89、剥がれ落ちる古い絵の具
わたしの視線は、議席の最上段で安全地帯から戦況を見下ろしているソウギュと、彼が懐にしまった真新しい羊皮紙――王都貴族との裏取引の契約書――に釘付けになっていた。
あれさえ奪えれば、ソウギュの目論見は崩れる。奴自身の売国行為も、言い逃れできない証拠としてこの場に突きつけられる。
わたしは議場の混乱に紛れ、壁際の影を這うようにして階段を上がった。途中、柱の陰で震えている、神経質そうな中年男が目に入る。ソウギュの側近だ。
手鏡に男の姿を取り込んでから、背後に回り込み、首筋へ正確に手刀を叩き込む。男は短く息を漏らして崩れ落ちた。素早く物陰へ引きずり込み、わたしは手鏡の魔石に魔力を流し込む。
淡い光が全身を包み、次の瞬間、わたしの姿はその男のものに塗り替わった。
問題は、この先だ。
この手鏡は五分しかもたない。しかも、少しでも表情を動かせば映像がずれて破綻する。
(無になれ。笑うな、焦るな、顔を動かすな)
わたしは怯えて逃げてきた側近を演じ、小刻みな歩幅で最上段へ近づいていった。
「ひ、ひぃぃ……」
「なんだ、お前か。情けない声を出すな。この程度の混乱、すぐに私の私兵が鎮圧する」
ソウギュは一瞥しただけで、完全にわたしを側近だと思い込んだ。
「旦那様、あぶ、危のうございます。こちらへ」
わたしは顔を一切動かさないまま、庇うようにその腕へ手を伸ばす。
その指先が、豪奢な衣の胸元へ滑り込んだ。
懐にあった羊皮紙を引き抜く。代わりに、サコッシュに入れておいた白紙の束を差し込む。
一秒もかからなかった。
ソウギュは何も気づかない。
もらった。
そう思って一歩退いた、その時だった。
手鏡の魔石が、魔力切れを告げるようにじり、と熱を持った。
わたしの全身を覆っていた偽装が、足元から急速に剥がれ落ちていく。古びた絵の具がひび割れて崩れるみたいに。
顔に深刻なノイズが走った。側近の顔とわたし本来の顔が、モザイクみたいにぐしゃぐしゃに混じり合う。
「な、なんだお前は。顔が……溶けて……」
ソウギュが悲鳴を上げる。
もう隠れる意味はない。
わたしは魔力供給を断ち、偽装を解除した。
「ごきげんよう、悪徳商人さん。あなたの用意した三流の脚本は、ここで打ち切りよ」
奪った契約書を高く掲げる。
「き、貴様……いつの間にそれを! 返せ、それは私の未来だ!」
「統! 翻訳して、全員に聞こえるように読み上げて!」
議場の底で戦況を支えていた統が、滑るような動きで中央へ出る。
わたしの掲げる契約書へ視線を走らせ、そのまま氷みたいに冷たい声で内容を読み上げた。
「王国貴族院との特例条約草案。第一項、自治都市ボーダーは現在の議会制度を解体し、王都正規軍の駐留を無条件で受け入れる。第二項、街に蓄積されたすべての魔道具技術、および製造施設は王国軍の管理下に移譲される。第三項、これらの履行の対価として、署名人ソウギュ・ハーバーダにボーダーの永代統治権と莫大な報奨金を与える」
魔法で拡張された声が、礼拝堂の隅々まで響き渡る。
私兵たちの動きが止まった。
商人たちが、信じられないものを見る目でソウギュを見上げる。
「ソウギュ……貴様、本当に街を売る気だったのか」
「ソークを糾弾しておきながら、自分はそれ以上の売国を企てていたというのか!」
怒りの矛先が、一斉にソウギュへと向き直る。
大義名分は消えた。
こいつはもう、街を自分の保身のために叩き売ろうとした裏切り者でしかない。
けれどソウギュは、へたり込む代わりに笑った。
「……利益だ。都市は拡張される。それの何が悪い」
議場の空気が冷え切る。
その目に、狂犬みたいな光が宿った。
「構わん! その小娘を殺せ! 紙切れごと切り刻め!」
命令と同時に、周囲にいた精鋭の私兵たちが一斉にわたしへ飛びかかってくる。
アリアさんたちは一階で敵を抑えていて、すぐには届かない。
けれど、わたしに焦りはなかった。
「さて、ここからは小道具の活躍する時間ね」
サコッシュへ手首まで突っ込み、北区の露店で買い集めた愛すべきガラクタの感触を探る。
最初に掴んだのは、『迷彩盾』。隠れるまで三秒かかる、重量二十キロの鉄塊だ。
わたしはそれを、小石でも投げるみたいな気軽さで横薙ぎに放った。
鉄塊が空気を裂く。
最前列の私兵たちは反応すらできず、顔面に直撃を受けてまとめて吹き飛んだ。
実用性ゼロの防具は、規格外の筋力と組み合わせることで、凶悪な質量兵器へと昇華されたのだ。
「次!」
続けて引き抜いたのは『鏢刀』。戻ってくる時に使用者の手を切り裂く、救いようのない欠陥品だ。
分厚い本で持ち手を無理やり挟み、そのまま投げる。
湾曲した刃が不規則な軌道で空中を裂き、私兵たちの武器や兜だけを次々とはじき飛ばした。
やがて大きく弧を描いた刃が、勢いを殺さぬままこちらへ戻ってくる。
普通なら、ここで自滅だ。
でも、わたしにはサコッシュがある。
わずかに軌道がずれた瞬間、袋の口を広げて迎え入れる。
刃はそのまま吸い込まれるように消えた。
そこで、もう勝負は終わった。
一階の敵を片付けたアリアさんたちが合流し、残った私兵を次々と武装解除していく。
最上段では、ソウギュ・ハーバーダが血の気の失せた顔でへたり込み、自分の野望が崩れ去る光景を見上げることしかできなかった。
「チェックメイトよ、ソウギュさん」
わたしは彼を見下ろして言った。
「あなたの用意した脚本は、これで完全にお蔵入りね」
自治都市ボーダーが抱えていた三十年分の嘘と陰謀は、この朝、ついに幕を閉じた。
ステンドグラスを透かした朝の光が、その終わりを静かに照らしていた。




