94、街道に立つ白い影
ゲルトさんの家を出たあとの馬車は、行きより少しだけ静かだった。
誰かが気を遣って黙っている、という感じではない。
ただ、わたしの中で何かが少し落ち着いたせいか、言葉を無理に探さなくてもよくなっただけだと思う。
幌が風に鳴る。
車輪が土を踏む。
時々、道の小石に乗り上げて荷台が跳ねるたび、ベルロウさんが「あー、もう」と面倒くさそうに腰を浮かせる。
「……顔、ちょっとましになったな」
向かいに座ったベルロウさんが、耳をぴくりと動かしながら言った。
「ほんと?」
「あーしを誰だと思ってんだ。鼻も耳もいいんだよ」
「便利ね」
「こういう時だけはな」
口調はいつも通りちょっと蓮っ葉なのに、言っていることはだいぶ優しかった。
アリアさんも、地図を畳みながらこちらを見る。
「話せたのね」
「うん」
「それで十分よ」
それ以上は聞かない。
ありがたいな、と思う。
何もかも全部、きれいに言葉にしなくてもいい。
そういう距離で一緒にいてくれる人がいるのは、思っていたよりずっと救いだった。
その日は宿場をひとつ越え、獣人の多い小さな集落で昼の休憩を取った。
干した肉の匂い。
道端で売っている硬い焼き菓子。
井戸端で笑う子どもたち。
耳や尻尾の形は違っても、暮らしている人たちの空気はどこも同じだ。
次の日は風の強い街道を進み、塩気の混じる空気の宿場で一泊した。
その次の日は古い石橋を渡り、馬の足を休ませながら、じわじわ東へ進む。
旅は、地図で見るよりずっと細かいものでできている。
食べる。
歩く。
揺られる。
眠る。
たまに景色に見とれて、たまに腰が痛いと文句を言って、たまに統にむかつく。
そういう積み重ねの先に、王都がある。それを実感し始めた頃だった。
その日の夕方、わたしたちは街道沿いの中くらいの宿場町に入った。
広場を中心に宿や道具屋や露店が集まっていて、旅人も商人もそこそこ多い。大きな街ほどじゃないけれど、逆にこういう場所の方が、いろんな噂や人の気配が混ざるのかもしれない。
馬車を止めたところで、広場の空気が少し妙なのに気づいた。
ざわざわしている。
でも市場の賑やかさとは違う。
もっと静かで、妙に整ったざわめきだ。
広場の中央では、白い布を肩や頭にまとった一団が、旅人たちに何かを配っていた。
小さな札。
紐で括られた護符。
薄い香の匂い。
「ああ、またあれか」
ベルロウさんが、露骨に嫌そうな顔をした。
「昼間の街道で見たのと同じ手合いね」
アリアさんが低く言う。
たしかに、雰囲気は同じだった。
静かで、よく揃っていて、そのくせ人を見る目だけが妙に鋭い。
「王都に近づくほど増えるってことかしら」
わたしが言うと、アリアさんは小さく頷いた。
「そう考えるのが自然でしょうね。寄付や救済を口実に、人の不安に食い込むのは、こういう時代の定番よ」
「すごく嫌な定番ね」
「ええ、本当に」
わたしたちはできるだけ関わらないよう、広場の端を横切って宿へ向かおうとした。
けれど、向こうの方が先に気づいた。
白布のひとり――柔らかな物腰をした若い女が、静かにこちらへ歩み寄ってくる。
「旅の方々、お疲れでしょう」
声は穏やかだった。
押しつけがましさもない。むしろ丁寧すぎるくらいだ。
「夜の安寧を祈る護符をお配りしています。よろしければ、おひとつ」
「結構です」
アリアさんが即答する。
女はそれでも笑みを崩さなかった。
「代価は要りません。救いは、必要な方へこそ届くべきものですから」
そこまで言って、女の視線が流れた。
アリアさん。
ベルロウさん。
ノッピーニオさん。
統。
そして最後に、わたしで止まる。
その瞬間、女の表情がほんの少しだけ揺れた。
驚いた、というほど露骨じゃない。
でも、何かを見つけた顔だった。
「……あなたは」
ごく小さく、そんな声が漏れる。
わたしは思わず足を止めた。
「え?」
「いえ……」
女はすぐに微笑みを作り直した。
けれど目だけが、さっきよりずっと慎重にわたしを見ている。
まるで、何かの印を確かめるみたいに。
「長旅でお疲れのご様子です。こちらは心を鎮める香草の札でして――」
「要らないって言ってるでしょ」
ベルロウさんが一歩前へ出る。
「あーしら、そういうありがてえもんに縁がなくてね」
女はベルロウさんを一瞥しただけで、またわたしを見る。
その視線が、妙にぞわっとした。
統に向けられる警戒とは違う。
もっとこう、値踏みというか、確認というか。
わたし自身、気配を完璧に隠せているわけじゃない。
統みたいに、存在感ごと綺麗に抑え込むなんて到底無理だ。
たぶん、わかる相手にはわかるのだろう。
それも、“統の方が危険”とは気づかないまま。
「……まさか、とは思いますが」
女が小さく言いかけて、そこで口を閉ざした。
