリアムが重たい扉を引く。ギギギ……と軋んだ音を立てて、薄明るい空が見える。世界が薄紫色に照らされて、朝露が光っている。
「お父様には遅い反抗期だと思ってもらうわ。いい? 絶対死なないで」
「ありがとう、ミリアム」
私は礼を言って軽く頭を下げる。扉の閉まる音を背後に聞いて、そのまま、振り返らずに駆け出した。
☆
「あーあ……やっちゃった……」
鍵束をちゃり、と弄る。お父様を言い訳に、使用人を半ば脅す形でもぎ取って手に入れたのを、『狩人』たちやお父様は許さないだろう。
だけど。あの、冷たい女が。『凍て星』と呼ばれたプリムローズが、嗚咽を漏らしているのを聞いてしまった。生きてるみたいに涙を流すのを、見てしまったの。
あの、人形みたいな女が。
私の、ううん、ステラノヴァ中の令嬢が手本にしたいと願うほどに、輝いていた女が。
そう思ったら、反射的に体が動いていた。お父様は本気で彼女を餓死させるつもりだ。止められないなら、逃すしかない。
「折檻ですむかな……」
お父様に逆らったことなど一度もない。だから、今回だって逆らわずに、お父様の言うことを大人しくきいて、国母になろうと思っていた。本当にそう、思っていたのよ。
「もう、本当にバカなことした」
今でも自分のことが信じられない。だけど、不思議と気分はすっきりしていた。
そうよ。私は、こんなところで、私の理想が朽ちていくのを見たくないだけ。それだけなんだから。