代わりに視線を少し落とし、今度は統を見た。
でもその目にはさっきのような驚きはない。
従者か、付き添いの子どもか、その程度の認識なのだろう。
「お連れの方々にも、どうか安らぎが訪れますよう」
そう取り繕って、女は一歩下がった。
アリアさんが低い声で言う。
「行きましょう」
わたしたちはそのまま宿へ向かった。
背中に、まだ視線が刺さっている気がする。
宿は広場に面した二階建てで、食堂つきのありふれた街道宿だった。
部屋は狭いけれど清潔で、寝るだけなら十分。
夕食は塩漬け肉と根菜の煮込み、黒パン、それに薄いスープ。
いつも通りといえばいつも通りの味だったけれど、広場での一件のせいで、食卓の空気は少しだけ低かった。
「昼間の女、ドレミを見て止まったわね」
アリアさんが声を潜める。
「うん。統じゃなくて、わたしを見てた」
「そりゃそうだろ」
ベルロウさんがスプーンを置いた。
「スバルは抑えすぎだ。あれで引っかかるようなら相当なもんだが、今日の連中はそこまでじゃねえ。逆にドレミの方は、隠してるつもりでもまだ甘い」
「う、ぐ」
言い返せない。
「それに、ああいう手合いから見りゃ、お前の方が“それっぽい”んだろうよ」
「それっぽいって何」
「上に立つ側ってことだろ」
ベルロウさんは肩をすくめた。
「スバルは見た目が子どもだし、気配も薄い。普段の行いを知ってるやつじゃなきゃ、ただの付き添いか、せいぜい従者だと思う」
それは、たしかにそうかもしれない。
普段の統を知っている側からすると完全に逆なのだけど、初見ならそう誤解しても不思議じゃない。
アリアさんが頷く。
「向こうがドレミを“上の存在”として見誤ってる可能性は高いわね。昼の女の態度も、警戒というより確認に近かった」
「嬉しくない確認ね……」
「ええ、まったく」
わたしは無意識に統を見た。
統はいつもの無表情で、淡々とスープを飲んでいた。
「……何か言いなさいよ」
「何をだ」
「こう、否定とか」
「事実と違うなら、そのうちわかる」
「他人事ね」
「他人事だからな」
腹立つくらい落ち着いている。
でも、その落ち着きが少しだけありがたいのも事実だった。
アリアさんはグラスを置いて、声を低くする。
「王都に近づくほど、ああいう連中は増えるでしょうね。最近は『古き血』『夜の加護』『真祖の再来』みたいな噂を旗印にする集団が増えてるって、監査院でも話題になってる」
「真祖、ねえ……」
口に出した瞬間、自分でも変な感じがした。
わたしはそんな大層なものじゃない。
でも、だからといって人間だとも言い切れない。
その中途半端さが、最近いちばん厄介だった。
「ドレミ」
アリアさんが静かに言う。
「無理に割り切らなくていいわ。でも、向こうが勝手に意味をつけてくることはある。それだけは覚えておいて」
「……うん」
たぶん、それは正しい。
この世界の人たちは、自分が理解できないものに名前をつけたがる。
真祖。古き者。呪い。救済。
こっちがまだ何も決めていないうちから、勝手に意味を押しつけてくる。
それが、少し怖かった。
夜は更けた。
宿場町のざわめきも遅くにはほとんど消えて、窓の外に残るのは風の音と、たまに遠くで犬が鳴く声くらいになる。
眠れないわけじゃなかった。
でも、眠りは浅かった。
広場の白布。
女の視線。
真祖という単語。
そういうものが頭の隅でまだざわついていたからだと思う。
だから、夜中に気配が変わった時、すぐ目が覚めた。
冷たい。
宿の外の空気だけが、急に深く沈んだみたいな感覚だった。
わたしが身を起こした時には、統はもう目を開けていた。
「起きてるなら先に言って」
「起きたから見ている」
「うそっぽい」
「そうか」
そう言う声が平坦すぎて、ますます怪しい。
でも次の一言で、眠気は完全に飛んだ。
「面倒なのが来た」
「白布の連中?」
「それより上だ」
わたしたちは音を立てないように部屋を出た。
廊下の先では、すでにアリアさんたちも気づいていたらしい。ベルロウさんは双剣を手に、耳をぴたりと伏せている。
「外に一匹」
「“一人”じゃないのね」
「あーしの勘が、そっちはやめとけって言ってる」
「同感よ」
アリアさんが短く剣を抜く。
「宿の中でやられると面倒だわ。外へ」
わたしたちは宿の裏手へ回った。
草地が広がり、その向こうは低い林になっている。
月は薄雲の向こうで、光は弱い。
その闇の中に、ひとつだけ妙に輪郭のはっきりした影が立っていた。
黒い外套。
雪みたいに白い肌。
血の色みたいな赤い目。
見た瞬間、わたしの口から半分呆れた声が漏れた。
「……うわ」
もう一度見ても同じ感想しか出ない。
「またあんた?」
そいつ――アシュドラは、以前ダイスロープで見た時と同じ、やたら整った顔で薄く笑った。




